リセルの告解
「……これで全員だ」
「わかった」
リセルは目を閉じ深呼吸をして、昂った神経を落ち着かせようとした。
だが目の前に横たえられた、五人の農民達の変わり果てた姿は目蓋の裏に焼き付き、焼け焦げの目立つ惨たらしい傷跡からは、未だどす黒い血が流れ出して大地を染めているのを忘れる事ができなかった。
彼等は死んだ。
リセルに今できる事は、その哀れな骸を浄化の炎で清めることだ。
「ルーグ。危ないから下がっててくれ」
「どれくらい?」
「百歩ほど後方へ」
落ち着いたルーグの気配が遠のいた事を確認し、リセルは強ばった両手を組んで、ちょうど臍の部分に押し付けるようにして当てた。
俯き、火の精霊の名を唇にのせる。
「聖炎の王よ。すべてを灰に。灰は再び森を潤す糧とならん。『ヴィズ・ギムレー』」
生半可な魔力では決して呼びかけに応えてくれない最高位の炎の王の名を呼ぶと、灼熱の太陽が地に落ちたような強烈な熱波が周囲に弾け飛んだ。
それは農民達の骸は勿論、瞬時にその場の空気まで焼き尽くすほどのものだった。
「……」
聖なる炎の火力は凄まじいが、それは契約主であるリセルを燃やす事はない。
『ありがとう。ギムレー』
心の中で炎の王に礼を言い、リセルはゆっくりと目を開けた。
白い灰を焼く小さな炎の残り火が、まるで花びらのように天へ昇っていく。
目の覚めるような真っ青な空の――遥か天の高みまで。
それを見つめながら同時にリセルは唇を噛んだ。
聖なる森との境界には、黒々とした暗雲の塊が広がっていたのだ。
「リセル」
ルーグが再びリセルの隣にやってきた。
リセルの視線の先にあるものを一瞥すると、その飄々とした表情は苦いものへと変わっていった。
「彼奴は急速に自分の力を地上に及ぼしつつあるな」
「……ああ」
「行くのか?」
リセルはルーグの言葉に黙ったままうなずいた。
「わたしは――」
リセルは喉の奥につかえた思いを吐き出すつもりで口を開けたが、それをすぐに言葉にすることができず俯いた。
「どうした。口籠るなんてお前らしくない。言いたい事があるならいってみろ」
ルーグの口調は優しかったが、彼は自分が何を言うのかわかっているような気がした。顔を上げるとルーグの湖水のような青灰色の眼がリセルを見下ろしていた。リセルは右手を上げ、無意識の内にそれを胸の上で握りしめた。
「ルーグ。『あいつ』の所へ行く前に、わたしのやったことをきいてくれるか? わたしは、ルディオールを監視する一族の流れを汲む出自故に、尋常ではない魔力を備えて生まれてきてしまったのだ。その力を……再びあいつに利用されそうで、本当は怖い」
「リセル」
ルーグの目が訝し気に細められる。
「私に話す事でお前の気持ちが整理されるのなら、私は最後までそれを聴こう」
「……ありがとう」
この場に誰かが、けれどそれがルーグでよかったとリセルは思った。
自分の中だけに抱えていることに正直限界も感じていた。
昨日、自らの魔力を暴走させたせいで炭化した森の一部を見つめながら、リセルはぽつりと口を開いた。
「もう、あれから五日、いや……六日が経つんだな。わたしは大神官である母の後継者としての証を示すため、王城内にある『大神殿』でアルヴィーズ神の召喚を行っていた。神殿内にはわたしの他に母と国王陛下。執政官などの役人に、各神殿の神官長たち十五名と、特別に立ち合いを許された上級神官達三十名ほどがいた。それと……」
リセルはちらりと隣に佇むルーグを見上げた。
「神殿の外には『大神殿』直属の神殿騎士達が警備の為に詰めていた。数はわからないが常時十五名ほどいたと思う」
ルーグはうなずき、リセルは再び話を続けた。
「召喚の儀はわたし(魔法使い)にとって難しいものではない。衣服を乾かすために火の精霊の力を呼びだすように、召喚は日常茶飯事だ。ただ……喚び出す相手が精霊より格上の『神』と呼ばれる特別な存在だけあって、要求される魔力の量が尋常じゃなかった。当然と言えば当然だ。この世界に息づく精霊とは違い、神は別次元の世界にいる。それを無理矢理呼び出すのだから、体中の力を搾り取られた。母が言っていたが、神の召喚はまさに術者の命を削る痛みを伴う。あの時わたしはアルヴィーズに呼びかけながら、自分の意識を保つことで精一杯だった。意識を失えばアルヴィーズは勿論喚び出す事はできないからだ。その時だ……」
リセルは大きく息を吐き、疲れたように足元の草むらに腰を下ろした。
柔らかな葉の手触りを確かめるようにそれを握りしめる。
大丈夫。
ちゃんと大地に足はついている。
ここが崩れる事などありえない。
「不意に聞こえたんだ。『声』が」
黒いマントが揺れてルーグがリセルの隣に腰を下ろした。
「声?」
リセルは肩に滑り落ちたセピア色の髪を手で払い、気弱な笑みを浮かべた。
「ああ。元々わたしが大神殿に来た時から感じていたことだけどね。わたしが如何に現大神官の息子であれ、本当にアルヴィーズを喚ぶ事ができるのか、大神殿の神官達は疑問に思っていたようだ。そんな彼等の『心の声』が、はっきりと不意に聞こえてきたんだ」
リセルは両腕で肩を抱いた。
――あれがそうらしい。リスティス様の息子で魔法使いだそうだ。
――なんと。まだ子供ではないか。
本当にアルヴィーズ神をあの子供が喚べるというのか?
――少なくとも国王陛下はそう思われている。
ひょっとしたら、お美しいリスティス様が、陛下に直接発言できる大神官の特権を行使して、自分の息子を後継者にしようと吹き込んだとか……。
――まさか!
でも大神官になるためには、神を喚び出せることが条件だ。
――それはそうだが、我々一般人を欺くのに、何も本物の『神』を喚び出す必要はないだろう。
リスティス様はアルヴィーズ神を毎年喚び出して、国の安寧を願っているが、果たしてそれは本物のアルヴィーズ神だろうか?
魔法の見せる幻影で、我々はずっとそれに騙されていたのかもしれない。
――そうなのか?
――『降臨祭』の時、実際アルヴィーズ神の召喚に立ち会われるのは陛下のみ。
陛下だけなら騙すのは雑作もない。
その上、神を召喚したリスティス様は必ず人払いをして一日居室に籠られる。
ひょっとしたら、リスティス様ご自身が、怪し気な魔術でアルヴィーズ神に化けているのかもしれないじゃないか。
――じゃあ、何故今回は我々の前で召喚の儀を?
――余程自信があるに違いないさ。魔法に素人である我々も騙す事ができるとな。
「彼等の声を聞いた途端、わたしは心の底から怒りを覚えた。確かに彼等が言う通り、魔法で神の幻影を見せる方が召喚より遥かに楽だ。でも母は違う。母は己の身を……命を削って国の為にアルヴィーズを喚んでいたんだ。人払いをするのは消耗した自分の姿をみられたくないから。母は……誇り高い人だから。決して人前で自分の弱味を見せたりしない。ましてや、母のことをああいう風に見る連中がいる神殿では、特にね」
「確かに、人を貶めることを平気で言う神官もいるな。私にも何人か心当たりがある」
ルーグは同情するかのようにうなずいた。
「わたしのことはともかく、母のことを侮辱する言葉を聞いて、わたしは一気に集中力を失った。アルヴィーズの気配はすぐそこまで来ていた。けれどわたしは……」
リセルは息を吐いた。
「わたしは、アルヴィーズを喚ぶのを止めた。急に馬鹿馬鹿しくなった。神官達は本物のアルヴィーズを喚んだって、偽者扱いするに違いない。そんなだから、神官達は自らの信仰のみでアルヴィーズと意志の疎通をすることができなくなったんだ。だから、わたしはアルヴィーズを喚ぶのを止めた。けれどその代償は高くついた」
「一体どうしたのだ?」
「わたしの方からアルヴィーズの同意を得る前に召喚の契約を破棄した。これは召喚の魔法において最大の禁忌なんだ。本来は呼び出した相手の同意を得て、元の世界に戻ってから繋いでいた互いの空間を閉鎖させる。だけどわたしはアルヴィーズがまさに現れようとする直前に、こちら側の空間を閉じてしまった。アルヴィーズは思わぬ出来事にきっと戸惑った事だろう。そのせいで……地上に出ようと機会をうかがっていた『ルディオール』の意志が目覚めたんだと思う」
ルーグはよくわかったような、わからないような複雑な表情でリセルを見た。
「ルディオールは地中深く封じられていたのだろう。それぐらいの出来事で、ルディオールの意志は目覚めるものなのか?」
リセルは肩を抱いていた腕を放し、ルーグに向かって自嘲した。
「言わなかったか? わたしが、『ルディオール』を喚んだのだ」
「何……?」
ルーグの青灰色の瞳が大きく見開かれる。
リセルはその瞳に映る自分自身に向かって自虐的な笑みを浮かべた。
「アルヴィーズの召喚を打ち切ったわたしには、当然のことながら契約違反に対する罰が待っていた。アルヴィーズが神界に戻る前に空間を閉じるということは、かの神の存在を不安定にさせ消失させるような、大きな危険に満ちている。わたしがアルヴィーズの召喚を途中でやめたことに気付いた母が、慌てて床に描いた召喚陣を無理矢理踏み越え入ろうとした。だが、魔力の衰えが顕著になった母の力では、中に入る事ができなかった。わたしもまた召喚陣から出る事ができなかった。それはわたしを『ルディオール』のいる闇の世界へ強制送還させる魔法陣に変化してしまったのだ。
わたしは抗った。
何故わたしだけが、こんな目に遭わなくてはならない?
アルヴィーズの存在を不安定にさせたことは悪いと思っている。
だからといってこの仕打ちは厳しすぎる。
助けてくれ。
――誰か。
わたしにはもう何の力も残されていなかった。
アルヴィーズを喚んだ事ですでに体に宿る魔力は搾り尽くされ、生ける者の住む世界ではないここの大気は、わたしの肺をすぐにでも窒息させる毒に満ちていた。
果てしなく落下を続けるわたしの体を、その時誰かが受け止めた。
『私を喚びなさい』
眠る幼子に呼び掛ける母親のような優しい声が、わたしの耳元で響いた。
『私があなたを地上まで連れていってあげる。あなたはただ、私の名を喚ぶだけでいい。それで地上への扉は開かれる』
『――あなた、は?』
闇の中に仄かに輝く銀髪がさらりと揺れて、この世の赤を凝縮させたような、紅の瞳がわたしを見下ろしていた。
そしてその顔は、わたしが見知ったものだった。
『アルヴィーズ?』
太陽神と同じ顔をした銀髪の女性は、困ったように目を細め、ゆっくりとわたしに顔を近付けた。
『私の名はルディオール。喚びなさい。もうあなたに残された刻は瞬きをする一瞬だけ――』
わたしは彼女を喚んだ。
この闇の世界から逃れたい一心で。
途端、世界が暗転した。
気が付いたらわたしは天井が崩壊した大神殿の中に立っていた。
大神殿は柱を残して、全ての壁と天井が崩れ落ちていた。
わたしがアルヴィーズを喚ぶために描いた召喚陣は丸く床が抜け落ちて、底の見えない深い穴がぽっかりと口を開いている。
わたしは何があったのかさっぱりわからず、呆然と辺りを見回した。
足元には崩壊した神殿の瓦礫が散らばり、大きな破片の間から、一人や二人ではないいくつもの押しつぶされた人間の手足が覗いていた。白い大理石の床はそこから細く流れる鮮血で赤く彩られ、それが召喚の儀に立会人として同席していた神官達のものであるということに気付いたわたしは、強烈な吐き気を感じてその場にうずくまった。
どうして、こんなことに?
闇の世界の瘴気を吸い込んだせいもあって、わたしは何度も吐いた。元々召喚の儀の為に飲食を昨晩から断っていたから、胃の中には殆ど何もないはずだが、込み上げる吐き気は少しも治まらなかった。
その時、上空から高らかに笑う女の声が聞こえてきた。
同時にわたしの名を呼ぶ母の声も。
母が生きている。
そのことだけがわたしの希望になって、一瞬だけ力が湧いてきた。
けれど次の瞬間、空から黒い稲妻が煌めき、わたしをめがけて落ちてきた。
わたしにはそれを防ぐことも逃れる力もなかった。直撃を受けなかったのは、母がかろうじて残る魔力を集め、わたしを守ってくれたからだが、そこにこもっていた凄まじい呪詛まで防ぐ事はできなかった。
私が覚えているのは、母の顔と、闇の空に浮かぶ銀月のような髪と鮮やかな紅の瞳を細め、アルヴィーズへの憎悪に満ちた言葉を吐くルディオールの姿だけだった。
次に目が覚めた時、わたしは王都の外れの森の中に倒れていた。
その時の姿はルーグ、あんたも覚えているだろう? 『ルディオール』はわたしを利用してこの地へ出てきたが、再び封じられる事を怖れてわたしを殺そうとした。でも、母のかけてくれた防御魔法がその威力を弱め、死には至らなかったが呪の一部がわたしの姿を歪め、神をも喚ぶ魔力を封じ込めたというわけだ」