慈悲の雨に消えた言葉(1)
「神の山」の周囲にはそれを護る壁のように、「聖なる森」と呼ばれる木々が取り囲んでいる。リセルとルーグはほとんど会話をすることなく歩き続け、「神の山」を約三時間かけて下った。
その麓の岩の間から流れる冷たい清水で喉を潤して小休憩をとった後、リセルは一人、目の前に広がる「聖なる森」の緑を眺めながら、低い潅木が作る木陰の下で胡座を組んで座った。
ルーグは相変わらずリセルの様子をうかがうように、少し離れた木の下に立っていた。だが立ち去ろうとする気配はない。どうやら彼は今まで通りリセルに同行するつもりらしい。
リセルは小さく溜息をついて、ルーグの方へ振り返った。
「ルーグ」
呼び掛けるとルーグは顔を上げてじっとリセルの方を見た。
「どうした?」
「これから瞑想に入るから、小一時間ほどわたしに声をかけないでくれ」
「瞑想? こんな時にか?」
意外な答えだったのか、ルーグの顔に驚きが広がっていくのが見えた。
「瞑想といっても、自分と向き合う行為じゃない。ちょっと外の様子を探りにいくだけだ。意識だけを鳥のように飛ばしてね」
「……ほう」
ルーグは腕を組みながら、興味深気にうなずいた。
「だから、わたしが瞑想状態に入ったら、絶対に声をかけるな。身体に触るな。外からの刺激は厳禁なんだ。魂が身体に戻れなくなることもあるし、意識のない私は自分の力を制御することもできない。下手をすれば魔力を暴走させ、ここ一帯を焼け野原にするかもしれないからな」
「……わかった」
本当に理解してくれただろうか。
ルーグの素直にうなずく顔を見ながら、リセルは再び森の方へ向き直った。
ゆっくりと目を閉じる。
瞑想中のリセルは無防備になる。
だからできるだけやりたくないが、『ルディオール』の力がどれほどの範囲まで及んでいるか知っておきたい。
よって瞑想するならここしかない。
邪悪な意識に染まった者は決して入ることができない、「聖なる森」に囲まれたこの場所でしか。
木陰を落とす木の葉が風に揺られてそよそよと語り合っている。
リセルの背丈を優に超える巨石の間から、水晶の玉のように伝い落ちる清水が、琴をつま弾く心地よい音色をたてている。
それらの音を聞きながら、リセルは自分の意識を自然に溶け込ませ、徐々に同化させていく。
この地を流れる空気となったように。
身体が浮き上がる感覚を覚えた途端、リセルの意識は空から地上を見下ろしていた。
足元には山頂が白く冠雪した「神の山」とそれらをぐるりと囲む緑色の帯――「聖なる森」が見える。空は雲一つなくどこまでも澄みきった青色をして、アルヴィーズの力が感じられるやわらかな太陽の光が降り注いでいた。
リセルはそれらを一瞥し、「神の山」の反対側――エルウエストディアスの王都がある南の空へ視線を転じた。
ちょうど「聖なる森」が途切れるあたりから、そこは一変して黒い暗雲が立ち込め、霧のように空気が澱んでいた。
雲しか見えない。
それはとても密度が濃いせいなのか、太陽の光すらも吸い込まれているのだった。
この世界に降臨した『ルディオール』の力が、確実に地上に影響を与えている証である。アルヴィーズのそれよりも。
リセルは唇を噛みしめながら、目の前の闇の帳を凝視した。
アルヴィーズはこの地界には降臨しない。
かの神自身がリセルに語ったように、『ルディオール』と直接戦うことはこの地を破壊することになるからだ。
だからアルヴィーズは神界に留まり、だが、『ルディオール』を封じるだけの力をこめた剣をリセルに託した。
リセルは右手が熱を帯びたように疼くのを感じた。
王都をすっぽりと覆い隠す黒雲の向こう側から、冷たい憎悪に満ちた『視線』を感じた。
それは不意に射かけられた氷の矢のようにリセルの心臓をめがけ飛んできた。
リセルは右手をかざし、自らに向けられたその『視線』を受け止めた。
ぞくりと冷たい風が背中を一気に駆け抜ける。
暗闇に赤く光る二つの目がこちらを見ていた。
その目には見覚えがあった。
地上に沈む夕日のように純粋な赤で、暗き赤。
リセルは確実に自らの死を意識した『瞬間』を思い出す。
その目の主は殺そうと思えばリセルを殺すことができたのだ。
母リスティスが邪魔しなければ――。
『喚べ』
ただ一つへの憎しみに駆られた感情が、地の底から響く声でリセルに語りかける。
『あのあばずれを』
『この地上に』
『お前が喚ばないのなら、ひきずりだしてやる』
『そして、地中深く埋めてやる』
『今度は私の番だ』
『私が”アルヴィーズ”となる番だ』
幾つもの声が重なってそれは周囲の闇を震わせた。
リセルはいつしか自分の意識が、暗き雲に覆われた王都の方へ引き寄せられるのを感じた。
いけない。
そろそろ地上に戻らなければ、ルディオールに魂を捕えられる。
『ルディオール』の意識が宿った、細長い手のような黒い霧が、いくつもリセルめがけて伸びてきた。
リセルはアルヴィーズから託された剣が宿る右手をふりかざし、襲いかかるそれらを瞬時に消し去った。だがその一回の攻防でリセルは限界を感じた。
地上に降りた神と意識体だけの自分。力の差は歴然だ。
「……っ!」
急に目の前が真っ暗になって、とてつもなく長い落下をリセルは感じていた。
どうやら地上に残してきた身体が、瞑想状態を破られたらしい。
(くそっ……! あれほど外からの刺激は厳禁だって言ったのに!)
目覚めはきっと最悪のものになるだろう。
目覚めることができれば、だが。
◆◆◆
一体いつまで待てばいいのか。
ルーグは黄昏れ始めた空を見つつ、相変わらず木の下で胡座をかいて座しているリセルの様子をうかがった。
彼はそこにいるが、魂はない。いわば『抜け殻』の身体だけがそこにある。
弱くなった陽の光が、どことなく中性的なリセルの顔を照らしている。
そう。
ルディオールの呪いが解けた時、一瞬戸惑ったのは彼の顔だった。
それは記憶の中でしか覚えていない、ある者とよく似ていた。
「……エレディーンの末裔か」
ルーグは溜息をつきつつ、一時間以上座っていた木の下からゆっくりと立ち上がった。肩を覆う黒いマントが、痩躯を撫でるようにするりと滑り落ちる。
雨が降る前の、土が湿った匂いを運ぶ風がそれを波打たせた。
「何か用かな」
ルーグは聖なる森から現れた、十人程の人間に向かって呼びかけた。
彼等は畑を耕すための鍬や鍬、太い木の棒、穀物を刈り取る鎌を手にしてこちらへ歩いてくる。質素な木綿のシャツとズボンに身を包んだ彼等は、この森の近くの集落に住む農民のようだ。中には作業用の前掛けとスカーフを頭に被った女性の姿も混じっている。
ルーグは困ったように眉根を寄せた。
どうもいやな雰囲気だ。
彼等は一直線にルーグ――ではなく、潅木の下に座るリセルの方へ歩いていくからだ。
ルーグはリセルから少し離れた前方で、農民達の行く手を塞いだ。
リセルはまだ瞑想中だ。
彼が念を押したように、その身体に万一触れられることは避けねばならない。
「待て。一体何の用だ」
ルーグは先頭に立って歩いてきた、鍬を肩に担いだ男に向かって呼びかけた。彼等の様子はただ事ではない。
男は頭髪を短く刈り込み、白くなった無精髭を生やしていた。落ち窪んだ目にはやり場のない怒りと動揺、不安が宿っていた。それはこの男だけではなく、他の男や女も同じような目をしていた。
「その少年を連れていく」
男は鍬を右手に持ち、唸るような低い声でルーグに言った。
邪魔すれば容赦なく、その手の『武器』で殴るというわけか。
ルーグは肩をすくめ、まあまあと、諭すように柔らかな口調で再び男に話しかけた。
「一体どうしてだ? 彼が何かあんた達に恨まれるようなことでもしたというのか?」
男はうるさそうにルーグを睨んだ。
「いいからそこをどいて、大人しく少年を我々に引き渡せ。そうすればあんたには危害を加えない」
男はルーグを押し退け、リセルに近付こうとした。
だがルーグは男の腕を掴んで捻り上げると、あっさりとその身体を地面に叩き付けた。
「そ、村長っ!」
後ろに立っていた二十代の青年が叫び声を上げた。
「何をするんだい!」
ルーグは青灰色の瞳を細め、騒ぐ農民達に刃のような鋭い視線を投げた。
「そっちこそ、何故彼を連れていこうとする。理由を話せ」
「うう……」
ルーグの足元で、投げ飛ばされた男――村長がうめき声を上げた。
「命令だ。……王様の」
「何?」
村長はルーグの手を振り払い、その場にどっかと腰を下ろした。
ズボンのポケットを探って、くしゃくしゃになった羊皮紙を取り出す。
ルーグは村長からそれを受け取って素早く文面に目を走らせた。
そこには、リセルの年齢、身体的特徴と、彼が大神殿を崩壊させ、多くの神官達を殺傷したかどにより、見かけた者は直ちに警備隊へ通報するようにと書かれていた。
生死問わず。
どちらの場合でも、この農民達が十年は遊んで暮らせる程の巨額の賞金を支払うと、国王自らの印章が下の方に書き加えられていた。
「金の為か」
ルーグは村長の顔に向かって丸めた手配書を投げ付けた。
「違う! 俺達はどうしてもその少年を連れていかなくてはならないんだ」
村長は怒りに顔を赤く染めながら猛然と立ち上がった。
「この少年を聖なる森の近くで見た。そんな知らせが王都に入ったらしく、沢山の兵隊が村に来た。だったら自分らでここまでくればいいのに、奴らは俺達の家族を人質にして、俺達にあの少年を捕まえてくるようにいいやがった!」
「不気味な兵隊なんだよ! みんな青白い顔をして、ぎらぎらした目をして」
村長の後ろにいた中年の女性が、目にうっすらと涙を溜めてつぶやいた。
「悪いが、あの少年を連れて帰らなければ、俺達の家族が殺される」
村長がルーグに向かって再び掴み掛かってきた。
「……くそっ!」
同時にルーグの足元には二人の女性が飛びかかり、動きを封じようと手を伸ばす。
ルーグは身体を捻って女性達を躱し、村長の腕を掴んで、前方から鍬を振りかざした青年の前に立ち塞がった。
鍬は幸い村長の頭を掠めたが、同時にその動きは、彼等に道を開けることとなった。
ルーグの脇を数名の女性達が走っていく。
「しまった!」
ルーグは村長の首に手刀を降り下ろして失神させながら、降り下ろされた鍬と鍬を銀の剣の柄で受け止めた。
首だけ振り返り、リセルが相変わらず目を閉じたまま座っているのに舌打ちする。
彼はまだ帰って来ない。
早く帰ってこい。死にたくなければ。