6話 ~狂騒~
イベント会場控室。
共演者やスタッフへの挨拶回りや、本番前の打ち合わせを終えた魅来は、ステージ衣装へと着替えていた。
「どう? サイズに問題はない?」
着替えを終えた魅来に、まり恵が訊ねてくる。
今回の衣装は、アニメ『魔導騎士の英雄譚』で魅来が演じるヒロインの服装をイメージしたものだ。
白と銀色をメインにした騎士風の衣装。防御力は大丈夫? とツッコミを入れたくなるようなへそ出しトップスと、戦いにはとことん向いてなさそうなミニスカート。足元の銀色のニーハイブーツや胸元の赤い花飾りなど、かなり凝ったデザインだ。
「大丈夫です」
一度全身を見直した後で、魅来が返事をする。衣装さん渾身の一作は、魅来の体に見事にフィットしていた。
「なら良かったわ。その衣装は別のイベントでも着るから、大事にしなさいね」
そう忠告したあと、まり恵も自分の目で衣装チェックを行う。こういうところでも決して手を抜かない。さすがは敏腕マネージャー。
「着方に問題はなし。小道具もオッケーね」
後ろ姿、飾り、小道具など順に眺めていき、最後に正面に回ったところで、まり恵が首を傾げる。
「あら? そんなネックレス、衣装にあったかしら?」
「あ、これは……」
まり恵の指摘に、魅来は慌てて襟元に手を当てる。
それは、先ほどホロから受け取ったネックレスだ。開いた衣装の胸元で、薄紫の水晶がキラリと光っている。
「キレイなネックレスだけど、今回の衣装とはちょっと合わないわね」
全体のバランスを見るように、少し魅来から距離を取ったまり恵が、そう結論する。
「イベント中は外しておきなさい」
それだけを告げて、まり恵は控室を出て行ってしまった。
残された魅来は、鏡の前に立って自身を見つめる。確かに、白と銀と赤が主体の衣装の中で、首元の薄紫はちょっと浮いていた。
それに、今回のヒロインは、女性らしい格好を苦手としている――実はそれを気にしている――キャラクターだ。こんなアクセサリーを付けるのは、彼女のイメージではない。
(まぁ仕方ないか。そもそも魔眼とか意味わかんないしね)
そう納得して、魅来はネックレスを外した。石に指紋が付かないようハンカチで包む。
(まぁムカつく相手とはいえ一応プレゼントだし? それに、デザイン自体は可愛いし?)
と、言い訳染みたことを胸中で繰り返しながら、魅来はネックレスをコートのポケットにしまった。
(あいつ来てないし!)
魅来は心の中で毒づいた。もちろん笑みは崩さないままだ。
今はアニメ第一話の放送が終わった直後。共演者数人とステージに上がった魅来は、他の人が話している間にさりげなく客席の様子を窺った。
だが、そこににっくき宿敵の姿は見当たらなかった。
(敵前逃亡とは舐めたマネを……あとで会ったら絶対ぶん殴ってやる!)
「私が今回演じるヒロイン、エレナは、気が強くて負けず嫌いで、騎士としての誇りは誰よりも強い頑張り屋さん。でもやっぱり可愛いものに憧れもある、そんな素敵な女の子です。私も大好きな女の子なので、皆さんにもそんなエレナのことを好きになってもらえたらいいなぁと思います」
完璧なアイドルスマイルの裏に、怨嗟の心の声が隠れていることなど、この場の誰も気がつかない。
「今回、魅来ちゃんはアニメのオープニング主題歌も歌ってるんだよね?」
「はい、先ほどの第一話の最後にも流れた『ラストソーサリー』という曲です。熱いバトルシーンの多いこのアニメにピッタリのとてもカッコいい曲です!」
進行役の男性が、もしかしてこの場で歌ってくれたり……? と打ち合わせ通りに魅来に話を振ってくる。客席から歓声が上がった。
一応、今日この場で歌うことはサプライズということになっていた。曲の衣装は、アニメのTシャツとロングスカートを着て隠している。
一度照明が落とされた。その間に、Tシャツとスカートを脱ぎ、スタッフに渡す。共演者は舞台袖に下がり、ステージには魅来一人が残された。
客席から届く「魅来ちゃ~ん!」という声援を背にして、魅来は左手を高々と掲げる。
「それでは聞いてもらいましょう! アニメ『魔導騎士の英雄譚』オープニング主題歌。音峰魅来で『ラストソーサリー』!」
曲紹介が終わると、会場に鐘の音が鳴り響いた。荘厳なオーケストラのイントロが流れる。その音色に合わせて、掲げた左手をゆっくりと弧を描くように下ろしていく。
下ろした手を今度は剣を振るように、横に薙ぎ払う。
同時に曲調が変わった。
戦いをイメージさせるような激しいリズム。だけどどこか神秘的な雰囲気を秘めたそんな音色へ。
客席から、リズムに合わせた合いの手が飛ぶ。
アニメのPVではサビしか流れない。前奏を聞いたのは、先ほどのアニメ上映だけだ。なのに、こうしてライブを盛り上げようと、全力で声を出してくれる。
(あぁ……やっぱりライブって楽しい!)
振り返り、歌い出す魅来。曲調に合わせたその表情は剣のように鋭い。
客席にはオレンジや赤の光。どうやらこの一曲のためだけに、わざわざサイリウムを持ってきてくれたらしい。
胸が熱くなる。心が打ち上げ花火のように昂揚していく。
百人以上の観客と一体になるこの瞬間は、何度経験しても飽きることはない。アイドルとして最高の時間だ。
憎たらしいあの少年のことなど、すでに記憶の片隅に追いやられた。
今はただ、この一瞬に全力を注ぐ。
……だから魅来は気付かなかった。
ライブの高揚感や熱量とは別の力が、完全なる目覚めの時を迎え、会場中に降り注いでいたことに……
曲が終わる。
魅来は最後のポーズを決めたままだ。ダンスのせいで息は少し上がっている。だが、心の中は未だ冷めない興奮が駆け巡っていた。
(まだ歌い足りない……もっとみんなと歌いたい)
そんな余韻を感じながらも、魅来は顔を上げて会場を見渡す。
そして、そこでようやく異変に気付いた。
(……何でこんなに静かなの?)
さっきまでうるさいくらいの歓声に包まれていたはずのイベント会場は、今は水を打ったように静寂に包まれていた。本来ならば曲が終わった瞬間に、拍手が鳴り響いているはずなのに。
「音峰魅来で『ラストソーサリー』でした! みんな盛り上げてくれてありがとう!」
どうにか気を持ち直して、笑顔で挨拶をする魅来。
だが、相変わらず会場は静まり返ったままだ。司会者でさえ何も言葉を発しない。さすがにこれは異常だ。
「……魅来ちゃん」
困惑したまま魅来が周囲を見回していると、不意に会場のどこかからそんな声が聞こえた。
そして、それが合図になったかのように――
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
野獣のような雄叫びを上げて、百人近い観客の全員が雪崩のようにステージへと押し寄せた。
「ちょっ、みんな落ち着いて! そんなことしたら危ないから!」
突然の咆哮と狂乱に恐怖しながらも、魅来がマイクを使って必死に観客に呼びかける。
だが、そんな魅来の声が聞こえていないかのように、観客の暴走は止まらない。繰り返し魅来の名前を呼ぶ者。意味の通じない奇声を上げる者。狂ったように笑い続ける者など様々だ。もし警備の人が止めてくれていなければ、すぐにでも観客たちはステージを上ってくるだろう。
「このままじゃみんなケガしちゃうから! お願いだから落ち着いて!」
狂った空気に押しつぶされそうになりながらも、魅来は声を張り上げる。
だが、警備員を押し退けようと暴れる観客の目を見たとき、魅来は思わず息を飲んだ。
その男の目からは人間らしい光が一切感じられなかった。
いや、その男だけではない。男女問わず、観客全ての顔から理性が完全に消え失せていた。まるで血に飢えた猛獣、あるいは亡者のように。ただ魅来だけを求めて、その手を伸ばしている。
「どけぇっ!」
観客の一人が、ついに警備員を殴りつけた。別の所でも警備員の一人が首を絞められている。
「みんなお願い! 正気に戻っ――きゃあっ!」
諦めずに懇願する魅来。
だが不意に横から強い衝撃に圧されて、その場に倒れ込んでしまった。
何があったかわからないまま顔を上げる。
そこには司会役の男性がいた。観客ほどではないが、やはり理性を失った形相で、魅来を見下ろしている。
「く、くふ、くふふふふ、魅来ちゃん……魅来ちゃあん!」
その目に宿る光に魅来は覚えがあった。
それは昨夜、魅来を襲った魔術師と同じ、獣欲の光。もちろん彼があの魔術師と同一人物というわけではない。それでも魅来を見つめるその目は、ただ一人の雄として、魅来という女を求めていた。
「い、いやぁっ! やめて! やめてください!」
魅来の体を拘束するようにのしかかってくる男に、魅来は必死に抵抗をする。傍に落ちていたマイクを掴み、思い切りその頬を殴りつけた。唇が切れたのか、わずかに血が滲んでいる。
だが司会役の男は、笑みを浮かべたまま魅来の胸にゆっくりと手を伸ばしてくる。まるで痛みを感じていないかのようだ。
「いやぁ! 誰か! 誰か助けて!」
魅来の悲痛な叫びは、観客の狂気の声に飲み込まれた。
警備員が観客を押しとどめるのも、もはや限界だろう。
昨夜と同じ絶望が、魅来の胸にこみ上げてくる。
「魅来!」
だが、そんな結末が訪れることはなかった。
ドカッ! という鈍い音と共に、大きな黒い塊が魅来にのしかかっていた男をふっ飛ばしたのだ。ステージの上を転がっていき、そのまま仰向けに倒れてしまった。
「大丈夫、魅来!?」
何が起こったかわからないまま呆然とする魅来を引き起こす手。今までに聞いたことのないほど鬼気迫る声だが、魅来が彼女の声を聞き間違えたりはしない。
「ま、まり恵さん……」
マネージャーのまり恵が、必死な表情でこちらを見ていた。魅来の手は痛いくらいに力強く握られている。逆の手には、どこから持ってきたのか大きなバッグが。おそらくこれで司会者を殴り飛ばしたのだろう。
「今のうちに逃げましょう! さぁ早く!」
立ち上がった魅来の手を引いて、まり恵が走り出した。
魅来もそれに付いて、ステージ横の関係者用通路を目指す。
舞台袖に逃げる直前、一瞬だけステージを振り返ると、ちょうど警備員のバリケードが破られたところだった。狂った獣が次々とステージに上がってくる。
「こっちよ!」
まり恵の指示に従って魅来は必死に走った。
どこへ向かっているのかはわからない。
ただまり恵を信じてひたすらに。
「ここへ!」
そうしていくつかの扉を抜けた先で、まり恵は魅来の手を離した。すぐさま扉を閉め、鍵をかける。
「これでしばらくは大丈夫でしょう」
扉を背に、まり恵が息を整える。
ここはどうやら倉庫のようだ。様々な機材や、パイプ椅子、折り畳みテーブルなどが大量に置かれている。
「念のため、ドアを塞いでおくわ」
「で、でも、それじゃあ私達も出られないんじゃ……」
「大丈夫よ。さっき警察を呼んだから。すぐに助けが来るから、それまでの辛抱よ」
スーツのポケットからスマホを取り出してまり恵が微笑む。どうやら観客が暴れ出してすぐに警察に通報したらしい。
「いいんですか? こんなこと知られたら……」
「あなたの身の安全が最優先よ。こんな不祥事なんて、あなたが無事ならいくらでも挽回できるんだから」
何の迷いもなくそう言い切って、まり恵はドアの前にバリケードを作っていく。
その頼もしい姿に、魅来の目から涙が滲んだ。
だが、すぐに気を持ち直すと、両目を拭って顔を上げる。
「私も手伝います」
「駄目よ。あなたのキレイな手に傷でも付いたら大変だもの」
魅来の申し出をきっぱりと断って、まり恵は重たい機材が入った段ボールを積み上げていく。そしてあっという間に簡易的なバリケードを築き上げてしまった。優秀な人間は、こんなところでも有能さを発揮するらしい。
バリケードが完成したところで、二人はようやく一息ついた。安心した魅来は、その場にぺたんと座り込む。地面には埃が溜まっていたが、それを気にしている余裕はなかった。
まり恵も、魅来に寄り添うように隣に座った。
狭い室内に静寂が流れる。埃っぽさとかび臭さに気が滅入るが、この状況では文句も言ってられない。
「みんなどうしちゃったんでしょうか? ライブが始まる前までは、みんな普通にしてたのに……」
思わず零れた疑問。まり恵に聞いてもわかるはずもない。わからないことだらけだが、それはわかっている。
ただ何か会話をしていなければ落ち着かなかっただけだ。
「……そんなの簡単だわ」
だが、答えを期待していなかった魅来の問いに、まり恵はやけに自信たっぷりにそう返してきた。
「どういうことですか?」
この敏腕マネージャーには何か心当たりがあるのだろうか。
隣に座るまり恵の方に顔を向ける。
いつの間にかまり恵はかなり顔をこちらに近づけていたらしい。切れ長の目と視線がぶつかる。時に冷たいとさえ思えるその瞳の奥に、今は熱っぽい妖しさが見えた気がした
「ま、まり恵さん?」
まるでキスでも迫るように、魅来に顔を近づけてくるまり恵。
「それはね、魅来……」
様子のおかしいまり恵に困惑しながらも距離を取ろうとする魅来に、まり恵のしなやかな手がスッと伸びてくる。
そして――
「あなたが可愛すぎるからよ!」
肩を強く押されて、魅来は後ろに倒れ込んだ。
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げる魅来。
その上に、まり恵が覆いかぶさってきた。
「まり恵さん!? いったい何を?」
「ああ、可愛いわ魅来……私の魅来……誰にも……誰にも渡さない! 私だけのアイドル」
魅来の顔を優しく撫でまわしながら、恍惚とした表情を浮かべるまり恵。さっきの男達のように完全に理性を失ってはいない。だが、正気を失っていることは確かなようだ。
「まり恵さん、やめてください!」
「怯えた表情も素敵よ。でも怯えなくて大丈夫。優しくするから……すぐに良くなるわ」
顔を撫でていたまり恵の右手が魅来の胸にそっと添えられた。それと同時に、自身の服のボタンを左手一本で外していく。開いたシャツの間から黒いレースの下着に包まれたまり恵の豊かな双丘が見えた。スーツの上からではわからなかったが、まり恵は着やせするタイプらしい。
「ま、まり恵さ、んっ……や、止め、て……あっ」
胸元や、剥き出しの腹部を這うように撫でまわすまり恵。
くすぐったいような感触に魅来の口から声が漏れる。
「ああ、もっとその声を聞かせて……私の可愛い魅来」
魅来の耳元に顔を近づけ、まり恵が甘くささやいた。熱い吐息が耳にかかる。さらにまり恵は魅来の耳を甘嚙みしてきた。
「まり、絵、さん……あっ……そ、それ以上は、ダ、ダメェ……」
自分をここまで導いてくれた恩人を乱暴に押し退けることもできず、魅来は弱々しく体をよじって抵抗することしかできない。
そんな些細な抵抗さえも楽しんでいるかのように、まり恵が艶っぽい笑みを零す。そしてついにまり恵の手が、お腹の側から衣装の中へと差し込まれた。そのまま衣装を押し上げ、魅来のピンクのブラを露出させる。
「ふふ……可愛らしい下着ね」
体を起こしたまり恵が、妖艶な笑みを浮かべて魅来の胸元に視線を落とす。
「この声も、滑らかな肌も、魅来の全ては私のもの……私だけのもの……」
そんなささやきを零しながら、まり恵の両手が魅来の顔を包み込み、赤いリップのひかれたまり恵の唇が、ゆっくりと魅来の口元へと近づいてくる。誰にも奪われたことのない、その唇へと……
だが――
があんっ!
狭い倉庫内に、けたたましい金属音が響き渡った。
「な、なに!?」
反響するその音に驚いたまり恵は、飛び跳ねるように上体を上げ、周囲を見回した。
押し倒されたままの魅来も、見える範囲で様子を探る。
音の原因はすぐに見つかった。室内に設置された換気口の蓋が、倉庫の隅に落ちていたのだ。天井の高さから落ちた反動で、床に溜まっていた埃が舞い上がっている。
そして……
「ちっ……抜けた先もまた随分と埃っぽいな」
「ボク、こういう空気の悪いところ苦手だよ」
そんな声とともに、蓋の開いた換気口から黒い影が落ちてきた。二メートル以上の高さから飛び降りたとは思えないほどの軽やかさで着地をし、倉庫の中を鋭い眼差しで探る。
「まったく……こんなところに隠れるな、バカが。余計な時間がかかっただろう」
すぐに魅来とまり恵の姿を見つけたホロが、その鋭い目をさらに冷たくさせてそう言い放った。あられもない姿の女性二人を前にしても、その怜悧な顔には一切の関心も下心も浮かばない。冷然とこちらに向かって歩いてくるだけだ。
「だ、誰、あなた!? 私と魅来の邪魔を――」
「うるさい、黙れ」
動揺からか、かなりヒステリックな声を上げたまり恵。
辛辣な、だけど何の感情も感じさせない言葉をぶつけて、ホロがまり恵に刺すような視線を向ける。
その鋭い視線に気圧されたのか、喚き立てていたまり恵がピタリと動きを止めた。さっきまでその切れ長の目に宿っていた狂的な眼光が、ろうそくの火のように揺らいでいる。
「シス、頼む」
「はいは~い」
まり恵を睨んだままのホロの短い呼びかけに、システィナが陽気な声で応える。そしてホロの肩からひらりと舞い降りると、まり恵の顔の前で飛んで静止した。
わずか数センチの距離に妖精が浮かんでいるのに、まり恵は何の反応も示さない。昨夜説明されてはいたが、魔眼や魔術と関わりのない人間には見えないというのは本当らしい。
システィナは自分の小さな右手の平を口元に掲げる。そしてふぅっと手の平に息を吹きかけた。
するとシスティナの手の平から、キラキラと光る粒子が舞い上がった。空中に広がった粒子は、重力に引かれて落ちることもないまま空中を漂い、まり恵の体内へと吸い込まれていく。
「システィナ……? あんたいったい何を?」
そんな光景を見上げていた魅来が、恐る恐るシスティナに声をかける。
しかしシスティナが答えるよりも前に、魅来の上に乗っていたまり恵の体がぐらりと傾いた。完全に倒れてしまう前に、ホロがその体を支える。
「まり恵さん!?」
拘束が解かれた魅来が起き上がり、ホロの腕の中で動かないまり恵に声をかける。
「騒ぐな。少し眠ってもらっただけだ」
そんな魅来に、ホロが落ち着いた声でそう告げた。
確かにまり恵に苦しそうな様子は見られない。穏やかな寝息も聞こえる。ホロの言う通り、眠っているだけのようだ。
「しばらくすれば目を覚ます。その時には正気を取り戻しているだろう」
まり恵の無事を確認して胸を撫で下ろす魅来に、さらにホロがそう言葉をかけた。
「ホント?」
「ああ。ただし、正気を失っていた時のことは覚えていないだろうがな」
「いつものまり恵さんに戻ってくれるならそれでいいわよ」
むしろ忘れてくれている方が、魅来としてもありがたかった。
「でも、どうしてまり恵さんがこんなことを……それに、会場のみんなも……」
これまでの騒動を思い出す。理性を失くした獣と化した観客。
魅来に狂的な愛情を向けた恩人。
あまりに突然で、あまりに異常な事態。結果的にホロに助けられたことで事なきを得たが、正直、未だに何が原因でこんなことになったのかわからないままだ。
「はぁ……バカだとは思っていたが、まさかここまでとはな……」
だがそんな困惑する魅来の疑問に返ってきたのは、ホロの心底呆れ切ったため息と、そんな辛辣な言葉だった。
「ちょっと! いきなり何を――」
「お前の魔眼の力が何だったか……もう忘れたのか?」
突然の罵倒に、怒りを露わにする魅来。
だがそんな不満の声を遮ったホロの問いかけが、魅来の心を激しく揺さぶった。
「『魅了』……所有者への好意的感情を増幅させる魔眼。上手く扱えば相手を自分の思うがままに操れるが、加減を間違えれば人間を理性なき獣に変える。そんな呪いの力だ」
憎々し気な表情で魔眼について語るホロ。ここまではっきりと感情がわかる顔を見せたのは、初めてかもしれない。
「で、でも、まり恵さんは女の人で……」
「同性には効かない、なんて言った覚えはないが?」
「親愛や友情も好意の一つだし。というか、ぶっちゃけキミのことちょっとでも可愛いと思ってれば、もうそれで充分なんだよね」
ホロの肩に戻っていたシスティナが、そう補足した。
「まり恵さんだけみんなと様子が違ったのは?」
「この女が魅了されたのは、観客が暴れ出したあと。おそらく一緒に逃げている途中のどこかだ。その時には魔眼の暴走も少し落ち着いていたんだろう」
「じゃ、じゃあ、みんながあんな風になったのも、まり恵さんが私を襲ったのも全部……」
「お前の魔眼が暴走したせいだ」
必死に現実を否定する要素を探す魅来に、ホロが容赦のない事実を突きつけた。
いや、違う……
本当は最初から気付いていた。
必死で気付かないふりをしていただけだ。
その事実を受け入れたら、魅来の夢が、アイドルになるという夢が終わってしまう……そんな気がしたから……
だが、そんな逃避を目の前の少年は許してくれなかった。
受け入れ難い現実に、体が震える。視界が揺らぐ。胸が苦しい。
遠のいてしまいそうな魅来の意識は、遠くから聞こえたサイレンの音によって、どうにか引き戻された。
「この女が呼んだ警察か……これ以上の話はあとだな。ひとまずここを出るぞ」
眠ったままのまり恵を魅来に預けて、ホロが立ち上がった。
「で、でも、外に出たら、観客が……」
「あいつらなら、その女と同じように全員眠らせた。もうそろそろ目を覚ますだろう」
魅来とまり恵が二人がかりでやっと築き上げたバリケードを手早く片付けたホロが、何でもなさそうな口調でそう言った。
「じゃあ、みんなも同じように正気に戻ってるの?」
「ああ。眠る直前の記憶がないのも同じだ。ただ、その女に殴られた男や、警備員の怪我はどうしようもない。警察は俺の方で対処しておくから、そっちは適当に誤魔化しておけ」
「適当にって……」
「それくらいは自分で考えろ。あとこの女は控室にでも運んでおいてやる」
そう冷たく言い放ったホロはまり恵を脇に抱えると、さっさと倉庫を出ていった。
一人薄暗い倉庫に残された魅来は、少しの間立ち上がることもできないまま、ホロが出ていった扉を見つめていた。