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邂逅の森  作者: 天竜風雅
本編
16/21

(回想)最後の務め

 何かとてつもなく大きな負の力を帯びたものが、神殿の地下から溢れる気配。

 同時に神殿全体が小刻みに揺れて、純白の壁に無数の亀裂が走った。

「地震か?」

 祭事が行われている大広間の外で、いつも通り扉を守っていた神殿騎士のルーグは咄嗟に近くの柱へ身を寄せた。

 それはあっという間の出来事だった。

 地の底から不気味に鳴り響く音と揺れが激しさを増したかと思うと、壁の亀裂は天井にまで達し、細やかな色彩で描かれた聖人の絵を引き裂いてばらばらと崩れてきたのである。

 しかも信じ難いことに、神殿を支える太い石柱にも亀裂が襲いかかった。

 ルーグは身を寄せた柱の後ろに回った。

 大きな振動と共に、対面の柱が折れて倒れてきたのはその直後だった。

 一体何が起きたというのだ。

 ルーグは身を寄せていた柱に背中を預けながら息を吐いた。

 これもアルヴィーズ神の加護のせいか。ルーグは柱と柱の間にできた空間のおかげで、抜け落ちた神殿の天井の破片から身を守る事ができて無傷だった。

 頭を振ると粉々に砕けた大理石の破片と粉塵が落ちた。

 周囲は天井の崩落のせいで埃が舞っているのか薄暗い。

 ひょっとして瓦礫の中に閉じ込められたか。

 いや、大丈夫そうだ。

 ルーグは慎重に柱と柱の隙間から這い出し、大広間へ続く扉があった場所を見つめた。そこにはかつて扉があったと思われる枠だけを残して壁が崩れている。周囲は神殿の屋根と思しき破片などが山のように積み重なっており、半ばほどで折れた柱のみが残っていた。

 けれどルーグの視界に入ったのは、全てが崩壊し、人影が絶えた漆黒の闇に浮かぶ一人の少年の姿だった。長いセピア色の髪を靡かせた、緋の神官服を纏う少年。

 そして彼から少し離れた場所に、国王や執政官など、祭事の立会人として参加していた者達が倒れていた。

 瓦礫の山の中でひとり立つ少年は、凍り付いたように一片の光も射さない上空を見上げていた。

 ルーグは少年の視線を追って、思わず息を飲んだ。

 真っ黒な空に白銀の髪を靡かせた異形がたたずんでいる。

 ルーグは神殿の大広間でリスティス=アーチビショップの後継者に指名された彼女の息子が、実際にアルヴィーズ神を召喚する祭事が行われていたことを思い出した。

 あれが召喚されたアルヴィーズ神だというのか? 

 いや違う。

 あんな禍々しいものが輝けるアルヴィーズなものか。

 ルーグは全身の毛が逆立つようなおぞましさを感じた。

 異形はルーグから遥か離れた上空にいるためその容姿がよく見えないが、憎悪や妬みといった負の感情を特に強く感じた。

 その時、異形は華奢な身体の割りに大きな鈎爪状の手を振り上げ、真っ黒な雷をその掌に宿らせると、やおら緋の神官服を纏った少年めがけ放った。

 危ない。

 けれどルーグと少年の間には瓦礫の山が立ちはだかり、彼を漆黒の雷から救おうにも到底間に合わない。

 雷は少年に直撃した……かのように見えた。

 ルーグは自分からさほど離れていない柱の影に、リスティスがいることに気付いた。 緋の神官服を纏ったリスティスは、他の者と同じように地に倒れふしていたが、上半身だけを持ち上げて右手を伸ばし、異形が放った黒き雷からセピアの髪の少年を守っていた。

 雷はリスティスの力によって弾け周囲に四散した。

 飛び散った雷は瓦礫にぶつかり、再び濛々と土埃が舞った。同時に白い光が少年を包み込んで、その姿が消え失せた。

 上空に佇む異形がリスティスに気付いて、再び手に黒き雷を灯らせた。

 それを見たルーグは叫んだ。

「リスティス様、お逃げ下さい!」

 だがリスティスは先程の攻防で力を使い果たしたのか、ちらとルーグの方に視線を向けると小さく首を振った。

 上空から押しつぶされるような圧迫感が迫る。

 躊躇う間もなくルーグは瓦礫の影から飛び出した。

 神殿騎士は身命を賭して神官を護るのが使命。

 倒れたリスティスの身体に手を回し、立ち上がった所で、異形が放った黒き雷が二人の頭上に煌めく。

 間一髪、ルーグは直撃を逃れた。だが、落ちた雷は神殿の瓦礫を打ち砕き、リスティスを抱えたルーグごと遥か後方へ吹き飛ばした。

「……」

 自分の身に何が起きたのか。

 ルーグは崩れかけた瓦礫の山に背中を半ば埋め、思い出したかのように目を開いた。

 一瞬、気を失っていたらしい。

 瓦礫に埋もれながら、ルーグは腕の中でぐったりしているリスティスに視線を走らせた。

 彼女は無事だろうか。見た所大きな外傷はなさそうだが、リスティスの顔は紙のように白い。自らの傷の確認よりも、ルーグはリスティスに万一のことがないかそれが不安だった。

「リ……」

 リスティスの名を呼ぼうとして、ルーグは喉を詰まらせた。

 込み上げてきた塩辛い血の塊を吐き出し、空気を求めて喘ぐ。けれど全然量が足りない。そして胸が激しく痛む。どうやら肋骨が何本か折れて、それらが肺に刺さったようだ。ルーグは血の滲む唇を歪ませた。

 自分にはこの方を護ることができない。そう、悟った。

 アルヴィーズに祈って、せめてリスティスをこの場から連れ出すだけの回復を願おうと思ったが、神の存在は遥か遠く今は全く感じられなかった。

 失望感に俯くと、腕の中でリスティスが身じろぎした。

「そなた、ルーグじゃありませんか」

 目を覚ましたリスティス自身も顔色はよくない。今にも倒れそうで気力だけで意識を保っている。だが、ルーグのように大きな外傷はなさそうだ。ルーグは身体を動かそうとして、けれど胸の疼痛と息苦しさに咳き込んだ。

「ごめんなさい。わたくしのために」

「……いいえ」

 リスティス様がご無事なら――。そう言おうと思ったが、ルーグは口を開く事ができなかった。

 ルーグ達の前には新たな瓦礫の山ができていた。上空にいる異形の神の気配は依然大きな圧力感を地上にもたらしているが、瓦礫のせいで丁度死角になっているようだ。

 あの黒き雷をもう一度喰らえば終わりだ。

 その前に、せめてリスティスだけでもこの場から逃す事はできないだろうか。

 そんなことを考えていたルーグは、リスティスが上半身を起こし、ルーグの腰に帯びた剣に手を伸ばすのを見た。

「リスティスさま?」

「ルーグ。剣を借ります。……わたくしにはもう……時間がないのです」

 白い華奢な手がルーグの銀の剣を引き抜いた。

「リ……」

 リスティスはやおら抜き身の剣を逆手に持つと、自らの胸に突き立てた。

「リスティスさまっ! なんてことを」

 だが瓦礫に埋もれ身動きできないルーグは、リスティスを見つめる事だけしかできない。

 リスティスは剣を両手で握りしめながら祈っていた。

 胸から溢れる鮮血は量を増し、緋色の神官服に吸い込まれていく。

 ふっと、リスティスの目が開いた。色を失った唇が小さく笑みを浮かべる。

「……申し訳、ございません。貴方の眠りを醒ませてしまって。ですが、わたくしの最後の願いを……この命でもって、どうか、お聞き遂げ下さい……エレディーン」

 ルーグはリスティスの肩を抱きながら、目の前に現れたセピア色の長髪を靡かせた青年の姿を見つめた。

 それは現か幻か。

 ぼんやりとした光に包まれたその青年は、穏やかな湖水のように、淡い青にも深い青にも見える眼をしていた。けれどそこには静かな闘志が宿っている。

「リスティス」

 リスティスの呼び出した青年は、彼女に呼び掛けると側に近付き膝をついた。

 その時初めてルーグは、彼の姿が硝子のように透けて見える事に気付いた。

「……申し訳ございません。わたくしにはもう……あれを鎮める力がないのです。わたくしの力は、すべて、息子のリセルに託しました」

 リスティスは残る全ての力を振り絞ってエレディーンに訴えた。

「あの子はまだ、自分が何者であるかを知りません。できれば、何も知らずにいさせたかったのです。けれど、ついにわたくしから、貴方の血脈に連なることを、教える事ができなかった。ですから、どうか、あの子を導き、守って下さい……お願いです」

 エレディーンは黙ったまま、けれど深く頷いた。

「リスティス。貴女の願い、叶えたいと思う。だが一つだけ問題がある。私は『聖なる森』から離れる事ができない。身体をとうに無くした私は、アルヴィーズの力が宿る森を離れたら、現世に留まることができず消えてしまうのだ。いまこうしていられるのは、貴女の命が私を繋ぎ止めているからだ」

 リスティスの白い顔に絶望という名の影が降りた。

「そ、んな……」

「リスティス様」

 ルーグは胸の痛みと息苦しさを忘れ、急に重さを増したリスティスの身体を支えた。けれどリスティスの瞳はすでに閉ざされ、胸を貫いた剣から力の抜けた華奢な手が滑り落ちた。

「リスティス、様」

 ルーグは声にならない声で、力尽きたリスティスに呼びかけた。

 神殿騎士は身命を賭して神官を護るのが使命。

 ましてや、リスティスはこの国で最高位のアーチビショップ(大神官)であり、国の安寧を神に願う要人であった。

 ルーグは自分が側にいながら、彼女を守れなかった事をただ悔いた。

 勿論、ルーグ自身も重傷を負っている。

 肋骨が何本も折れてそのうちのいくつかが肺に突き刺さっている。

 右手は動くが左手は感覚がない。

 立ち上がる事はおろか、次の呼吸もできるかどうか。

 酸欠と痛みでルーグの視界は急速に暗くなりつつあった。

 リスティスは守れなかったが、もしもこの身体が再び動くのなら、自分が彼女の願いを叶えてやるのに。

 ふと脳裏に、緋色の神官服を纏った少年の姿が浮かんできた。

 リスティス様にあまり似てないな。

 彼に対する第一印象はそれだけだった。

 けれど同時に、少年が向ける不思議な光彩の瞳には肝が冷えた。こちらの真意を見通すような、彼のまっすぐな目で見つめられると、いかなる偽りも底意も見透かされているようで居心地が悪かったのを覚えている。

 それ故に、神官達がよそよそしい態度で彼に接するのをルーグは何度か見た事がある。

 薄暗くなった闇の中で、ふとルーグは視線を感じた。

 あの少年と同じ視線を感じた。

 目は閉じているはずなのに、青白い微光に包まれた人影をルーグは見た。


『私に力を貸して欲しい。神殿騎士よ……』

 リスティスが自らの命を代償にして呼び出したエレディーンという名の青年は、かろうじてこの場に留まっているようだった。ルーグが己の生命をなんとか引き延ばしているように。

『私に、か?』

 エレディーンは徐々に薄くなる姿をなんとか保ちながら頷いた。

『私は、あの地の底に眠るアルヴィーズの『半身』を見守ってきた者。そしてリスティスと彼女の息子は、我が血脈に連なる当代の『監視者』だ。身体を失った私に代わり、地上に出たアルヴィーズの『半身』を再び鎮められる唯一の者。だがリスティス亡き今、その役割は彼女の息子に託された。私は自らの命をもって訴えた、リスティスの想いに応えたい』

『それは……』

 それは私だって同じだ。

 口を開くのも億劫になってしまった。

 ルーグは苦しい息をついた。

『私は、何をすればいい?』

 身体が冷えてきた。ルーグに残された時間も僅かだろう。

 その時、何か暖かい気配がルーグの肩に触れた。

『私に、あなたの身体を貸して欲しい。その間、あなたの身体の時は凍結される。けれど私があなたの身体から離れたら……時は再び動き出す。死を免れるわけではないが、身体を貸してくれたら、私達はリスティスの願いを叶えることができる』

 ルーグははっと目を見開いた。

 どこかで見覚えのある淡い光彩の瞳がルーグを見下ろしていた。

『私達……』

 エレディーンはルーグに向かって頷いた。

『そう。私があなたの身体を借りても、あなたの意識が消えるわけではない。私は普段はあなたの邪魔はしない。必要な時には、私が表に出る事もあるだろうが』

『エレディーン』

『お互い時間がない。返事を聞こう。神殿騎士』

 ルーグは血のこびりついた唇を歪め、仄かに笑ってみせた。

『私の名前はルーグ。この身体で役に立つのなら、ぜひ使って頂きたい。私はそれを最後の務めとして誇りに思う』

『……ありがとう』

 ルーグは黙ったまま目を閉じ俯いた。

 何かが自分の中に入ってくる気配がする。ルーグはそれに不快を感じることなく受け入れた。

 同時に、冷えきって何も感じなかった四肢に血が巡り、胸を苛んでいた鋭い痛みと息苦しさが消えた。

『もう動いても大丈夫だ。立ってみるがいい。ルーグ』

 エレディーンの声が脳裏に響いた。

 ルーグは両肩と両手に力を込めて、まずは瓦礫にめりこんだ上半身を起こした。左手は折れていたはずなのに、それも今は完治しているかのようになんともない。

「身体が動くぞ。エレディーン」

『そうか。それはよかった』

「ちょっと待ってくれ」

 ルーグは息絶えたリスティスの身体を抱え、静かに足元に降ろした。

 麗しい顔にかかる乱れ髪と土埃を払いのけ、その胸に突き立った銀の剣の柄に手をかける。

 ルーグは銀の剣をできるだけそっと抜いた。

 リスティスがこれ以上痛みを感じないように。

 そして彼女の血に濡れた刃を自らの黒いマントで拭い、鞘に収めた。

 この血にかけて誓おう。貴女の最後の願いを叶えることを。

 貴女が命をかけて護ったあの少年を、今度は私が護ってみせる。

 ルーグはリスティスの手を取りその甲に唇を寄せた。貴人へ最後の別れを告げて、立ち上がる。

「どこに向かえばいい?」

『まずは王都を離れ、「神の山」に向かうのだ。『ルディオール』の呪詛を受けたリセルはアルヴィーズの助力を求めて、そちらに向かっている』

「了解した。だが、王都から神の山まではどんなに急いでも二日かかる」

 エレディーンはそれも仕方ないとルーグに告げた。

『聖なる森を離れた私は、あなたの身体を維持することに力の大半を使っている。余力があれば『飛翔』の魔法で飛べるが、今の私では無理だ』

 ルーグは苦笑いを浮かべた。

 時を急ぎたいのもあったが、楽をしようとした自分の心をエレディーンに見透かされてしまった。

「では、それなりの支度をさせてくれ」

『待てルーグ。動けばルディオールに気付かれる。街はずれまでなら『飛べる』」

 エレディーンの声がそう響いたかと思うと、ルーグは急速に視界が渦を巻いていくのを見た。

 目が回る。

 思わずぎゅっと目を閉じた途端、ルーグは身の毛がよだつ絶叫を聞いた。

 ありとあらゆる呪詛が込められたような、どす黒い感情に満ちた声を。

 やがてそれはみるみる遠ざかり、消えていった。

「ここは……?」

 ルーグは周囲を見渡した。

 確か時刻は昼を過ぎた頃だと思ったが、今は真夜中を思わせる深き闇が空を覆っていた。

『ルディオールの力が地上に溢れだしたのだ。これからどうなるのか……私にもわからない』

 ルーグは唇を引きつらせた。

「わからないって……そんな」

 エレディーンが密やかに笑った。

『早くリセルを見つけださなければ。彼が我々の希望なのだからな』

 ルーグは複雑な気持ちを抱きながら周囲を見渡した。街はずれのため民家と思しきものがほとんど見当たらない。

 だがルーグは前方の森に続く道に石造りの小さな神殿があるのを見つけた。

 ほとんど民家と変わらないような、小さな小さな神殿の扉を何度も叩き、中から出てきた初老の神官はルーグの姿を見て目を見張った。

「これは『大神殿』直轄の神殿騎士どの。このようなあばら家に何の御用でございましょうか」

 ルーグは肝心な所はぼかして、これからリスティス=アーチビショップの命で「神の山」に向かうことを告げた。だが王都に突如現れた異形の化け物にあい、馬に荷物を持ち逃げされて困っていると神官に話した。

 作り話で神官から食料を分けてもらうことに気がひけたが、「神の山」へは身一つでいけるほど近い距離ではない。

 神官はルーグのことを、危ない任務に赴く神殿騎士と察し、五日分の糧食と水筒を渡してくれて、ついでにアルヴィーズの加護まで祈ってくれた。

『よい御仁だったな』

 ルーグはエレディーンの言葉に頷きながら、「神の山」へ通じる林道を歩いた。

「悲しい事に人間は腹が減って喉の乾きを覚える。それが生きている『証』だから仕方ないが……」

 ルーグはふと疑問を感じた。

 エレディーンに訊ねてみる。

「私は、食事をした方がいいのか?」

 正直、喉の乾きも空腹もあまり感じない。もともと瀕死の重傷を負っているルーグの身体は、死なないようにエレディーンの力で生き長らえている。

『どちらでも。ただし、食事をしなくてもあなたは死ぬことはない』

 ルーグは自分のうっかり加減に苦笑いを浮かべた。

 そうでした。

 エレディーンがルーグの身体にいる限り、少なくとも餓えで死ぬ事はない。

 この糧食はいずれ合流するリスティスの息子――リセルが必要とするだろう。

「彼は無事か?」

 エレディーンはルーグの呼びかけに暫し待てと言って沈黙した。

『……取りあえず無事だが、ルディオールの下僕――下級幽鬼が捜索に出されたようだ』

「下級幽鬼」

 ルーグは頭の中で闇の世界に生きる者達について書かれた書物の事を思い出した。彼等は日の光を嫌い、通常は洞窟とか地の底とか暗い所に棲んでいる。旅の途中で行き倒れたり、無念の死を遂げた人間の魂が、『負』の力を取り込んで禍々しい存在に成り果てたもの――。それらを総称して「幽鬼」という。

 彼等は恐ろしい程まで生者を憎み、その暖かな血潮を凍らせる事に心からの悦びを覚えるという。

 幽鬼に殺された者も幽鬼となり、その魂は未来永劫浄化されることなく、暗き闇の世界を彷徨う。

 ルーグはセピア色の髪を靡かせて、廃虚の中に立ち尽くす、緋の神官服を纏った少年の後ろ姿を思い出していた。

 彼が大神殿に来たのは三ヵ月前の事だった。


 ――魔法使いが来る。

  リスティス様の後継者の魔法使いだ。


 神官達が色めき立って神殿の中を走り回っていた。

 もっとも、ルーグはあまり関心を持たなかった。

 自分達の仕事は神官と大神殿の警備なので、その仕事に支障がない限り、誰が来ようと普段の生活が変わるわけではなかったからだ。

 けれど神官達のうわさ話はちょくちょく小耳に挟んだ。

 一度も日々の祈祷に参加しないこと。

 薬草庫から勝手に薬を持ち出して、管理しているエルダー神官が泣いている事。

 リスティス=アーチビショップにそれを訴えたら、次の日、薬草庫に現れたリセルが薬草の種をすべて芽吹かせて、中が植物園と化してしまったこと。

リセル曰く、薬草の種を芽吹かせて、それらを収穫したら倍の量になると言ったらしい。

神官達はリセルの使う『魔法』に怯えていた。

 彼を怒らせたら、肉が腐り爛れ落ちる呪いをかけられる。

 そういう根も葉もない噂も横行していた。

「大丈夫だろう。なんたって彼の魔法には神官達が震え上がっていた。下級幽鬼ぐらい容易く追い払えるだろう」

 リセルはリスティスの後継者ーー神をも喚ぶ魔法使いの少年なのだから。

『ルーグ。あなたは知らないだろうが、リセルは魔力を完全ではないがほとんど封じられている』

「なんだって?」

 楽観視していたルーグはエレディーンの言葉に飛び上がる程の衝撃を受けた。

『彼からはかすかにしか魔法の力が感じられない。ルディオールの呪詛を受けたからな。だからルーグ、急いだ方がいい』

 けれど「神の山」にはどんなに急いでも二日を要した。

 エレディーンのお陰で二日間、不眠不休で歩き続けたルーグはふと不安になった。

 ひょっとしたら、リセルを追い抜いてしまっただろうかと。

 リスティスがどこにリセルを飛ばしたのかはわからない。けれどまだ少年であり、魔法もほとんど使えないリセルの足が、ルーグのそれより早く歩けるとは思えなかった。

 暗闇と化した空に白い頂きを持つ「神の山」がそびえ立っていた。

 その山をぐるりと森が取り囲んでいる。

 エレディーンが安堵したかのようにつぶやいた。

『聖なる森だ。これで私の力ももう少し発揮することができる』

 その時、ルーグは頬を撫でる風が氷のように冷たくなったのを感じた。

 暗くてよく見えないが、白い何かが背の高い草をかき分けて、森を目指して走っているのが見える。

『あの子だ』

「えっ?」

『ルーグ。あの子を助けてくれ。見ろ。物凄い数の下級幽鬼が追いかけている』

 それはまるで大きな白い靄の塊のように見えた。

 三十以上の下級幽鬼たちが密集して、目の前を走る小さな影を追いかけている。

 ルーグは先回りして聖なる森の中に入った。

 冷たい風を頼りに、リセルが来ると思われる方角へと進む。

 やがて、闇夜に大きな火柱が立ちのぼった。

『魔法だ。ルーグ、あっちにリセルがいる』

「わかっている!」

 ルーグは炎の残像を頼りに暗い森の中を駆けた。森の木々はルーグが急いでいるわけを知っているのか、その道を開けてくれるように枝をしならせた。

「あそこだ」

 ルーグは腰に帯びていた銀の剣を抜き放ち、追い詰められた小さな影に覆い被さろうとする白い靄を斬り付けた。

 銀の剣の刀身が光を放ち、リセルを飲み込もうとしていた幽鬼は絶叫を上げて消え失せた。

 ルーグはリセルに声をかけようとして、その姿の変貌ぶりに言葉を失った。

 樹の幹に背中を預け、今にもそこから崩れ落ちそうになっているのは、雪のように白い銀髪を三つ編みにした幼い少女。

『間違いない。リセルだ。ルディオ-ルの呪詛で姿を変えられ、神をも喚ぶ魔力を封じられている』

「本当にか?」

 エレディーンの言葉に信じ難いものを覚えつつ、ルーグは血のように赤い紅の瞳を見開いて、自分を睨み付けるリセルに手を差し出した。

「大丈夫かい? お嬢ちゃん」

 お嬢ちゃんと呼びかけたのは、やはりどうみてもリセルの外見がそうなので、そう呼ばざるを得ないと思ったからだった。

 だが、リセルの反応は実にわかりやすいものだった。

「お嬢ちゃんって……呼ぶな」

 ルーグはふと思った。

 自分はリセルを知っている。だが、リセルはルーグのことを知らない。

 彼と言葉を交わした事は神殿で一度もないからだ。

 なのでルーグはあくまでもリセルのことを知らない者として振る舞う事に決めた。

 いきなり事情を話しても、今は極限状態まで追い詰められていたリセルを混乱させるだけだろう。

いいか、それで?

 ルーグはエレディーンに了承を求めた。

『ルーグ。私は普段あなたの意識に介入しない。時がきたら、私自身がリセルに話す。それまではあなたに任せる』

 つまりエレディーンは、子守りをしたくないというわけだ。

 エレディーンはそれを否定したが、ルーグは力尽きたリセルを腕に抱えて、取りあえず彼と合流できたことに安堵した。

 すべてはここから始まる。

 リスティスの願いを叶えるためにも。

 最後の務めを果たすルーグの旅が。

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