13話 ~忘却~
「っ! くそっ!」
魔術師の苛立たし気な声と共に、揺らめく光が灰色のアスファルトを赤く照らした。熱風が春の夜の冷気を吹き飛ばす。
そして――
「まったく……追跡しにくいから、タクシーは止めろと言っておくべきだったな……」
そんな気だるげな声が、地面に崩れ落ちた魅来の上から響いた。
その声に、魅来はゆっくりと顔を上げる。さっきまで凍り付いてしまったように動かなかったはずの体は、その声でわずかに熱を取り戻したようだ。
「…………ホロ?」
「……何をそんな死にそうな顔をしている?」
顔を上げた先には、見慣れたポーカーフェイスが。
ホロの体越しに、小さな相棒もこちらを心配そうに覗いている。
ホロとシスティナは直立の姿勢のまま空中にフワフワと浮かび、こちらを横目に見下ろしていた。おそらく魔術かシスティナの魔法だろう。右手の白黒模様の銃は油断なく前方の敵に向けられている。
「何があったか知らんが、邪魔だ。意識があるならさっさと立って、この場を離れろ」
明らかに落ち込んでいる魅来に向かって、ホロの辛辣な声がぶつけられる。
あ、いつものホロだ……と、なぜかちょっと安心してしまった。
「薄汚い月の執行者が……いつもいつも私の邪魔を……」
ホロの顔をじっと見つめていた魅来の耳に、魔術師の声が届いた。先ほどまでの甘ったるい喋り方は鳴りを潜め、地獄の底から響くようなどす黒い声だ。
魔術師の方に顔を向ける。
すると、そこには空に浮かぶホロよりも異様な光景が広がっていた。
一言でいうなら、炎の天使、それとも悪魔だろうか。その背中からは左右に二枚ずつ、計四枚の炎の翼が。差し渡し四メートル近いその大きな翼を羽ばたかせ、魔術師は空を飛んでいるのだ。そして両手には長さ一メートルくらいの炎の剣。それらの炎が赤々と眩い光を放っている。形だけを見れば天使のようにも見えるその姿だが、憎悪に染まった邪悪な表情は、やはり悪魔と呼ぶのが相応しいだろう。
「……炎の大天使ウリエルを題材にした魔術か……やはり何度見ても気に食わん」
「サリエルと同列に扱われること多いからねぇ。名前も似てるし」
不愉快そうに鼻を鳴らすホロと、興味なさそうな口調のシスティナ。悪魔の方が似合いそうな敵の魔術の題材は、どうやら天使が正解らしい。
「何をしている? 離れてろと言ったはずだが?」
「え、あ、えと……」
さっきよりも冷たい声でホロが魅来に呼びかける。
だが、そんなホロの声にも、魅来は上手く反応できなかった。ホロが来る前のように、まったく動かないわけではなさそうだが、まだ立ち上がるだけの力は戻っていないらしい。
「……お前――」
「我が歌姫! その男の言に従ってはいけません!」
様子のおかしい魅来に、ホロが再び声をかけようとする前に、魔術師が魅来に向かって叫んだ。
「その男はあなたを騙しているのです! その男を信じてはいけません!」
「狂人が何をほざく」
「貴様のような卑劣な男に言われたくはない!」
手にした剣のように燃え上がる憎しみを宿して、魔術師がホロを睨みつけ告げる。
「貴様も魔眼の所有者だろう!? それも記憶操作の力を宿した!」
魔術師の叫んだ言葉に、魅来が困惑に目を見開く。
どういうこと? と問いかけるように、ホロの横顔を見上げた。
魔術師を睨むホロは、その眉をわずかに持ち上げている。
何をバカなことを……と呆れているのではない。
なぜ知っている? そう問いかけるような表情だ。
「貴様の年で、それだけの実力を持った執行者……しかもそんな目立つ二丁の魔銃を使う魔術師が、全く噂にすらなっていないなどありえない! それこそ、関わった人間全ての記憶を操りでもしない限りな!」
ホロを真っ直ぐに指差して、魔術師が自身の推論を叫ぶ。
それが魅来にある出来事を思い出させた。
ずっと自分のことで頭がいっぱいで忘れていたが、ホロと最初にあったイベントの時、確かにその場にいたスタッフは、全員ホロのことを覚えていなかった。
それに、前に魅来の魔眼が暴走した時もそうだ。
あの時は、システィナが魔法を使ったので、まり恵や観客が記憶を失ったのはその効果だと考えていた。
だが、システィナはただ眠らせただけで、みんなの記憶が無かったのは、ホロが忘れさせたのだとしたら……
他にも、街中で大声をあげてしまった魅来に、集まった通行人からの注目が不自然なくらい一斉に終わったこともある。それにずっと一緒にいて魅来は慣れてしまっていたが、今の日本で平然と二丁の銃を持ち歩いている人間に、誰も奇異な視線を向けない理由も、記憶操作の魔眼の力があれば説明がつく。
でも、ホロは何でこのことを黙っていたのだろう?
どうしてシスティナの魔法を利用してまで、自分の力を隠していたのだろう?
自分に言えない理由があった?
ホロは自分を騙していた?
不安と疑念に揺れる魅来の瞳が、哀願するようにホロを見上げる。
あの男の言葉を否定して欲しい。
魅来の不安を「バカかお前は」といつものように冷たく断ち切って欲しい、と……
しばらく無言を貫いていたホロは、自分を見つめる魅来の視線に気付いたらしい。漆黒の瞳が魅来を見下ろす。
その鋭い眼光に射抜かれて、思わず魅来は視線を逸らしてしまいそうになる。
漆黒に輝くホロの眼から逃げるように……
だが、そんな魅来の疑念が行動に表れるよりも早く、ホロの方が魅来から視線を外した。
そして再び魔術師を睨みつけ、その口を開く。
「確かに、俺は『忘却』の魔眼所有者だ……が、それがどうした?」
魔術師の言葉をあっさりと肯定したホロに、魔術師はわずかに目を見開いた。
しかし、すぐに気を取り直すと、未だ地面に膝を着いたままの魅来に向かって、必死な形相で訴えてくる。
「聞きましたか、我が歌姫! 忘却の魔眼を使えば、この男が何をしようと思うがまま! どんなに下劣な欲望であなたを汚そうとも、この男は何もなかったことにできるのです! そんな男の傍にいてはいけない!」
そんな魔術師の言葉を聞いた魅来の体に、凄まじいほどの悪寒が奔った。
思わず魅来は自分の体を強く抱きしめる。
確かに、あの男の言う通りだ。もしこれまで一緒にいた一か月の間に、魅来が何をされていようと、ホロが力を使えば、その事実は忘却――文字通り魅来は全て忘れてしまうだろう。自分の体が穢されていないという保証はどこにもないのだ。
「この子がそんな酷いことするもんか!」
システィナが声を荒げて、魔術師の言葉を否定した。
システィナが怒ったところを見るのは初めてだったが、もはやそんな言葉を信じるだけの気力は魅来に残ってはいなかった。
自分を支えてくれていたものも、守ると言ってくれた言葉も全て偽物かもしれない。自分の記憶さえ、もう信じることはできなかった。
もう何も見たくない。
何も聞きたくない。
全てを拒絶するように、魅来は頭を抱え、目を閉じる。
そんな魅来の様子に気付いたのだろう。ホロは小さく舌打ちをすると、目の前の敵に向かって冷たく言葉を放った。
「去れ、魔術師。このままこの場で俺と戦って、この女が巻き添えになるのは、お前としても不本意だろ?」
ホロの提案に、魔術師はしばらくの間何かを考えるように黙っていた。おそらく迷っているのだろう。ギリリと歯を食いしばるような音が聞こえる。
「……いいだろう。腹立たしくはあるが、我が歌姫に傷をつけるわけにはいかんからな」
一分ほどの沈黙の後、ようやく魔術師はホロの提案を飲んだ。悔し気な声のあとで、翼の羽ばたく音が聞こえた。その音がゆっくりと遠くなっていく。
「だが、次は必ずあなたを救い出します! たとえその男に穢されていようとも! 私の愛で必ず!」
そんな叫びとともに、魔術師の翼の音は夜の空へと消えていった。