はじまり
今日も仕事、明日も仕事。
昨日も仕事だったし明後日も仕事。朝から仕事に出て、それなりに働いて、家に帰って一杯飲んだらそれで終了。これといった特定の趣味もなければ、恋い焦がれるような相手もいない。毎日毎日それを繰り返して終わっていく。別にリアルが充実していない訳でもないし、それなりに友達だって居るし、休みがとてつもなく暇な訳でもない。きっと何かは足りていないのだろうけど、満足していない訳でもない。
それなりの生活をして、それなりに楽しい毎日である。
まあまぁ、満足している。
「城下さん、お先です。お疲れ様」
「はい、お疲れ様」
同じ社内に残っているのは、自分を含めてあと何人いるのだろうか。先に先にと帰っていく後輩や上司達。彼らは仕事をしていないわけではないし、自分が特別効率が悪いわけでもない。と思っているのだが、如何せん根が真面目であるのか、引き付ける仕事が増えてしまう。
今日は早く帰りたかったが、中々目の前の案件は終わりそうにない。帰れるのは10時頃だろうか。人の少なくなったフロアを見渡し、時計を見つめる。6時をすぎた職場は、いつの間にか静かになっていた。
弱音をはいても不満を漏らしても、聞いてくれる相手がいるわけでもないし。今のこの状況が別段嫌なわけでもない。
だからもう少し、頑張ってみよう。
秋の夕暮れ時。日が落ちていくのを肌で感じながら、26歳女性、城下 蘭は大きなビルの片隅で、もう一度気合いを入れ直す。帰ったら美味しいお酒をあけて、美味しいつまみで一服するのだ。そんな小さな目標を掲げて、今日も一人デスクへ向かうのであった。
──そこから数時間たった夜9時頃。
すっかり暗くなったビルの外は、いつの間にか降りだした雨によって濡れている。
窓の外では、それなりに激しい雨が窓を叩きつけていた。これはこれでないな。ちょっと頂けない。できれば、雨に濡れて帰るのはごめんなのだけど、如何せんしっかり者の自分。ちゃんと傘は持ってきていたし、朝から夜遅くに雨が降ることはリサーチ済みであった。
わかっていたとしても、気分はよくならない。雨のなか帰るのかと思うと、溜め息がでてしまった。
立ち上がる彼女の背は、すらりと高い。モデル体型であることを誉められることもちらほら。細くて長い足に、申し分ない引き締まったお尻とそれなりにある胸。スタイルがいいことを誉められることも多々あったが、今の自分には必要なものではない。
このスタイルを見せる相手がいるわけでもないし、欲しいとも思わない。
今は、仕事が恋人、とでも言っておこう。
自分が最後であった仕事場の電気を落として静かな廊下を歩く。コツコツという音は静かに響くが、他に聞こえるのは雨の音のみ。
エレベーターに乗り込み、天井を見つめる。
今日も仕事仕事の一日で終わっていくのだろうな。そんな思いに耽って、ガラス張りにされた外を見る。冷たい雨だ。なんとも底冷えしそうな雨は、それなりに激しく降り続けている。
受付嬢も消えた入り口ではなく、警備員が眠気と戦う裏口からでていく。相変わらず帰りの遅い自分に、警備員が目を覚ましてにこやかに微笑みかけてきた。
「相変わらず遅いねぇ」
初老の彼とは顔見知りだ。名前こそ知らないが、よくここで話しかけて貰っている。自分は娘と年が近いらしく、親しみを持ってくれているようだ。
「今日は早く帰る予定だったんですけどね」
「それ、前も言ってたよ。大変だねぇ」
「いえ、好きでやってるからいいんです」
そう言うと、そうかそうかと笑ってくれる彼。
まるで父親のような優しい眼差しで、いつも心が落ち着いた。疲れた心を癒してくれる、数少ない癒しのひとつだ。
人の出入りを管理している彼に促されて書いた出社時刻は、9時半を越えていた。ここから歩いて行ける範囲内に家があるとは言えど、帰る頃には10時頃か。かなり遅くなってしまったな。
お酒を飲んで寝てしまえばすぐに翌朝になってしまうのだろうな。
曇天のもと、傘をさして歩き出す。
何もかわらぬ平日、何もかわらぬ毎日に、こんな大雨の降りしきる中で、彼女は運命的な出会いをするとは。彼女も彼も、そして他の誰もが思わない。
彼女にとっての平凡な一日の終わりは、とある出会いによって大きく変貌を遂げる。