早めの帰宅
そこからのことは、あまりに必死で詳細なことは覚えていない。
とりあえず体を廊下へと転がし、体を拭いて服を着替えさせて部屋まで引き摺りベッドへ放り込んで、死んだように眠る彼の体温が下がらぬよう秋口でまだ残暑があるというのに、思いっきりの暖房をかけた。
たまたまあった父親の服達がこんなう風に役立つとは思わなかったが、やはりツンツルてんといったところだ。全部が小さかった。
だがしかし、あのボロ布を着ているよりかは、寒くないだろうし。
あきらかに熱っぽい彼の体は、この肌寒くなった季節に雨を受けたせいで体調を崩したに違いなかった。先程までのあのぼーっとした態度、表情は体調を崩したことによるものだろう。彼、本当に死にかけてたのではないか。そんな風に思ってしまうと、拾ってよかったと少しだけ安堵する。
目を覚ましそうにない彼を横目に、翌日朝を迎えて出社の準備をする。
一晩寝たため、多少なりとも熱は下がっているように思う。
このまま放置して家を出るのも考えものだが、仕方がない。
昨夜作った栄養のあるスープとおかゆを置いて出社することに決めた。
今日拾ったことで、彼が少しでも生き延びられたのならそれでいい。ここに引き留める理由もないし、元気になって出ていったとてそれはそれで構わない。
死んだように眠る彼を横目に、身支度を整えて出社した。
昨日の夜とは違い、快晴の朝を迎えたここ東京の街は、相も変わらず沢山の人が行き交っている。向かう仕事場は、企業ビルの密集地であり、行き交う人々は皆自分の会社へと急いでいる。電話片手に仕事を始める彼らを見ると、やはりエリートが多いのだと感心してしまう。
そんな中では極々平均的であるし、むしろのほほんと仕事をしているきがする。だから昨日のように、残業時間だけが長くなっていくのだけど。
昨日でた裏口ではなく正式なビルの入り口には、昨日の夜出会った警備員がいる。彼らは基本的には2交代らしい。朝早くまで仕事だときいた。ぺこりと会釈をし前を通りすぎる。相変わらず愛想のよい顔で笑ってくれた。
この街に来てからの数少ない知り合いのようなものだ。
昨日の夜には帰っていなかった受付嬢達が恭しく頭を下げたり笑顔で迎え入れてくれたりする。可憐で綺麗な彼女達は、仕事で忙しく今から頑張る中年男性の癒しであろう。女性である自分であっても、彼女達は癒しである。
同じような朝、同じような始まり。
の、はずなのに。どこか世界が違って見えた。
なぜだろう。同じ朝であるはずなのに、雨上がりの朝はキラキラと輝いて青い空がどこまでも青く見える。
透明のガラスをまとったエレベーターは人をギュウギュウに押し込んで上っていく。いつもなら、加齢臭と男臭さで息を止める所なのに今日は一ミリも気にならない。
どこまでも青い空が、とても心地よかった。
いつもの仕事場へと続くフロアに到着し、降りていく波に乗る。昨日の静まり返った場所とは一変し、人が和気藹々と会話している様は活気上がってよい。皆、この雨上がりの心地よさに気分踊らされているのだろうか。
そんな錯覚さえ覚える自分が、いつもと違うのか。
自分のデスクへ辿り着くと面倒を見ている後輩がこちらを見てくる。
「おはよーございますー」
間延びした挨拶は、こなれた職場であるからこそなのだろう。入ってきてすぐの頃は、ハキハキとしていたのに。慣れとは人をここまでだらしなくさせるのか。
「おはよう」
彼の方を一瞥だけて、それなりの挨拶をする。そういえば、彼もあの子ぐらいの身長があったか。ひょろりと長い後輩くんは、それなりに引き締まった筋肉をもっていて細マッチョであること、仕事もそつなくこなす上にデキる男である。そこに清潔感があって爽やかであることから、最近の若手のなかでは彼氏にしたいランキング堂々の一位であろう。
もうそろそろ手の離れるであろう彼の仕事っぷりは自分を優に越えている。神は彼に一物も二物、いや沢山の物を与えたようだ。現に、彼に話し掛けようと待っているのは女子だけではない、上司もである。
自分だって、こんなデキる人間になりたかった。
「三神くん、ちょっといいかな?」
後輩くん争奪戦は上司に譲る形で不戦勝となる。
呼ばれた相手が上司であるならと態度を変えるところもまた、デキる男の良い所、といったところか。
ようやく席についた自分の心の中は、未だ晴れやかである。
目の前にはある程度出来上がった仕事がある。これなら、余計なものが入らない限り早めに帰られる。
今日はなるだけ早く帰ろう。あの子のために。
そう心に決めた。
「先輩」
けど、嫌な予感しかない。上司から解放された彼の手には分厚い資料。そして困り顔の彼。あぁ、早速前言撤回になるのでは。
「どうしたの」
困り顔をした彼に、何となく察した。これは、結構重たい仕事を言われたのだろうな。それも、責任者は彼と指名された、そんな所か。
「こんなにおっきい仕事、出来る気がしないんですけど」
「大分と弱気なのね。始める前からそれじゃぁ、成功するものも成功しないわ」
「もー、他人事だと思って。手伝って貰っても?」
やはり。助けて欲しくて話しかけてきたのだろう。
上司は、何も言わずとも私が手伝うであろうことを知っているのだ。私も放っておける性格ではないことも。相変わらずズルい。今回の案件で、ある程度の成功を納めれば、彼はまた戦力として成長できる。
それが解っているだけに、断るなどと言う選択肢はなかった。
「えぇ。私もいくつか抱えている件があるから、合間の時間だけなら手伝えるわ。それでもいい?」
「それで充分。先輩がいるのといないのとでは、雲泥の差があるんですから」
「買いかぶりすぎよ」
こういう持ち上げかたも、相変わらずうまいな。
「本当のことですって」
隣に座る彼は、上司から貰ったパンドラの箱をあける。
今日は早く帰れる自信がない。だが、努力はしよう。
家にはあの子がいるのだ。早く帰ってやらないと。
前なら帰る時間などいつでもどうでも良かったものだが、ここ数日間だけでも早く帰る、いや定時に帰ることなど悪いことではないはずだ。そう言い聞かせて、隣にできたデカイ案件がどのくらいか推し量ることが今の自分が真っ先に出来ること。今日の仕事をいかに早く終わらせるかを考えた。
◆ ◆ ◆
時刻が六時を回った頃。
予想通りと言えようか。やはり定時に帰ることはできなかった。昨日と違うところは、隣の後輩くんがまだ帰っていないことだろうか。今日は未だぽつぽつと人がまばらにいる。改めて時計を見て、自宅に残したあの子が気になる。大丈夫だろうか。
「もしかして、今日なんか予定あります?」
時計を見ていた自分に、何か察知した彼が怪訝そうに問いかけてきた。勘が鋭いのも考えものである。一緒に仕事をしているときは何ら弊害にならないが、こういうプライベートや敵に回したときは厄介者だ。自分がそんな素振りをあまり見せてきたことがなかったことも1つの要因であろう。
そう問いかけてくる彼に素直に観念した。
「予定とかではないんだけど。昨日拾った犬が心配なの」
「拾ったんすか? 犬を?」
あまりにも驚いた顔をする彼。そんなにも驚くことなのだろうか。
犬と表現する事に少し憚れたけれど、他に表現のしようがなかった。彼を犬と言わずなんと言うのだろう。人間と言うと、それはそれでまた誤解を招くことが沢山でてきそうだし。犬といっておくぐらいが、ちょうどよいであろう。嘘をついたつもりはなかった。
「なんか、そういうのスルーするタイプだと思ってました」
「そんなに冷たく見える?」
「冷たいと言うより、クールと言うか」
そんなクールだなんて。後輩に対してはできうる限り優しくそして解りやすくをモットーにしていたつもりだが。改めて言われると少し考えてしまう。自分がクールな先輩の雰囲気を嫌っていたから余計であろうが。
うーんと唸る自分とは違い、彼の顔は先程より晴れやかである。
「じゃぁ、また来週聞きますよ。お犬様のため、今回は身を引きます」
「帰っていいってこと?」
「本当は頼りたい所ですが。お犬様も大事な命ですし」
ふぅと、ため息をついた彼は資料をひらひらとたなびかす。帰ってくれと言う仕草なのだろうか。彼の仕事も気になるところではあるが、気持ちの大部分を占めているのは、お家のわんこである。ここは甘えさせてもらう方が良いであろう。
「ありがとう。じゃぁ、お言葉に甘えて」
犬と表現したところも救われた気がする。ややこしい話をする前に解放してくれた彼に甘えて、帰り支度をして会社を出ることにした。
いつもであれば 表ではなく裏口から出るところを、久しぶりに大きなエントランスから外へ出た。昨日の底冷えするような冷たさとは変わって、薄手のコートで凌げるほどの気候だ。10月末の気候など、このくらいのものであろう。一日過ごす会社のなかでは感じられない季節感を横目に、家路へ急ぐ。
帰りまでにあるスーパーによって、食べるものを考えた。何をつくって、何を食べさせればよいだろう。おいてきた野菜スープより、肉や魚を食べさせた方が栄養がつくだろうか。いや、そもそも、体調を崩しているのに重たいものが口を通ってくれるのか。そんなことをあれやこれやと考えていると、すぐに時間は経ってしまう。沢山物を買ってしまって大量の荷物と共にマンションの前に着いたところで、はたと我に帰る。
今更だが、彼は家から出ていないだろうか。
犬とは言ったものの、簡単に家から出ることのできる犬だ。あの時は何も思わず拾ってしまったし、考えずにいたけれど、彼の行動を制限しているわけではない。くくりつけたわけでもない。戻ったらいないのではないか。心配になって、マンションのなかを小走りした。今さらであることは重々承知であったが、早く確かめたかったのだ。
家にたどり着いて、ドアノブに手をかけた。
「しまって、る」
朝、鍵をかけて出た時からこのドアは開けられていない。そういうことだろう。犬は逃げてはいなかった。安堵した気持ちもつかの間、内側から鍵が開けられ、扉が開いたのだ。
自分の家の扉が勝手に開いたのだ。驚く自分とは真逆で、そこに立つ彼はこちらをじっと見てくる。
目を見開いた自分と彼との無言の衝突が続く。どちらも何も言葉を発せられない。目の前の彼も何も言ってこない。どうしようか。
「た、ただいま……?」
散々迷った挙げ句出てきた言葉はそんなところ。
何ら生産性のない言葉に自分でも辟易としてしまった。