5話 ~交換~
今日、魅来が出演するイベント会場の最寄り駅。改札付近の柱に寄りかかって、魅来はマネージャーのまり恵の到着を待っていた。
今日のファッションは、白いレースのワンピースに淡いピンクのロングコート。全体的に甘い感じが強すぎるので、足元は黒タイツで少しシックな雰囲気も出している。襟元の黒いリボンもワンポイントだ。髪も今は下ろしている。ちょっとお嬢様のような雰囲気だ。
それなりに人気も出てきたとは言っても、声優アイドルなんて一般的にはほとんど知られていないのが現実だ。街中で気付かれることなどない――秋葉原などなら、多少声をかけられる確率は高くなるが――ので、変装の必要はない。一応、万が一のためにイメージが崩れるファッションはしないようには言われているが、その範囲内で魅来は様々なファッションを楽しんでいた。
まぁそのせいで、チャラいナンパや怪しいスカウトに声をかけられることも増えたが。
(まり恵さん、まだかなぁ……)
待ち合わせの時間まではまだ十五分以上ある。電車の遅れなどがあっても大丈夫なように、早めに家を出たので、この程度の待ち時間は想定内だ。
まり恵は時間にはかなりうるさい。五分前行動厳守を人生の最大の目標にしているかのようだ。収録がおしているときなどを除いて、これまでにまり恵が時間を守れなかったことは一度たりともない。今も、駅前を待ち合わせにしているが、駅には既に到着しているはずだ。近くのファミレスかどこかで仕事しながら朝食でも取っているのだろう。
逆に早く来過ぎることもないので、到着まであと数分はある。それは魅来もよくわかっていた。しかし、昨日何者かに襲われたという事実が、魅来の心に不安と焦燥を生み出している。
「おい」
「ひぅっ!」
不意に聞こえた、鋭い男の声に魅来は竦み上がった。
突然大きな声を上げた魅来に、行きかう人々が次々に振り返る。
(やばっ!)
マイナーとはいえ、アイドルとして下手な注目を浴びるのは避けたい。近くに自分を知っている人がいないことを願った。
(……あれ?)
だが、視線を向けられたのは本当に一瞬だった。不自然なほどの早さで魅来に興味を失くした人々は、ほぼ同時に魅来から視線を外し、それぞれの目的の場所へと進んでいった。
「いきなり大声を出すな、バカが」
そんな人々の反応にホッとしながらも、魅来が首を傾げていると、後ろから再び男の声。昨日から何度も聞いている、感情の尽くを排したような冷たい声だ。
「急に後ろから話しかけないでよ! ビックリするじゃない!」
ボリューム低めに反論しながら、魅来は勢いよく後ろを振り返る。
そこには予想通り、魅来より先に家を出た黒ずくめの少年の姿が。魅来の背後の柱に同じように寄りかかっている。ちょうど柱を角に、二人がL字になるような位置取りだ。
ホロの顔の奥から顔を覗かせているのは、相棒の妖精。ヤッホー、とこちらに向かってヒラヒラと手を振っている。
「それと、外じゃ極力話しかけないでって言ったでしょ!」
魅来の抗議を聞いているのかいないのか。ホロは真っ直ぐに前を向いたまま魅来の方を見ようともしない。
文句を言っても無駄と理解した魅来は、諦めて視線を正面に戻す。
「で、何の用なの? さっきまでは影も形も見せなかったのに、今になってわざわざ声を掛けたってことは、何か私に用があるんでしょ?」
そう問いかけた魅来の目の前に、ホロの手がスッと伸びてきた。
「これを」
手の平を下向きに、軽く握られたホロの手。
怪訝に思いつつも魅来は右手をホロの手の下に差し出す。
差し出した右手の平に、ぽとり、と何かが落ちた。
「……ネックレス?」
それは丸い水晶の飾りが付いたネックレスだった。水晶の色合いがやや変わっていて、まるで澄んだ水の中に薄い紫の塗料をわずかに落として固めたようなマーブル模様。不思議な輝きを放つキレイな石だった。
何故こんなものを自分に渡すのか。困惑する魅来の耳に、再びホロの声が届いた。
「その石は魔力の安定や調和を促し、わずかだが魔眼の暴走を抑える効果がある。まぁ気休め程度でしかないが、ないよりはマシだろう」
ネックレスの効果は理解できた。だが、それでもやはり、ホロが自分にこれを渡す理由にはならない気がする。
何故ならホロは、魅来が魔眼の恐ろしさを理解し、アイドルを辞めることを望んでいる。ならば魅来が魔眼の力を暴走させた方が、ホロにとって都合がいいはずだ。
そんな魅来の疑問を悟ったのか、ホロは面白くなさそうに鼻を鳴らすと、「飯の礼だ」と短く告げた。つまりそういうことらしい。
これまでの不遜な態度とはあまりに異なる行動に、魅来は思わずホロの方を振り返る。
だがホロは顔を魅来と反対側に向けていた。残念ながら後頭部しか見えない。乱雑に伸びた漆黒の髪と黒ずくめの服。まるで真っ黒な影が立っているみたいだ。
「別に、わざわざお礼なんてしなくても良かったのに」
なんとなくその少年の態度がおかしくて、魅来の顔からは自然と笑みが零れた。
そんな魅来の様子が伝わったのだろう。文句でも言おうとしたのか、振り返ったホロの顔の前に、魅来がある物を突き出した。
「じゃあ、代わりにこれあげる。今回のイベントの入場チケット」
今度はホロの方が、訳が分からんと言いたげな顔をした。差し出された紙切れを受け取り、マジマジと見つめる。
「来期からやるアニメの第一話試写会なんだけどね。私が歌う主題歌も披露するから、しっかり見てなさいよ」
「何故、俺が?」
チケットから魅来の顔へと視線を移して、ホロが眉を顰める
「もちろん、あんたと勝負するためよ」
ビシッと伸ばした指を、ホロの通った鼻筋に突きつけて、魅来がそう宣言した。
「今朝、あんたに可愛くないって言われて、私のアイドルとしてのプライドはひどく傷つけられたわ。アイドルとして、このまま引き下がるわけにはいかない。今日のこのステージで、アイドル音峰魅来の魅力をあんたにわからせてあげるんだから!」
魅来の宣戦布告にも、ホロは無表情のままだ。勝負の相手としては何とも張り合いがないが、この少年にそんなリアクションを求めても無駄だろう。
とはいえ、せめて返事くらいはしてほしいものだ。魅来が「なんか言いなさいよ」と文句を言おうとしたところで、
「おはよう、魅来」
凛とした声とともに、魅来の肩にポンと手が置かれた。
魅来が驚き振り返ると、そこにはマネージャーのまり恵が立っていた。グレーのビジネススーツもシャツにもしわ一つない。今日もビシッと決まっている。
多忙なうえ、朝一番だというのに、まり恵の整った顔には疲れの色一つ見えない。メイクの技術もあるのだろうが、やはりまり恵自身の手腕と体調管理の賜物だろう。こういうところは魅来もしっかり見習いたいと思っている。
「お、おはようございます、まり恵さん」
「昨日はゆっくり眠れた?」
「はい、おかげ様で。昨日は気を遣っていただいて、ありがとうございました」
それも仕事の内よ、とまり恵が知的な笑みを浮かべて言った。
「ところで、そっちに何かあるの?」
まり恵が魅来の肩越しに、魅来の背後を覗き込む。まり恵の位置からでは、柱が邪魔になってホロのいる側は見えないようだ。
「あ、いえ、そういうわけじゃ……」
とっさに誤魔化す魅来。さっきは熱くなっていたので忘れていたが、ここは人の多い駅前だ。そんな場所で、年の近い男の子とネックレスとチケットの物々交換を行い、さらには堂々と勝負宣言までしている。誤解されても文句は言えない。
どうしよう……と、横目でホロのいた場所を見る。
だが、そこにホロの姿はなかった。
「あのパン屋が気になるの? 朝ご飯は食べたんでしょ?」
まり恵が、駅の横にあるパン屋を横目に、そう尋ねてくる。どうやら魅来があのパン屋を見ていたと思ったらしい。
「あ、朝ご飯はちゃんと食べました。ただ、新作が出るみたいだからちょっと気になって」
まり恵の勘違いに便乗して、その場を取り繕う魅来。
その際に軽く辺りを見回したが、駅前広場のどこにも黒ずくめの影は見当たらなかった。
「じゃあ、帰りにでも買ってみましょう」
まり恵もパン屋の新作に少し興味を引かれたらしい。そんな提案をして、会場へと歩き出した。
魅来もそれに続く。握ったままだったネックレスはコートのポケットに入れておいた。
「変わった女だ」
ビルの屋上。
駅前の広場を、スーツ姿の女性と並んで歩く魅来を見下ろしながら、ホロが呟いた。
手にはたった今受け取ったばかりのイベントチケット。吹き付ける強い風の中でも、揺れることなく形を保っている。
「別にチケットなんてなくても、キミなら普通に入れるのにね」
ホロの左肩に座り、同じように魅来を見下ろすシス。魅来の態度が楽しくて堪らないのだろう。スカートから覗く白い足と半透明の羽を、パタパタとリズミカルに動かしている。
ちなみに高所特有の強風の中で、体長二十センチちょっとのシスが平然としていられるのは、シスの魔法で風を遮っているからだ。媒介や複雑な理論が必要な人間の魔術と異なり、妖精などは自身の魔力のみで魔法を使える。
もっとも、花と風の妖精が操れるのは、文字通り植物と風だけだが。
「けど、キミにあんな風に真正面からぶつかってくる子は初めてだね」
「魔術師などという得体の知れない人物に関わろうとする奴など、普通はいない」
「関わろうとしないのは、キミの態度の問題もあると思うけど」
シスの発言をホロはあえて無視した。
やれやれとでも言うようにシスが肩を竦めたが、そのことについてはそれ以上何も言ってこなかった。
「でも、良かったの? あの子に天使のギフトを渡して」
建物の陰で見えなくなった魅来の姿を見透かすように見つめながら、シスが訊ねてくる。
『天使のギフト』とは、先ほどホロが魅来に渡したネックレスだ。特殊な水晶に魔術効果を付加したもので、魔眼の魔力を抑える効果がある。
「あの子に魔眼の力を自覚させるんじゃないの? あの子の魔眼なら、たとえ暴走してもキミがキャンセルできるんだし」
シスの指摘の通りだ。本来であれば『天使のギフト』は、魔眼に覚醒したばかりの所有者がこちらの保護下に入ることを承諾した後で渡す。魔眼の能力によって例外はあるし、別にそういう決まりがあるわけではないが、ホロはこれまでもずっとそうしてきた。今回の件は、ホロにとってかなりのイレギュラーな行動ということになる。
「そんなにあの子の作った料理が美味しかったのかな?」
シスがからかうような視線を向けてくる。わかってはいたが、別にホロの行動を責めるつもりは毛頭ないようだ。
「美味かったよ」
「あんなに夢中になってたもんね~」
朝食の席でのホロの様子を思い出したのか、シスがクスクスと声を出して笑う。
そうしてひとしきり笑い終えると、それまでと打って変わった優し気な笑みを浮かべて、ホロを見つめてきた。
「でも、それだけじゃないよね?」
ホロは何も言わなかった。シスの視線から逃げるように視線を逸らす。
「本当に久しぶりだもんね。誰かの手作りご飯を食べるのも、ボク以外の誰かと一緒にご飯を食べるのも……」
悲し気な色を含んだ優しい声。小さな手が耳の後ろを撫でるのがわかった。
「そんなこと、別にどうでもいい」
視線を逸らしたまま、シスの言葉を否定する。
シスは何も言わないまま、ホロを撫でていた。
「エレスチャルも暴走を完全に抑えることはできない。すぐにあいつも思い知るだろう」
少しの沈黙のあと、ホロは正面を向いて、手に持ったチケットを持ち上げる。
「それに……あいつが俺の言うことを信じるとは限らない。身に着けなければ、あれには何の価値もないからな。この紙切れと同じように……」
そう言って、ホロがその手を離す。
魅来がくれたチケットは、風に飛ばされて遥か彼方へと消えていった。