8話 ~決意~
「決心は着いたか?」
朝、魅来が寝室を出ると、リビングにホロがいた。相変わらず我が物顔でソファーにふんぞり返っている。
「あんた、女の子の部屋に不法侵入してるって自覚ある?」
腰に手を当てて、偉そうな侵入者を見下ろす。
ホロは澄ました顔で軽く片眉を上下させただけ。何を今更……とでも言いたげな顔だ。
魅来は当てつけのように大きくため息を吐いた。効果はないだろうが。
「それで?」
案の定、ホロは魅来の無言のクレームをスルーして、話の先を促してきた。
そんなホロに再びの小さな抵抗のため息を吐いた後、魅来は一人掛けのソファーに腰を下ろした。そして真っ直ぐにホロの漆黒の瞳を見つめて、昨夜した決意を告げる。
「私に魔術と魔眼の制御の仕方を教えて」
魅来の口から出た頼みに、ホロが目を丸くする。表情の変化に乏しいホロにしては珍しい表情だ。
だが、それも一瞬のこと。
見開いた瞳は、すぐにスッと細められた。魅来の表情からその真意を探るように、鋭い視線が魅来の目を射抜く。
「それを覚えてどうするつもりだ?」
「決まってるでしょ? 魔眼を制御できないと、また昨日みたいなことが起こる。私が魔眼を制御できるようになるのは、あんた達にとっても悪いことではないと思うけど」
「……魔眼の制御はあとで覚えてもらうことにはなる。また暴走されたら面倒だからな」
魅来から目を逸らすことなく、ホロが言葉を続ける。
「だが、魔術は別だ。勘違いしているのかもしれないが、魔眼の制御と魔術は無関係だぞ」
「けど魔術師から身を守るには、私も魔術を使えないとダメでしょ?」
その言葉で、魅来が何を言いたいのかわかったのだろう。魅来を見るホロの眼光が鋭さを増した。
「今の仕事を辞める気はないと?」
「ええ、私は声優もアイドルも続けるわ」
ホロの冷たい視線に気圧されることなく、魅来がはっきりと自分の意思を伝えた。
ホロは何も言わなかった。怒っているのか、呆れているのかその表情からはわからない。ただ冷たい沈黙が二人の間に流れただけだ。
「……ここまでバカだとは思わなかった」
やがて、静かに口を開いたホロ。
直後、その手がぶれた。目にも止まらぬ速さで、ホロが太もものホルスターから銃を抜いたのだ。その冷たい銃口を魅来に向ける。
「つい二日前に襲われたばかりだというのに、お前は魔術師がどれだけ恐ろしいか、何も理解していないようだな」
ホロの表情に変化はない。相変わらず何の感情も宿さない冷たい顔のままだ。だが、その黒く光る目の奥に、平和な日常に生きてきた魅来でさえわかるほどの殺気が宿っている。
「基本的に魔眼の力を求める魔術師が所有者を殺すことはない。だが、お前に魔眼を使わせるために、拷問、脅迫など殺す以外のあらゆる手段を講じてくるだろう。それに、未だ懲りずに魔眼の移植方法を求める連中だっているかもしれない。そいつらは何のためらいもなく、お前の命を奪うだろう」
それは紛れもない事実なのだろう。今もホロがその指をほんの少し動かせば、魅来はいともたやすく殺される。そして、この世界にはその引き金を引ける魔術師が何人もいるのだろう。
だが、魅来は怯まない。冷酷な死を与える銃口を前に、堂々と胸を張ってホロを睨み付ける。
「そうならないために魔術を教えてって言ってるの」
「魔術がそんな簡単に習得できるはずがないだろう。簡単な魔術を使えるようになるだけでも、数か月はかかる。魔術師と戦えるほどの魔術を覚えるなら、数年は必要だ」
「なら、頑張って私に教えなさい」
そのあまりに不遜な物言いに、ホロが片眉を吊り上げて怪訝な表情を浮かべる。
「……ずいぶんと図々しくなったものだな」
「それくらいじゃないと、芸能界でやってけないわよ」
「俺がお前に魔術を教えると本気で思ってるのか?」
「だって、あんたの組織の目的は魔眼所有者の保護と監視、それと魔眼や魔術の存在とそれに関連した事件の隠蔽なんでしょ? そしてあんたの仕事は私の保護と監視。私がアイドルを続ける以上、あんたは私から離れられない。なら、そのついでに魔術を教えるくらいどうってことないでしょ?」
なんてことないように言っているが、魅来としてはかなりの賭けに出ている。何せ、魅来の論はホロが強硬手段に出ないこと、さらには魅来だけでなく魅来に関係する全ての人間を保護・監視対象にすることを前提にしている。仮に魅来が魔術を覚えたとしても、遠く離れた家族や友人までは守ることはできないのだから。
だが、魔眼を悪用されないようにするには、所有者を保護するだけでは足りないだろう。
何故なら、どんなに所有者自身を隔離したところで、人間は自分に近しい誰かを人質に取られたら理性的に行動することは難しい生き物だからだ。魅来も、もし両親や妹が危機に瀕していたら、他人を犠牲にしてでも家族を守ることを優先するだろう。そしてそう考える者は多いはずだ。
ゆえに、魔眼の所有者を抹殺ではなく保護するのなら、その関係者にもそれ相応の対応が必要になる。おそらく現時点でも。それを見越したうえでの交渉だ。
「私を魔術師に奪われたくないなら、私の大事な人達だって放っておくことはできないでしょ? たとえ、私があんた達に従ったとしてもね。なら、あとは私がどうしようと、それで迷惑を被るのはあんたくらいでしょ? だったら、あんたには最後まで私に付き合ってもらうわ」
自分でも強引なことを言っているのは理解している。
それでも自分がアイドルでいるためなら、暴論だって押し通してみせる。最後まで抗ってみせる。
だってもう、アイドル声優音峰魅来は、自分一人だけの夢ではないのだから。
まり恵が、そして自分を応援してくれるファンが自分を支えてくれている。
「どうするの? 私を無理やり従わせる? 見捨てる? それとも……その引き金を引く?」
銃口を前に魅来は不敵に笑ってみせる。震えてしまいそうな体を気力で抑え込み、抗う意思を示す。
「……そのアイドルとかいう夢に、命を賭けるだけの意味があるのか?」
「『意味』はないかもしれない……でもそれだけの『価値』がある。その『覚悟』も」
ホロの問いに、魅来は何の迷いもなく答えを返した。たとえ今ここで引き鉄を引かれたとしても、魅来は今の自分の決断を悔やまないだろう。
「…………理解し難いな」
銃を握ったホロの右手に力が籠る。
魅来は自分を射抜くホロの瞳と銃口から決して目を逸らさなかった。固く握った両手にさらに力を込める。
そうして続いた睨み合いは……
「いいだろう。そこまで言うならやってみろ」
ホロのため息混じりのそんな一言を合図に終わりを迎えた。魅来に突き付けていた古めかしい銃をホルスターに戻す。
「いいの?」
自分で言っておいてなんだが、かなりの無茶を言っている自覚はあった。なので、もう少し説得には時間がかかると思っていたのだが
「いいも悪いも、それしかないだろうが。俺達は魔眼所有者を保護するための組織だが、お前を力づくで従わせるつもりはない。かといって、お前の魔眼は、放置するにはあまりに危険過ぎる。なら、これまで通り、俺が監視を続ける以外ないだろう。面倒だが、お前の望み通り、魔眼の制御も魔術も教えてやる」
一度大きく肩を竦めたあと、ホロがさらに言葉を続ける。
「お前の気が変わって全て諦めるか、魔術を完全に習得するまでは、俺がお前を守ろう」
「っ!?」
さらっと言われた一言が、魅来の心臓を激しく揺さぶった。
相変わらずの無表情ではあったが、男の子に真っ直ぐ目を見て「守る」と言われたのだ。年頃の乙女としては当然の反応だろう。
「どうした?」
「な、何でもないわよ!」
首を傾げるホロに、乱暴にそう答えると、魅来はホロから視線を逸らす。一瞬、ホロの肩の上に座ったシスティナが、ニヤニヤと笑っているのが見えたが、全力でスルーした。
「さっきも言った通り、魔術の習得には数年はかかる。教えるからにはこっちも手を抜くつもりはないからな」
「望むところよ。それにあんたに守られてるだけってのも性に合わないしね」
当然とばかりに、魅来が胸を張って答える。
そんな魅来の返事にホロは一度だけ頷くと、「最後にこれだけは言っておく」と言った。
改まったホロの口ぶりに、魅来が何事か? と逸らしていた視線を戻す。
「もしも魔眼を悪用する連中……俺達の組織では『堕天』と呼ぶが、お前がそいつらと同じように力に溺れたその時は……」
魅来を脅すように、ホロのまとう空気が急激に温度を失っていく。
「俺がお前を殺す」
ナイフのように鋭い視線。氷のように冷たい空気が、紛れもなくその言葉が本気であることをはっきりと示していた。
先ほど、銃を突きつけられていた瞬間の恐怖が脳裏を過る。
もし、さっき魅来に魔眼を悪用する意思が少しでもあれば、きっと今頃自分の命はなかったのかもしれない。
改めて今、目の前にいる自分とほとんど年の変わらない少年が、その身に抱く覚悟を思い知らされたような気がした。
そして……
きゅるるるるぅ……
小動物の鳴き声みたいな音がシリアスな空気を盛大にぶち壊した。
「……え~と……朝ごはん、食べる?」
「…………食べる」
魅来の提案に、無表情のまま、そっと視線を外すホロ。
その肩の上で、ポニーテールの妖精がお腹を抱えてゲラゲラと笑っていた。
「本当によかったの?」
仕事に向かう魅来の後方。十メートルほど距離を置いたところで監視と警護を続けるホロに、シスが声をかけてきた。
ホロは先を歩く魅来から目を逸らすことなく、相棒の問いに答える
「仕方ないだろ? さっきも言った通り、あいつにその気がない以上、俺達にはどうすることもできない」
「でも、君が力を使えば……」
シスの言葉を遮るように、ホロが小さく首を振った。
「それだと『堕天』の連中と何も変わらないだろ? もしそんなことをしたら俺は、この先もずっと自分自身を許せないままになる」
わずかに目を伏せるホロ。その耳に昨夜の魅来の声が蘇る。
――私はこんな力いらない! こんな恐ろしい力、欲しくなかった!
そんな悲痛な嘆きに、幼い別の誰かの声が重なった気がした。
「キミは変わらないね」
母親のような優しい声でシスがそう囁いた。ホロに寄り添うように、コテンと体をホロの首筋にもたれかかる。春風になびくシスのポニーテールが、首筋を甘くくすぐった。
「子どもの頃と変わらない。ボクの大好きな優しいキミのまんま」
まぁちょっとだけひねくれ者になっちゃったけど、と付け加えて、シスがクスクスといたずらっぽく笑った。
ホロは肯定も否定もしなかった。からかわれているのがわかったが、怒る気にもなれなかった。
(そういえば、母親って、こんな感じだったかもしれないな……)
左肩の相方を横目に見ながら浮かんだそんな想像は、すぐに頭から消去した。
「それにしても……」
遠く先を歩く魅来の背中を見つめながら、ホロが呟いた。
「ん?」と小鳥のように首を傾げて、シスがこちらに顔を向けてくる。
「そんなに大事なことなのか? アイドルになるっていうことが……」
なんとなく呟いたその疑問に、シスが目を見開いたのがわかった。
なぜこの相棒がそこまで驚くのかわからず、今度はホロが首を傾げる。
「……俺、何かおかしなこと言ったか?」
シスは「ううん、そんなことないよ」と首を振った。なぜかその表情は少し嬉しそうだった。ますます訳がわからなかったが、そんなホロの反応を無視して、シスは一つ前のホロの質問に回答する。
「アイドルになるのがあの子の夢なんでしょ」
「夢?」
「そう、夢。人生の目標、生きる理由とも言うかな」
「生きる、理由……」
一つ一つの言葉を、ホロはゆっくりと口に出す。
だが、そうしてみても、やはり自分には魅来の考えは理解できそうになかった。自分が生きる理由なんて、ただ命があるから、程度にしか考えたことがなかったからだ。
生きているから、何かをする。ただそれだけ。
今の仕事だってそう。確かに今の仕事を望んだのは自分だ。でもそれは自分が生きているからそうするだけで、それが自分の生きる理由とはならないだろう。
「キミは?」
「ん?」
「キミには、子どもの頃の夢とかなかった?」
シスが何かを期待するような表情でこちらを見ている。理由はわからないが、なんとなくその表情がホロの胸をわずかにざわつかせた。
「……忘れたよ」
少しだけ、記憶の彼方を探ってみたが、すぐに諦めた。もしかしたら、自分にもそんなものがあったのかもしれないが、今の自分にはもう何の価値も意味もない。
なぜなら、自分には何もないのだから……
空っぽで虚ろなだけの自分には……
ホロの素っ気ない答えに、シスは少し悲しそうな笑みを浮かべて「そっか……」と呟いた。