1話 ~強襲~
「本当に、まり恵さんも覚えてないんですか? 全身真っ黒な服を着てて、両足に変わったデザインの銃を付けてて、肩に妖精の女の子のフィギュアを乗せてた……」
イベント会場を出た後、煌々と光るビル灯りの間を魅来は駅へと向かって歩いていた。
「そんなライトノベルの主人公みたいな子がいたなら、さすがに忘れないわよ」
すでに何度目かわからない魅来の問いに、マネージャーの織笠まり恵は辟易とした返事をした。アイブロウで描かれた完璧なシンメトリーの眉を寄せ、釣り目がちな瞳に気遣わしげな色を映して魅来を見つめてくる。
「ここのところずっと忙しかったから……あなた少し疲れてるんじゃない?」
「そんなことは……」
否定の言葉を最後まで言い切ることはできなかった。
確かに、ここ数日はライブに向けたレッスンや、アルバム関連のイベント、ラジオやアニメの収録などで、目の回るような忙しさだった。疲れていないはずはないし、仮にそう言ったところで、この敏腕マネージャーにそんな嘘は通じないだろう。
何より……魅来本人でさえも自信が持てないのだ。
誰の記憶にも残っていないあの謎の少年は、本当に存在したのだろうか……。
「タクシー拾ってあげるから、今日はそれに乗って帰りなさい」
魅来の返事を待つことなく、まり恵は丁度通りかかった黄色いタクシーに向かって右手を上げる。左ウインカーを灯したタクシーはゆっくりとスピードを落とし、魅来達の目の前に滑らかに停車した。
「はい、タクシー代。ちゃんと領収書はもらうのよ」
「で、でも……」
ブランド物の財布から取り出した一万円札を、魅来の右手に問答無用に握らせるまり恵。ためらう魅来の背中に手を当てて、タクシーへと誘導していく。
「ありがとうございます、まり恵さん」
「今日はゆっくり休むのよ。明日はトーク&ライブイベントだからね」
ローズピンクのルージュをひいた口元に優しげな笑みを浮かべて、まり恵は魅来にそう告げる。そして運転手に目的地を伝えて、まり恵はタクシーの扉を閉めた。
魅来の実家は千葉の方にある。だが仕事の都合で遅くなることも多い魅来は、高校に上がると同時に、都内のマンションで一人暮らしをしていた。
そびえ立つビルの間を、タクシーがゆっくりと走り出す。
(あの男の子は本当にいたのかな……)
タクシーの中でも、考えることはあの黒ずくめの少年のことばかりだった。
(アイドルを辞めろって……それに、ホルダーって何のこと? それにあの妖精のフィギュア、ボクのこと見えてるって……まさか幽霊? 後ろのファンがあの子のことを何も言わなかったのは、あの子が見えなったから……でも、あのスタッフははっきりと声をかけて……)
答えの出ない疑問が、次から次へと頭に浮かんでいく。視線は窓の外を流れるビル群に向いていたが、魅来の意識には何も届いてはいなかった。
「……あの、お客さん? お客さん!」
「………………え、あ、はい、何ですか?」
運転手が声を掛けてきたことで、魅来は思考の迷宮から戻ってきた。
いつのまにか自宅の近くまで来ていたらしい。
運転手に頼んで、マンションの前ではなく、近くのコンビニで降ろしてもらう。
時刻は夜の七時。いつもは自炊しているが、さすがに今日は晩御飯を作る気分にはなれなかった。
コンビニに入る。買い物かごを片手に、雑誌コーナーから見て回った。
(あ、この雑誌の発売、今日だったか)
自分のバストアップ写真が表紙のマンガ雑誌を見つけて、魅来が立ち止まる。連載中のマンガが原作のアニメに声優として出演している縁で、今週号のグラビアを自分が飾ることになったのだ。
(まぁ、せっかくだし買ってくか)
表紙を下にして、雑誌をカゴに入れる。
その上から適当なお弁当とウーロン茶、それと食後のプリンを放り込んだ。
(あ、店員に気付かれたらどうしよう……)
購入の際、そんな不安が頭をよぎったが、不愛想なレジのおばちゃんが魅来に気付くことはなかった。何かホッとしたような、けど少し悔しいような……ちょっと複雑な気分だった。
コンビニを出る。冷たい夜風がビルの間を通り抜けた。
この辺りは高層マンションが乱立している。高級住宅街、と言うほどではないが、十七歳の女子高生が一人で暮らせるような場所ではない。今の仕事をしていなければ、自分には到底縁のない場所だっただろう。
風で乱れた髪を軽く撫でつけて、魅来は自宅のマンションへと歩き出す。歩いている間も、頭をよぎるのは、あの黒ずくめの少年のことだった。
(あぁもう! 考えるのは止め止め。明日も仕事だし、早く休まないと……)
魅来のマンションはコンビニの入ったビルの隣の隣だ。もう目の前に見えている。
もやもやとしたものを追い払うように小さく首を振る。
そうして、気持ちを切り替えた魅来が前を向いた。
まさにその瞬間だった。
物陰から伸びてきた手が、魅来の口を強引に塞いだのは。
「んんっ!? んんんんんんっ!?」
驚いた魅来が手を振り払おうと、頭を振ってもがく。
口から漏れる悲鳴は、くぐもった雑音にしかならない。
口を塞いでいたのとは別の手が、魅来の体を抱きしめるように伸びる。必死で抵抗を試みるが、魅来の力では、自分の体を締め付けるその太い腕を振り払うことはできなかった。
(誰!? 強盗!? それとも痴漢!?)
体格や気配から、相手が男性であることは間違いない。強盗ならばお金さえ渡せば見逃してくれるかもしれない。
だが、もしもお金以外が目当てだとしたら……
それは女にとっては殺されるよりも恐ろしい事態に他ならなかった。
(いやぁ! そんなの絶対いやっ! 誰か! 誰か助けて!)
声にならない叫びを上げ続ける魅来。
だが、そんな抵抗も虚しく、魅来は暗がりへと引きずり込まれてしまった。
魅来の体がふわりと宙に浮く。直後、固く冷たいコンクリートにお尻を打ち付けた。どうやら後ろ向きに押し倒されたらしい。
だが、痛みに呻いている隙はなかった。
男の手が素早く魅来の口を塞ぐ。
抵抗する間もなく馬乗りにされ、魅来は身動きを封じられてしまった。
「んんんんんっ! んんんんんんんんんんんんっ!」
必死で体をねじり、足をばたつかせる。口を押える男の手を振り解こうと頭を左右に振るが、その程度の抵抗では男の大きな手を引きはがすことはできなかった。
涙の滲む瞳で、魅来は自分に襲い掛かる男の顔を見上げた。
月明かりを背にした男の顔は、暗くてほとんど見えない。だが、そのよどんだ男の眼に、狂気と愉悦、そして情欲の炎が宿っているのだけは、はっきりとわかった。
(いやっ! こんなところで、こんな奴に!)
抵抗を続ける魅来を嘲笑うかのように、男の手が魅来の胸元へと伸びてくる。
その手を逃れようと魅来が体を捻るが、男の両足にがっちりと挟まれた状態では、もはや抵抗にすらなっていなかった。
男は魅来の反応を楽しむように、魅来のシャツのボタンをゆっくり一つずつ外していく。
そうして汗の滲んだ胸元が春の夜の冷たい外気に晒されたところで、魅来の体から力が抜けた。
両の瞳からは涙があふれ出し、男の姿を歪めていく。
これから、自分はこの男に全てを奪われるのだ。
汚されてしまった自分は、もうアイドルとして生きていくことはできないだろう。そんな自分を誰も望んでくれないし、自分もそれを許せない。
(……やっとここまで来たのに……やっと、やっと夢に近づけたと思ったのに……)
魅来の脳裏に、これまでの日々の光景が浮かんでは消えていった。
それは、ただひたすらに夢を追う日々。
『アイドルになりたい』という、小さな頃からの夢を叶えるために走り続けた日々。
そんな日々の全てが、こんな男の汚い欲望で全て壊されようとしている。
ずっと夢だけをひたすらに追いかけてきた。
その夢が終われば、自分にはもう何もない……
悔しくて堪らなかった。
悲しくて胸が張り裂けそうだった。
涙で滲んだ瞳にあらん限りの感情を乗せて、男を睨みつける。
そんな反応でさえも、男にとっては味わいを深めるスパイスにしかなっていないのだろう。くひひ、という気味の悪い笑い声が耳に届いた。男の舐め回すような視線が、魅来の顔やさらけ出された胸元に注がれているのを感じる。
気味の悪い湿った音が聞こえた。舌なめずりでもしているのかもしれない。
そうして男の右手が、魅来の胸の下着へと伸ばされる。
そんな光景を、諦観と絶望に侵された瞳で見つめながら、それでも魅来は最後にもう一度だけ願った。
(お願い……)
そんなのあり得ないとわかっている。
子どもの頃に見たおとぎ話やアニメのように、女の子のピンチに颯爽と現れるヒーローなんていない。
いるはずがない。
(誰か……)
それでも魅来は願わずにいられなかった。
(私を、助けて!)
そんな願いに応えたかのように――
花火のような二つの音が鳴り響き、閃光が夜の闇に弾けた。
「くっ!?」
魅来に馬乗りになっていた男が驚愕の声を上げて、その場を跳び退る。
直後、男が消えた魅来の視界を、二筋の赤い光が奔り抜けた。
何が起こったかわからないまま、地面に手を突き、解放された体をわずかに起こした。
(いったい何が……)
混乱する魅来の耳に、再びドンッドンッという重い音の連続が届いた。
だが、今度は赤い閃光は飛んでこない。
ただ何かが風を切るような音が響いただけだ。
「くそっ!」
さっきまで魅来を襲っていた男が、かなり焦った様子で、大きく右手を振るう。
その右手の軌道に沿うように、巨大な紅蓮の炎が奔った。
(な、何、今の?)
目の前で繰り広げられるアニメのような光景に動揺する魅来。
そんな魅来の近くから、凛とした声が聞こえた。
「やはり魔術師か」
夜の闇に響く、冷たい声。どこかで聞いたことのあるような響き。
魅来は反射的にその声の主を探す。
だがすぐにその必要は無くなった。
後ろから強い風が吹く。
直後、魅来のすぐ横を黒い影が通り抜けた。
その影はふわりと音もなく着地すると、博物館で飾られているような古めかしい形の銃を手に、襲撃者の男と対峙した。
「お前にこの女は渡せない」
「……『月』の執行者か?」
魅来を襲った男が、ネズミの鳴き声のように甲高い声で問いかける。
「そんなことはどうでもいい。大人しく拘束されるか、ここでくたばるか、さっさと選べ」
男の問いを、先ほどと同じ怜悧な声が平然と切り捨てた。
正直、二人の会話の内容は、残念ながら魅来にはほとんど理解できなかった。突然の事態に混乱した頭では、それも仕方ないだろう。
だが、冷たく響くその声と、自分を守るように立つその後ろ姿に、魅来は不思議な温かさを感じていた。
何の根拠もない。でも自分は助かったのだと、心の奥がそう訴えているように。
(ああ、まるで……)
安堵の感情が胸を満たした瞬間、地面に突いていた腕から、ふっと力が抜けた。意識も徐々に遠くなっていく。
薄れゆく意識の中で、魅来はこう思った。
(まるで、ヒーローみたい……)
最後にその後ろ姿を目に映して、魅来の意識は途切れた。