19話 ~脅迫~
「音峰魅来1stアリーナライブ 『FUTURE ~ 行こう、素敵な未来へ!』 気合入れていきましょう!」
百人以上いるスタッフや関係者を前に、アイドル声優音峰魅来が声を張り上げる。
男女入り混じった様々な声が、魅来の声に元気よく応えた。
今日は魅来のアリーナライブ当日。開演を前に、スタッフやバックダンサー、コーラス、演奏者などと円陣を組んでいたところだ。
一昨日の夜、津波のように押し寄せる事実に翻弄され、迷い戸惑っていった魅来だったが、今はただ前だけを見つめている。
もう迷いはない。
信じるべきものは、もう定まっているのだから。
それぞれが自分の持ち場に散っていく中で、「魅来!」と呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、マネージャーのまり恵がこちらに向かって駆けてきていた。しわ一つないタイトなグレーストライプのスーツをきっちりと着こなしている。
「いよいよ本番ね。昨日はずいぶんと緊張してたみたいだけど、体調の方は大丈夫?」
「はい、大丈夫です! すいません、大事な本番前に心配かけてしまって……」
心配そうに魅来の顔を覗き込むまり恵に、魅来が元気よく返事をしたあとで、苦笑いを浮かべる。
一昨日の夜、泣き疲れて眠った魅来だったが、前もって設定していたアラームに叩き起こされた。泣き腫らしてグシャグシャな顔と、ボサボサな髪をシャワーとメイクでどうにか誤魔化して昨日のリハーサルに臨んだ。
まぁ結局まり恵の目はごまかせなかったわけだが。
それでも色々と吹っ切れた魅来の顔を見たまり恵は、心配しながらも魅来の説得を聞き入れてくれた。今日の魅来の体調は万全なので、まり恵も念のための確認ということなのだろう。
「ならいいけど……何かあったら、すぐに私に報告するのよ?」
まり恵の忠告に、魅来は「はい!」と返事をした。
舞台裏。会場からはファンのざわめく声が聞こえる。
それらが偽物かどうかを疑う心はもうない。仮に魔眼によって惑わされた人がいたとしても、その人がそれで幸せだと思えるくらいの自分になればいい。
それに……
(あいつは来てくれるかな……)
一昨日の夜、最後に言葉を交わして以降、ホロの姿は見ていない。ずっと姿を探したり、外で呼びかけてみても、黒ずくめの少年が魅来の前に現れることは一度もなかった。
できることなら、ライブが始まる前にちゃんと顔を合わせて謝りたかった。
ありがとうと伝えたかった。
彼を疑い、酷いことを言ってしまったことを。
ずっと守ってくれていたことを。
そして、もう一度伝えたかった。
――あんたが守ってくれた夢は、こんなにたくさんの人を笑顔に出来るんだよ、と
だけど、その機会を得ることはできないまま、今、魅来は本番を迎えようとしている。
(それでも、私は歌う。このステージを作ってくれたスタッフ、ライブを楽しみに来てくれたファンのために……)
そして願わくば、自分の歌が、あのひねくれ者のヒーローに届きますように……
「お疲れ、魅来。調子は良いみたいね」
「あ、まり恵さん、お疲れ様です」
ステージ裏に戻ってきた魅来をマネージャーのまり恵が出迎えた。
今はライブの丁度半ば。ステージでは、スクリーンにライブ用のビデオ映像が流れている。魅来はその間に次の曲の衣装に着替える。慌ただしくはあるが、一応少し休憩をするだけの余裕もあった。
まり恵から衣装替えを手伝うかと訊かれたが、断った。映像明けの曲で使う衣装は、派手な装飾の割に構造はシンプルなので、一人でも十分だった。
急いで衣装が置いてあるスペースに入り、衣装を脱ぐ。汗を吸い込んだ衣服はかなり重たくなっていたが、問題なく脱ぐことができた。
下着姿になった胸元に、薄紫色の水晶が揺れる。以前ホロにもらったエレスチャルだ。
今回のライブ中、魅来はこのエレスチャルを一度も外していない。まり恵の手伝いを断った理由の一つには、あの時のように外せと言われたくなかったというのもある。
魅来はその水晶の表面をそっと撫でる。
「ホロ……」
魅来の胸にチクリと痛みが走る。
締め付けるような苦しさもある。
だけど、それ以上の暖かさも感じていた。
勇気を貰っていた。
(あいつ、ちゃんと見てくれてるかな……)
自分でもわかっている。
あんなひどいことを言った自分のライブなんて、見に来てくれるはずないって。
それでも捨てきれない望みを込めて、魅来はもう一度エレスチャルを撫でた。
(っと、今はライブに集中しないと)
顔を上げ、着替えを再開する。
次の曲の雰囲気に合わせて作られたドレス。肩が大胆に露出し、お腹もばっちり見えている。スカートはシルクとレースをふんだんに使用し、少し短めではあるが、足先に向かって広がるように作られていた。西洋の剣を模した装飾が施されており、お姫様のような華やかさながらも、戦う強さも併せ持つような、そんな衣装だ。
全ての衣装を身に着け、鏡に向かって全身をチェックする。
「何て美しいお姿。さすがは我が歌姫」
そんな薄気味の悪い声が聞こえ、同時に鏡に映った魅来の背後に、男が幽霊のように姿を現した。
思わず上げてしまいそうになった悲鳴をどうにか抑え込み、魅来は勢いよく後ろを振り返る。
「ごきげんうるわしゅう、我が歌姫。今度こそあなたをお迎えするべく、こうして馳せ参じました」
そこには一昨日と同じ格好をした魔術師の男が。ニタニタと気色の悪い笑みを張り付けている。まるで騎士か王子かのように恭しく頭を垂れているが、浮浪者のようなみすぼらしい格好にはあまりに不釣り合いだ。
「あんたどうやってここに?」
「あの薄汚い月の執行者がいなければ、この程度の警備、突破するなど容易いことです。たとえ魔眼などなくともね」
「女の子の着替えを除くなんて、下種らしい良い趣味だわ」
「いえいえ、私が来たのは、あなたのお召し替えが済んでからです。まぁもっとも、あなたが私のものになれば、あなたのその美しい体の全てを拝見させていただきますが」
口の端を釣り上げて、悪魔のような笑みを浮かべる魔術師。ボロボロのローブの下から伸びた手を、魅来に向かって差し出してきた。
決してまだ手の届く距離ではないというのに、魅来はその手を逃れるように後ずさった。だがすぐに行き止まりとなり、背後の鏡に背を預ける。
「ふむ……どうやらまだ素直に、私だけの歌姫になってはいただけないようですね。」
「冗談じゃないわ。私はアイドル声優音峰魅来。あんたのものにはならないし、あんたのためにはたとえレクイエムだって歌いたくないわ」
思案顔でふざけたことを口にする男に、魅来が拒絶の言葉をぶつける。
「やれやれ、せっかく私が真実を教えて、あなたの目を覚まして差し上げようとしたのに……」
そんな魅来の様子に、魔術師は嘆かわしいとでもいうように首を振る。
その態度に魅来が文句を言うよりも早く、魔術師が恐ろしいことを口にした。
「やはり、あの愚かな連中を消さない限り、あなたを解放することはできないのですね」
一瞬、ホロとシスティナのことを言ったのかとも思ったが、すぐに思い直した。一昨日、魔術師が『愚物』と呼んでいたのは――
「あんた、私のファンにいったい何をするつもりなの!?」
感じていた恐怖も忘れて、魅来が声を張り上げる。
焦燥のはっきりと滲むその声に、魔術師がニタリと口の端を吊り上げた。
「この会場には私の魔術式が施されています。それらを発動させれば、炎の雨が降り注ぎ、この会場は炎に包まれるでしょう。大天使ウリエルに滅ぼされたソドムとゴモラのように」
クヒヒと不快な笑い声をあげる魔術師の言葉に、魅来の体から血の気が引いていく。
「あの連中がいなくなれば、あなたは私の、私だけのもの……」
「やめて!」
右手を掲げて不穏な動きを見せる魔術師に、大声で魅来が制止を訴える。
そんな必死な様子の魅来を見た魔術師がニタニタとした笑みを浮かべて、ゆっくりと近づいてくる。
「もし魔術の発動を止めて欲しければ、誓うのです。私への愛を。この先の人生の全てを、愛する私のために捧げる、と……」
魅来の震える頬を、魔術師の筋張った手が撫でる。おぞましい感触に、魅来の体が電気ショックでも受けたようにビクンと震えた。
「っ! この卑怯者……」
胸にこみ上げる不安と恐怖を押し込めるように、魅来は目の前の魔術師を睨みつけた。
射殺すような魅来の視線ですらも、この下劣な魔術師にとっては自身を楽しませる余興の一つにしかなっていないのかもしれない。下卑た笑みを濃くして、魅来に近寄ってくる。
「そう、どうせならあの愚物共の前で宣言してもらいましょうか。あの輝かしいステージで、アイドル声優音峰魅来はこのフランベルだけの歌姫になると……そして、誓いの口付けを。そうすれば、魔術は解除して差し上げます」
息のかかる距離まで顔を近づけ、魔術師が最低の提案を突きつける。
逃げることのできない魅来は、せめてもの抵抗に魔術師から顔を背けた。
最初に襲われた時もそうだが、この男は魅来が怖れ慄き、恐怖に震える様を楽しんでいるのだろう。相手を屈服させ、悦に浸る、最低の快楽主義者。それがこのフランベルと言う名の魔術師の本質なのだ。
「では、後ほどステージの上で……楽しみにしていますよ、我が歌姫」
魅来の反応を一通り楽しんだ魔術師は、最後に魅来の耳元でそう囁くと、ボロボロのローブの裾を翻し、音もなく去って行った。
解放された瞬間、魅来の足からフッと力が抜けた。
その場に座り込み、震える肩を抱く。
(どうしたらいい? このままじゃみんなが……)
先ほどの魔術師の言葉を思い返して、魅来が自問する。
いや、本当はどうすべきかはわかっている。
それがどんなに受け入れがたいことでも、たとえそれがファンの想いを裏切る行為だとしても、大事なファンの命を危険に晒す訳にはいかないのだから。あとはそれを決断する覚悟をするだけ。
そうしてステージに戻るために立ち上がろうと、魅来は床に手を突く。
その時、魅来のすぐ傍で、カランという甲高い音が鳴り響いた。
魅来はその音の発生源を探して、辺りを見回す。
魅来の足元に、それは落ちていた。
衣装から外れた細身の剣の装飾が……
(そうだ……もう一つ方法がある……私が最後までアイドルでいられる方法が……)
震える手で魅来はその剣に手を伸ばす。
(もし、ここで私が死ねば、あいつがファンに手を出す理由がなくなる。私はあいつに穢されることなく、最後までアイドルでいられる)
その剣に当然、刃は付いていない。それでもこの硬さと細さがあれば、魅来の体を貫くことはできるだろう。
もちろん死ぬのは怖い。
もっとアイドルを続けたかった。
だけど、あんな奴に屈するくらいなら、負けるくらいなら、最後までアイドルとしての自分を貫きたい。
それにもう、自分を守ると言ってくれた人はいないのだから……
外から聞こえてくるスタッフの話声と、ステージで流れているビデオ映像の音声。ずっと聞こえていたはずなのに、今の今まで気づいていなかった。
(もうすぐ映像が終わる……そうすればスタッフかまり恵さんがここに来ちゃう……その前に……)
剣の柄を握る。
手の震えが伝わって、剣がガチャガチャと無機質な音を鳴らす。
そんな震えを押さえるように、もう片方の手も添える。
そうして自分の胸に、その剣の先を向けようとしたところで――
「おい」
冷淡な、だけどずっと聞きたかった声が魅来の正面から聞こえた。
ドクンッと高鳴る鼓動に急かされるように、魅来は勢いよく顔を上げる。
「ホロ……?」
「……何を泣きそうな顔をしてるんだお前は」
いつもの真っ黒な服を着たホロがそこにいた。わずかに眉をひそめる冷めた表情も、ホルスターにしまわれたおかしなデザインの銃も、左肩の上で微笑むシスティナも、何も変わらない。漆黒の瞳を真っ直ぐに魅来に向け、怪訝そうにこちらを見つめている。
「ホロ……? 本当にホロなの?」
「バカかお前は。他の誰に見える」
じっとホロを見つめる魅来に、ホロが呆れた様に肩を竦める。
そのぶっきらぼうな言い方、容赦のない言動。紛れもなくホロだ。
「ホロ……ホロぉ……あの……えっと、私――」
うまく言葉がまとまらない。ありがとうとか、ごめんねとか、魔術師のこととか、ファンのみんなが危ないこととか、伝えたいことはたくさんあったのに、魅来の口はこんな時にちっとも役に立ってくれなかった。
「落ち着けバカ。今はあまり時間が無い。お前の話は後回しだ」
「ば、バカとは何よ、バカとは……そんなに何回も言わなくてもいいじゃない」
今にも泣きだしそうな女の子相手に、淡々と毒を吐く。相変わらずの無神経ぶりに、文句を言いながらも、今はなぜかホッとしてしまった。
「時間がないって、もしかして例の魔術師の?」
少し落ち着きを取り戻した魅来がそう訊ねると、ホロは眉をピクリと動かした。なぜ知っている? と思ったのだろう。
魅来はさっきの魔術師がここに来たことを伝えた。
それだけでホロは事態を察したらしい。
「ちっ、もう少し利口な奴かと思っていたんだが……」
「ホロに邪魔され続けて自棄になっちゃったかな?」
ホロが言うには、本来であれば最初の襲撃時のように、魅来自身を襲い、自分に屈服させるのが当初の予定だったのだろう。
だが思ったよりも早く、月の執行者が現れた。
しかもそいつは魔術師としての実力が自分より上で、おまけに魅来に引っ付いて動かない。
ゆえに敵は、魅来にホロへの疑念を植え付け、二人を遠ざけた。そのうえで、このような形で魅来自ら自分の元へ来るよう脅迫したというわけだ。
だが、今回のように一般人を大量に巻き込むような方法は、こちらにとってだけでなく魔術師にとっても最悪の悪手らしい。魔術の隠蔽や治安維持などを行う機関は、ホロの所属する『サリエルの月』以外にもある。これだけの大事になれば、それらの機関も動き出し、たかが魔術師一人など簡単に処分されてしまうだろう、とのことだ。
「とにかくこちらとしては、絶対に奴の要求をのむ訳にはいかない。今すぐ客を避難させろ」
「でも、そんなことしたらあいつが魔術を――」
「あいつが会場に仕掛けた魔術式は解読済みだ。天井にデカいのを仕掛けているが、あれなら発動後でも対処できる」
だからここに来るのが遅くなったんだが……とホロが表情をわずかに歪めた。
「だが、あのデカいのを防いだ後、暴れ出した奴から観客を守り続けるのは難しい。一刻も早く観客を避難させろ」
「でもどうやって? 魔術師がどうとか言っても信じてもらえないだろうし……」
「爆破予告とかテロとでも言えばいいだろ? 実際、それに近い現象は起こるんだ」
「あんたが全部防いじゃったら、ライブの演出と思われるかも。実害ないわけだし。もし仮に信じてもらえたとしても、パニックになっちゃう。そうなったらケガ人も……」
「死人が出るよりはマシだ」
冷たく言い放つホロ。表情に変化はないが、ホロからしてみてもそれが苦肉の策であることはわかる。できるならば全員、無事に助け出したいと思っているはずだ。
そしてそれは魅来も同じ。大切なファンのみんなを守りたい。
(何か手はないの? ケガ人も死人も出すことなく、この場を乗り切る方法が……)
地面に視線を落として、必死に方法を模索する魅来。
そんなとき、カーテンで遮られたスペースの入り口から、スタッフの呼ぶ声が聞こえた。
「すいませ~ん、魅来さん。そろそろスタンバイお願いします」
「あ、はい! すみません、すぐ行きます!」
慌てながらもどうにかそう答える。考えがまとまっていないが、時間はもう残っていない。
魅来は立ち上がるために床に手を突き……そういえば自分がまだ、小道具の剣を握ったままだったことに気付いた。
(そう言えば次の曲って……)
セットリストの曲順が頭に浮かぶ。
剣から、自分の来ている真っ赤なドレスへと視線を動かしていく。
そして次の曲が何だったかを思い出した瞬間、魅来にある考えが浮かんだ。
(この方法ならもしかしたら……)
剣を握る手にグッと力を込める。
さっきのような悲愴な覚悟ではない。
最善の結末を求めて、最後まで抗う覚悟を、今、決めるんだ。
「ステージに戻ったらすぐに避難するよう客に伝えろ。少しでも人が減ればこっちも闘いやすく――」
「待って!」
魅来に命令して、この場を去ろうとするホロを魅来が呼び止める。
振り返ったホロが、眉をひそめて魅来を見つめてくる。
立ち上がった魅来が、そんなホロの目を力強く見つめ返した。
「ちょっと私に考えがあるんだけど――」