7話 ~電話~
「ただいま……」
家まで辿り着いた魅来が、ほとんど音にならないほどの声でそう呟いた。全くそんなことを言う気分ではないのに思わず声が出てしまった。習慣とは恐ろしいものだ。
あれから数分後、魅来は一人会場に戻った。観客は一人も残っていなかった。どうやら正気を失くしている間の記憶がないというのは本当らしい。多少の違和感を感じつつも、特に問題も起こらず全員が帰路に着いたという。
暴行を受けた警備員やまり恵に殴られた司会のケガは大したことなかったらしい。彼らも騒動中のことを覚えていなかった。警備中やステージの暗転中にどこかにぶつけたのかなぁとぼやいていた。
スタッフが魅来を探していたので、マネージャーのまり恵が体調を崩したため様子を見に行っていたと説明した。実際、眠りについたままのまり恵は、ホロがちゃんと控室の椅子に運んでくれていたので、特に不審に思われることもなかった。目が覚めたまり恵も、疲れが溜まっていたのかもしれないと、申し訳なさそうにしていただけだ。
まり恵が呼んだ警察がどうなったのかは、魅来にはわからない。スタッフも特に何も言っていなかった。ホロが対処すると言っていたので、上手く誤魔化してくれたのだろう。
そうして諸々の後処理――といっても、魅来自身はほとんど何もしていないが――を終え、魅来が自宅に辿り着いたときには、もうすっかり夜も更けていた。
履いていたローヒールのパンプスを、乱雑に脱ぎ捨て廊下を歩く。リビングからは明かりが漏れていた。
「……何であんた達がいるのよ」
どうやって入ったのか、リビングにはホロとシスティナがいた。ホロは昨日と同じようにソファーに足を投げ出して横になっている。お腹の上の小さな相棒の位置まで同じだ。
「鍵、渡した覚えはないけど……」
「シスなら郵便受けからでも入れる」
システィナがドヤ顔でガッツポーズを決めた。
「まぁ着いたのはついさっきだけどな」
そう……と魅来が呟いた。もはや非常識を怒る気力もなかった。
「それで? 仕事を辞めて、俺達の元に来る気になったか?」
リビングの入り口で立ち尽くす魅来に、ホロが問いかけてくる。
冷淡な口調。
いつものように冷たい視線。
人に重大な決断を迫っているとは思えないほど平然とした態度。
それらの全てが、暗く沈んだ魅来の神経を逆なでしていく。
――アイドルを辞めるくらい大したことでもないだろう?
そう言われているような気がして……
「…………そんな……」
ずっと堪えていた感情が、震える口から零れ出る。
「そんな簡単に言わないでよ! 私のこと何にも知らないくせに!」
一度零れてしまうと、あとはもう止まらなかった。決壊したダムのように、怒りや悲しみの感情が洪水となってあふれ出す。
「ずっと、子どもの頃からずっと、アイドルになるために頑張ってきたの! 毎日歌もダンスも必死で練習して、何度落ちたってオーディション受け続けて、歌の大会にも数えきれないくらい出て! ようやくまり恵さんにスカウトされた時、私がどれだけ嬉しかったか、あんたにわかる!? デビューしても全然人気出なくて、CD一枚売るためにあちこち駆けずり回って……声優の仕事だって、最初は名前のない役ばっかりで……自信失くしたり、落ち込んだりしてもどうにか踏ん張って、やっとここまで来れたのに……こんな……こんなところで諦められるわけないでしょ!?」
自分のこれまでの日々を、夢を、想いを、全てぶつけるように魅来が叫ぶ。
「だいたい、魔眼って何なの!? 何で私にこんなものがあるの!? こんなもの一度だって欲しいと思ったことないのに!」
「……魔眼の起源はわかっていない。天使に選ばれたという者も、悪魔に魅入られたとも言われているが……」
「そんなのどっちでもいいよ! 私はこんな力いらない! こんな恐ろしい力、欲しくなかった!」
魅来は縋るように、ホロを見つめる。
「ねぇ何とかならないの? 魔眼の力を消す方法とか、誰かに渡す方法とか」
「……そんな方法はない」
魅来の淡い期待を打ち砕くように、ホロが首を横に振った。
「何でよ!? 魔術師は魔眼の所有者を狙ってるんでしょ? なら、魔眼の力を手に入れる方法があるってことじゃないの?」
「魔術師が所有者を狙うのは、所有者本人を自分の手駒にするためだ。まぁ以前は魔術と医術を用いて、魔眼を移植できるか実験した魔術師もいたらしいがな。結果は悲惨なものだ。何せ所有者も、魔眼を移植された側も全滅。体内の魔力が完全に消失し、全員が干からびたミイラになったって話だ」
恐ろしい事実を、こともなげに語るホロ。
魅来は寒気を感じて、自分自身を抱きしめるように両腕をさすった。
「じゃ、じゃあ、魔眼を封印するとか。ほら、朝、あんたがくれた石みたいに」
「あれは体内の魔力の流れを落ち着かせて、魔眼の暴走を抑えるだけだ。魔眼を封印することなどできない」
「なら他の方法で――」
「そんな方法はない。お前がどう喚こうと、魔眼を切り離すことなどできない。解けることのない呪いのようにな……」
魅来の全ての希望を、ホロの言葉の刃が断ち切る。
もはや立っていることさえできなかった。足から力が抜ける。魅来はぺたりとその場に座り込んでしまった。嗚咽が漏れる口を手で押さえる。両目からすでにあふれていた涙が、その手を濡らした。
「言っておくけど、ボク達の元に来たからといって、別にこの子と同じ仕事をする必要はないからね。監視区域での生活にはなるけど、最低限の生活と身の安全は保障されるし。家族とだって会えるしね」
システィナがそう付け加える。ホロと違って、その声には魅来を憐れむような響きが感じられた。
「少し頭を冷やして考えろ。自分にとって、何が最善の選択かをな……」
魅来の様子から、これ以上の話はできないと思ったのだろう。ホロはソファーから立ち上がると、泣き崩れる魅来の横を通り過ぎてリビングを出ていった。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか……
ホロに絶望的な事実を突きつけられた魅来は、しばらくの間リビングで泣き続けた。
泣いている間も頭に浮かんでくるのはこれまでの日々。
まり恵から声をかけられたのは、地元で開催されていたのど自慢大会だった。
――あなたの歌声、とっても素敵ね。
出番を終えた魅来に、偶然会場に来ていたまり恵がそう声をかけてくれたのだ。芸能事務所の人間だと言われ、名刺を渡された。もし興味があればここに電話して、と言われた。その場でまり恵の手を握って、興味あります! と叫んだ。今思えばもう少し警戒した方が良かったと思うが、それで夢への扉が開けたのだからまぁよかったのだろう。
そうして始まった日々は、慌ただしくも充実したものだった。
声が良いからと、歌だけでなく声優の仕事も勧められた。学校に通いながらのレッスンやボイストレーニング。高校は東京の芸能コースのある学校に通うようになったが、それまでは地元の千葉と東京を毎日往復していた。
デビューは歌よりも声優としての方が先だった。名前のない端役で、セリフも一言だけだったが、心臓が飛び出すかと思うくらい緊張したのを覚えている。
それから少しずつであるが仕事も貰えるようになって、同期の女の子と一緒にユニットを組んだのが初めての曲だった。お店でCDを発見したときは、思わず何度も手に取って眺めてしまった。
全然売れなかったけど……
その後も売れない時期が続いたが、ようやくもらったアニメのヒロイン役で人気が出るようになった。キャラクター名義ではあったが、そのアニメの主題歌が、アイドル声優音峰魅来が出したソロ曲だ。
そこからは声優の仕事も増え、キャラ名ではない、音峰魅来の名前でアーティスト活動も始まった。
初の単独ライブは、小さなホールだった。収容人数は千人。ライブ会場としては小さなものだが、当時の魅来からすればその人数は途方もなく感じられた。
お客は来てくれるだろうか?
失敗したりしないだろうか?
途中で帰られたりしたらどうしよう?
あぁ、もっと振り付けの練習しておけばよかった……
そんな考えがグルグル頭の中を回って、ライブの前日は緊張でほとんど眠れなかった。
そして、ライブ当日。
満員とはいかなかったけれど、席はそのほとんどが埋まっていた。ライブ前だというのに、涙が止まらなくなりそうだった。
ライブ本番はまさに夢の時間だった。
眩しいスポットライト。温かいファンの声援。大好きな音楽。
それら全てに包まれて、まるで自分が空高く舞い上がっていくような高揚感が胸を駆け巡った。その胸の高鳴りは、何度ライブを経験しても飽きることはない。人生で最高の瞬間だ。
そうして、魅来は夢への階段を全力で上り続けた。シングルCDの数は十を超え、アルバムだって出している。ライブの規模はどんどん大きくなり、もうすぐ一万人を超える規模のアリーナライブを開けるくらいにまでなったのだ。
その夢が、こんなところで終わるなんて、信じられない。
信じたくない。
だけど、現実は変わらない。魔眼の力も、自分を狙う魔術師の存在も、全てその目で見ている。もうそれらを否定することはできない。
(私、どうしたらいいのかな……)
何度目になるかわからない自分への問いかけ。答えの出る気配はなかった。
そんなとき、すぐ傍で小さな電子音が聞こえた。携帯の着信音だ。
足元に転がっていたバッグから携帯を取り出す。
電話はまり恵からだ。
「……はい」
「ごめんなさいね、こんな時間に……もう寝ちゃってた?」
「いえ、大丈夫です」
電話越しに聞こえるまり恵の落ち着いた声。時計を確認する。もうすぐ十時だ。寝るには早いが、電話をかけてくるには少々遅い時間だ。まり恵にしては珍しい。明日の仕事で何か急な変更でもあったのだろうか。
「今日の事、しっかり謝っておこうと思ってね」
「え?」
心臓が飛び出すかと思った。まさか倉庫での一件を思い出したのだろうか。
「ほら、私、今日体調崩して控室で寝ちゃってたじゃない? それであなたに余計な心配かけちゃったんじゃないかと思って……」
どうやら杞憂だったようだ。魅来はホッと胸を撫で下ろす。
「気にしないでください。まり恵さんに何かあったら、私も困りますから」
「本当にごめんなさいね。体調管理はしっかりしなさいって、あなたにいつも言ってるのに、私がこんなんじゃ説得力ないわよね」
電話の向こうでまり恵がため息を吐いたのがわかった。かなり深く自省しているらしい。真面目なまり恵らしいといえばらしいのだが、魅来からすればもう少しくらい肩の力を抜いてもいいのではと思ってしまう。
「それにあなたのライブもちゃんと見られなかったから……」
本当に申し訳なさそうに、まり恵がそう口にする。これまでまり恵はどんなに忙しくても、必ずライブや観客の様子を見て、魅来にアドバイスをくれた。
「もう、まり恵さんは真面目過ぎます。ライブって言っても歌ったのは一曲だけですし、いつもアドバイスもらってるから、一回くらい見られなくても問題は――」
「そういうことじゃないのよ」
仕事熱心なまり恵に苦笑する魅来の言葉を、まり恵が落ち着いた声で遮った。
「もちろん仕事のためってのもあるけど、何よりも私が魅来のライブが見たかったの。だって……」
普段の凛とした声とは違う、穏やかな口調。だけど少し照れくさそうな雰囲気も感じられる声で、まり恵がその胸の内を言葉に乗せる。
「私はマネージャーであると同時に、あなたのファンなんだから」
胸の奥が激しく揺れる。温かなスープが、冷え切った体を温めていくように、まり恵の言葉が魅来の心に熱を灯す。
「初めてあなたの歌う姿を見たときから、ずっとあなたのファンなの。あなたの歌が、笑顔が、声が大好き。だから、一度だって見逃したくない。一番近くで、輝くあなたを見ていたいのよ」
枯れてしまったと思っていた涙が魅来の両眼からあふれ出す。頬を伝う雫は、とても温かなものだった。
「まり恵さん……私……わたしぃ……」
「ちょ、どうしたの魅来? あなた泣いてるの?」
声が震える。
電話越しに、まり恵が慌てているのがわかった。
それでも一度零れだした想いは、もう止めることなどできなかった。
「私、歌いたい……もっと……もっともっともっと! ライブもいっぱいやって、私の歌、たくさんの人に聞いてもらいたい。ずっと、この仕事を……アイドルを続けたい!」
弱り切っていた自分に喝を入れるように、魅来が声を張り上げてそう宣言する。
突然想いの丈をぶちまけた魅来に、まり恵も面食らったのだろう。少しの沈黙が電話越しに流れる。
だが、それも一瞬のこと。魅来の熱い想いを受け止めたまり恵は、小さく笑うと、いつもの凛とした力強い声でこう言った。
「当然でしょ? あなたにはこれからも私と一緒に頑張ってもらわないとね」
「はい! これからもよろしくお願いします!」
魅来も笑顔で返事をした。
その後、明日の予定を再確認して、まり恵は電話を切った。大切な宝物を胸にしまい込むように、画面の暗くなったスマホを抱きしめる。
「ありがとう、まり恵さん……」
そうして、魅来は顔を上げる。
その表情に、もう迷いはなかった。