14話 ~疑心~
「それで? お前はいつまでそうしているつもりだ?」
魔術師が去った後も、ホロは油断なく空を見上げていた。途中、銃声や魔術師の炎の光に気付いた近くのマンションの住人達が窓から顔を出したが、ホロが視線を向けるとすぐに顔を引っ込めた。おそらく先ほど言っていた忘却の魔眼の力で、さっきの騒ぎの記憶を消したのだろう。
やがて、ホロは敵が戻ってくる様子はないと判断したのだろう。宙に浮いていた体を音もなく着地させると、未だに地面に蹲ったままホロの顔を見上げる魅来を見下ろして、先ほどの言葉を口にしたのだ。
その表情からは何の感情も読み取ることはできなかった。ここ数日でホロの微妙過ぎる表情の変化も、少しはわかるようになったと思っていたのに、今は何もわからない。その整った顔が、まるで恐ろしい仮面を付けているように見えた。
「そんなところに蹲っているのを誰かに見られたら、警察を呼ばれるぞ」
その場を動こうとしない魅来を起こそうと思ったのだろう。魅来の腕に伸びてきたホロの手を――
「触らないで!」
魅来はがむしゃらに振り払った。バチンッと甲高い音が、夜の闇に虚しく響く。
差し出した手を弾かれて、さすがのホロも少し驚いたようだ。いつもの能面のような表情を崩し、目を丸くさせている。
そんなホロの表情に、魅来はわずかに冷静さを取り戻した。ヒリヒリと痛む右手を胸に抱きしめるように押さえ、小さく息を整える。
「あんたにいくつか聞きたいことがあるんだけど」
「……何だ?」
弾かれた手を下したホロが、静かに先を促す。
「あんたが来る前に、あの魔術師が言ってた……魔眼は覚醒前でもわずかに力を放っているって……それって本当のことなの?」
おそらく真っ先に自分の魔眼のことを聞いてくると思っていたのだろう。魅来の問いに、ホロが怪訝そうに眉を動かした。
だがわずかに考えるそぶりを見せた後、ホロは特に迷うことなくその問いに答えた。
「そういう説は確かにある。未だに証明されたわけではないが、実際にそう信じる魔術師も多い」
その答えは、完全な肯定というわけではなかったが、魅来の疑念を拭い去ってもくれなかった。
そして、続いたホロの言葉が、そんな魅来の心を苛立たせる。
「だが、それがどうした?」
まるで魅来が何を気にしているのかわからないとでも言うように、ホロが肩を竦める。
「それが、どうしたですって……」
鈍感で無神経なホロにとっては、それはいつもの反応でしかないだろう。
だが、今の魅来にとって、その一言は到底看過できるものではなかった。
「ふざけないでよ!」
あらん限りの力で魅来が叫んだ。その声を聞きつけて、再び窓の開く音が聞こえたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
「それって全部偽物ってことじゃない! ファンの声援も、私を認めてくれた人の言葉も、優しさも愛情も、何もかも全部全部全部! みんなの心を無理やり捻じ曲げて、奪って、惑わせて! こんな偽物ばっかりで作られたステージで歌うために、私はアイドルを目指したんじゃない!」
流れる涙も無視して、魅来は叫んだ。
そうしていないと自分の心を保てそうになかったから。
魅来の慟哭を聞いても、ホロはその表情を変えることはなかった。ただ何かを言おうと口を開く。
「あんただってそうでしょ!」
だが、ホロが声を発するよりも前に、魅来がホロに向けて感情をぶつける。
「あんたも私を騙してた! 自分が魔眼の所有者で、人の記憶を消せることをずっと隠してた! ねぇ、その力で私に何をしたの? 何回私の記憶を消したの? 答えられるなら答えてみなさいよ!」
詰問する魅来にホロは何も答えなかった。
「この子は何もしてないよ!」
代わりに、システィナが叫んだ。さっき魔術師に同じことを言った時とは違う、ひどく悲しそうな声だった。
「なら何で隠してたのよ? ずっと一緒にいたんだから、いくらでも話す機会はあったでしょ?」
「もしそれを教えていたら、キミはホロに近づこうとはしなかったんじゃない?」
「だからってずっと黙っている必要は無いでしょ? もし自分からちゃんと話してくれたら、私は……あんたを信じられたのに……」
たとえ出会ったばかりの頃は無理だったとしても、今なら……ちゃんと打ち明けてくれていたら、きっと魅来はホロのことを信じただろう。そう確信している。
だって、こうして事実を知った今でも、本当はホロを信じたいと思ってるのだから……
そんな魅来の言葉を聞いたシスティナが、未だに黙ったままのホロの方に顔を向けた。
魅来も縋るような気持ちでホロを真っ直ぐに見つめる。
「ねぇ、もし何か理由があるならちゃんと教えてよ……あんたを、信じさせてよ……」
両手を胸で抱きしめるように握りながら、魅来は震える声でホロにそう呼びかける。
ホロはしばらく何も言わないまま、魅来の視線を受け止めていた。その漆黒の瞳には少しの揺らぎもない。
魅来は不安に押しつぶされそうな心で、それでもわずかな期待を抱いて、ホロの言葉を待ち続けた。
「悪いが、その理由を教えることは出来ない」
だが、返ってきた答えは、魅来の望んでいたものとは違う、そんな無情なものだった。握っていた両手からフッと力が抜ける。
「どうして……? やっぱりあんたは――」
「もちろんシスの言う通り、俺はお前に何もしていない。忘却の魔眼も、今のところお前自身には一度も使っていない」
「そんなこと……そんなこと言われたって、信じられるわけないでしょ!」
やりきれない思いを絞り尽くすように、魅来が声を張り上げる。
「別に信じなくていい。俺の仕事はお前の監視と保護だ。今は保護ではなく護衛になっているが、別にお前の信用を得る必要は無いからな」
冷たくそう言い放って、ホロは魅来に背を向ける。そのまま歩き出すホロの背中を、魅来は黙って見つめることしかできなかった。
「あぁ……だが、お前の間違いだけは指摘しておこう」
数歩歩いたところで、ホロは肩越しに魅来を振り返ることなくそう言った。
「間違い……?」
魅来の困惑した呟きに、ホロは「あぁ」と短く答えたあとで話を続ける。
「魔眼覚醒前の魔力の影響を唱える魔術師は多い。だが、そのほとんどは魔眼を必要以上に恐れているだけだ。さっきも言った通り、未だにこの説は証明されていないし、反対する者も多い。俺も信じていない。もし仮に魔術師が感知できないほどのごく微量な魔力が漏れていたとしても、その程度の魔力が他者の精神に影響を与えることはないだろう」
話の内容を整理する間も与えずに、ホロはさらに別の指摘を口にした。
「それに、魔眼は直接目を合わせなければ効果はない。お前の言うファンとやらの中に、どれだけお前の眼を直接見た奴がいる?」
不意にそう聞かれて、魅来はとっさに言葉が出てこなかった。上手く回らない口と頭でどうにか答えを返す。
「ら、ライブは、結構やってる……最高で、五千人とか……」
「バカかお前は。そいつらは会場に来る前、つまりお前の眼を見る前からお前のファンなんだろ? わざわざ金を払ってまでお前の歌を聞きに来る程度には。だったら、覚醒前のごく微量な魔力などそもそも関係ないはずだ」
冷静に考えれば、ホロの言葉が正しいと理解することができただろう。だが、魅来がそれを正しく飲み込み、消化するよりも早く、ホロは肩を竦めて話を続ける。
「まぁこの話を信じる信じないはお前の自由だ。好きにするといい。今日はもう奴が戻ってくる心配はないと思うが、念のため家の周囲は見張っていよう。お前は風邪をひく前にさっさと家に帰れ」
矢継ぎ早にそう告げると、ホロは魅来を置いてどこかへと歩き出す。
届くはずがないのに、魅来は思わずその背に手を伸ばす。だが、呼び止める声は出すことができなかった。
そして最後のホロの言葉が、魅来の身を案じるものだったと魅来が気づいたときには、ホロの姿はもう夜の闇に消えていた。