三十四話
権利書を貰ってから、一ヶ月後の金曜日の十三日に悟は
「今日は、演習があるから」
と言って、朝早く出かけていきました。
雪子は、手術場勤務です。
金曜日はテーベー(肺結核患者の肺切除)の日です。
いつになく手術場は緊張しています。
朝早くから、手術場に入っても午後三時ごろにならないと出られません。
テーベーは、それだけ時間を必要としました。
無事手術を終え、手術場からヘトヘトになって雪子が出てくると
「大変!急患なの、それがね雪子、自衛隊さんなの」
雪子の顔色は見る見る青ざめました。
(兄は今朝、演習だと言っていたけど、まさか!?」
「どういう患者さんなの?」
「それがね、手銃弾を投げ間違えて、人がいる所に投げちゃったらしいのよ。だから三人共に来られた時には佛さんなのよ。死後清掃に手術場に運んでいるの、自衛隊さんだけに、雪子には早く知らせた方が良いと思ったの」
「その中に、兄がいるの?」
「貴方のお兄さん、見たことがないのですが分からないのだけど、三人の中に顔をやられて、全然分からない遺体があるの、遺体はもうすぐこちらに来るわ」
雪子は外来目指して走って行きました。
少しでも早く遺体に出会う為に、走って走りました。
今日ほど外来を遠くに感じたことはありませんでした。
途中で遺体に出会いました。
雪子は気が狂ったように、その遺体の顔を覗き込みました。
(兄ではないように、兄ではないように)
祈りながら覗き、心臓は早鐘のように鳴っています。
最初の遺体は違っていました。
(よかった、兄ではない)
その次の遺体も違っていました。
その次の遺体は、焼けただれていて、男女の区別もできないほどの遺体でした。
証明できる、何かがないか持ち物を探しますと、免許証がありました。
(お兄ちゃんじゃないよね、お兄ちゃんじゃないよね)
と、心で祈りながら、震える手で、、、
やっと免許証を開きます。
目には涙が溜まって見えません。
涙を吹いて、やっとの事で見てみますと、何と、一番恐れていた字が目の前に、はっきりと、くっきりと、杉原悟と書いてあるのです。
雪子はひどい衝撃を受け、へなへなと座り込んでしまいました。
(こんな事が、このような事があってもいいのかしら、お兄ちゃんは今から幸せになれるのに、幸せを目の前にして、苦労だけして死ぬなんて、お兄ちゃん、可哀想すぎるわ)
涙を吹いては、免許証を何回も見ます。
見間違いであればいいのに、と何回も見ますが、やはり、杉原悟という字は変わらないのです。
辺り構わず、大きな声で狂ったように泣きました。
心臓に矢が撃ち抜かれた時のような、苦しみが胸に迫ります。
この広い地球で、幼い二人が肩を寄せ合って生きてきたのに!
雪子にとって、頼れるただ一人の肉親なのです。
悟は、父であり母であり、そして兄なのです。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
叫んでみますが、答えはありません。
冷たい体が横たわっているだけです。
(お兄ちゃんが死ぬなんて、そんな事があるわけないわ。今朝、笑顔で家を出たのよ。何かの間違いよ。お兄ちゃんは死んだりしないわ、雪子を一人残して死んだりしないわ)
そう思って、何回も確認しますが、やはり何回見ても、杉原悟と間違いなく書いてあります。




