第八章『離隔、それは星々の如く④』
これまでのヴァルハラの王~ケルベロスコール~いつもと様子の違うハープ。彼女から話があると持ちかけられた!
その日の晩、街の近くにある湖にケルベロスとハープは訪れていた。
二つある月が煌々(こうこう)と、湖面を照らしている。ケルベロスは、並んだ月を見ると心が落ち着いた。何より夜という闇の世界が好きだった。
一体と一人は、湖面を見つめ佇んでいた。
「で、話とは何だ?」
ハープは頭を掻きながら語り始める。
「まず、召喚ぶのに、三ヶ月もかかってしまってごめんなさい」
「何だ、そんなことか。それは、あの菓子のフルコースでチャラだ」
「本当は、すぐに呼びたかったんですよ。でも、召喚んでしまったら、契約違反になってしまう。だから、あなたの力で解呪できる患者を探しました」
「……」
「一日でも早く、あなたに会いたかった。離れている時間が長くなる程、その気持は強くなっていきました」
風が湖面を揺らし、写り込んだ月の輪郭が歪む。
「ケルベロス……私は、あなたの事が好きです。愛しています」
「ハンッ、何を急に……それは、お前が見ず知らずの他人に対して抱いている”愛”って奴だろ? それに、冥界の番犬たる俺も入れてくれるのか。ありがとよ」
茶化して返す。
「違います」
ハープの方をチラリと見ると、彼女はケルベロスの方を見つめていた。その金の瞳は少し潤んでいるようだった。
その瞳を見てハッとなる。
天に浮かぶ月を見ると心が落ち着くのは、ハープの瞳に似ているからだと気づいた。吸い込まれそうなその瞳を、見つめる。
「私は、あなたの事を心から愛してしまいました」
ハープが、一歩近寄る。ケルベロスは離れるように後ずさる。
この少女に畏怖するのは二度目だ。
ハープが何を言っているのか飲み込むのに、時間がかかっている。
「この先も、ずっと私と共に居て下さい」
「あ、あっ当たり前だ! 契約してるんだからな」
「もう、あなたを送還したくない、共に生き歩んで欲しいのです。私が死ぬまでずっと……」
そんなことを言われたことはなかった。何より、今までは冥界の王意外と、関係を持ったことのない彼には、何段も段階をすっ飛ばす出来事であった。
「お前、それはホン……」
聞くまでもなかった。金の瞳からは、冗談ではない意志を感じ取れた。
そこから、しばらく二人は見つめ合った。
木々が揺れ、葉の擦れる音が辺りに響いていた。
口火を切ったのはハープだった。
「ケルベロスは、私の事をどう思っていますか?」
菓子の為とは決して言えなかった。と言うより、その答えに行き着かなかった。
その真剣な眼差しから、もう茶化すことはできないと悟る。
「……お前は、俺の見てきた人間の中では、最もマシな部類だ。自分の犠牲を払ってまで、見ず知らずの人間を助けたり、庇ったり……そんな、人間がいるなんて知らなかった。それに、俺をあの穴蔵から連れ出してもくれた。別に、そこは望んだわけではないんだが……俺の世界が一気に広がった。それは、ありがたいと、思っている……」
果たして、今のこの感情が”好き”なのか、確証が持てなかった。
「好きだとか、愛していると言うのは。人生を左右する事だ」と、以前、冥界の王が言っていた事を思い出す。この手の事で奴の言うことは、どっかから拾ってきた情報なので、あまり役には立たないのだが、今のケルベロスに、その言葉が重くのしかかる。
軽はずみな返答はできない。固唾を飲み込む。
「俺は、ハープが」
ハープの動機が激しいようだ。ケルベロスには、彼女の鼓動が激しく脈打っていることがわかった。
もちろん、ケルベロスの鼓動も早かった。冥界の王が発する緊張感とは、また違った緊張感だ。
「”嫌い”ではない。ハープにはすまないが、これが、今の俺にできる精一杯の答えだ」
ハープは俯いてしまった。鼓動は、落ち着きを取り戻しているようだ。
「ハープ?」
「そうですか。良かった。私の事が嫌いでなかった事が分かっただけで、良しとします」
二つの月の明かりに照らされたハープの顔は、もの悲しげな笑顔であった。
「あっでも、アレだ。送還したくないってのは、大歓迎だぞ!」
「本当ですか! こちらに残ってくれるのですね?」
満面の笑みになったハープの顔が、目の前までやってきた。
先の謁見の間の件があり、冥界に居辛いケルベロスは、送還されないというのは、寧ろ大歓迎であった。
「お、オウ? 俺としては、願ったり叶ったりだ」
「良かった。断られるかと思いましたぁ」
「基本的に、お前が送還の呪文を唱えなければ、俺が還ることはないんじゃないのか?」
「そんなことはありません。ケルベロスのような魔族や、神族が、地上に長くいると、この星には良くないのです。あなた達は、超々常の力を有した存在ですからね。ある研究者の話では、あなた達がいることによって『呪いが生み出されている』なんて、話もしています。なので、解呪が終わったら還ってもらっているのです」
「俺は、そんなことは!」
「そうですね。私も、そんなことはないと思いますが、実際に唱えている人々もいます」
「なら、どうしたら良いんだ?」
「それを防ぐ為の、魔導があります」
「?」
「『転人魔導』と言うものです。中身をそのままに、姿を人の物へと変える魔導です。これを使えば、あなたの与える世界への影響を、極限にまで抑えられます」
「そんな、都合のいい物があるのか?」
「ちょっと、待ってください」
そう言うと、ハープは魔導陣の描かれた紙を取り出す。
魔導を使うには、必ず魔導陣が必要だ。
発動させる魔導により陣のパターンは決まっている。魔導筆や、魔導白墨を使い描いたり、指先や杖などから、魔導力を出し描いていく。
描くことにより呪文を”唱えた”と言う事になり、魔導が発動する。魔導陣の図形が、唱えるべき呪文一つ一つの役割を担っているので、魔導力の乏しい者でも使用することが可能なのだ。
遥か昔は魔導を使う際も、召喚のように呪文を唱えていたが、魔導陣の登場により、長い詠唱による魔導を使う者はいなくなり、その技術は失われてしまった。
召喚師は、その失われた技術を今に残す、貴重な存在でもある。
「この魔導陣で、発動可能です」
「召喚師のお前が、魔導を使えるのか?」
「少しだけ話しましたが。私は、魔導師としても素質も持っています」
魔導力を持っている者が、あえて、メリットの少ない召喚師に就く事は稀だ。
「まぁ、それはいいとして、成功例はあるのか?」
「はい、あるみたいですよ」
胡散臭い。そんな、都合の良い物があるわけはない。しかし、ハープの顔は自信満々だ。
「ハンッ! まぁ、お前がそう言うのならいいだろう」
信用してみることにした。何より、これで冥界の王の手から抜け出せるのだ。
「ありがとうございます」
ハープは、黙々と精神統一を始め、魔導陣を描き始める。
他の召喚師と違い、純粋なる魔導師としての素質を兼ね備えているハープではあるが、魔導が得意というわけではない!
辿々(たどたど)しく指先から魔導を出し陣を描いていく。
ケルベロスはそれを黙って見つめていた。何度も紙を見直しながら描いていく、一本の線を描くのにかなりの時間を費やしていた。
一本でも線が間違っていると、発動しなかったり、別の魔導が発動してしまう。
不安に思うケルベロスだが、彼に手伝えることは現状何もない。
四十分は、魔導陣と格闘をしていたが、ようやく完了間近な様だ。残り一筆入れるだけで発動する。
「……お待たせしました」
視線が交差する。
ハープの表情は、不安に満ちていた。
「……ごめんなさい。ちょっと、弱音吐きます」
「どうした?」
「この魔導、成功例はあるのですが、私がこれを使うのは初めてで……」
「お前、それを今言うか!」
「だから、これで人になることができたなら、私を、その……」
ハープは、ケルベロスから目を逸らす。
「一番に抱きしめて欲しいのです」
「!」
ハープの耳は真っ赤だった。
「約束してくれれば、私は……必ず、この魔導を成功させてみます。勇気を下さい」
「…………分かった」
抱きしめるだけで、ハープに勇気が湧き成功! と、言うのなら協力せざる負えなかった。何より失敗は避けねばならない。
「ありがとうございます」
ハープの顔から、不安は消えたようだった。陣の上に乗るようにケルベロスに合図をする。
そして、完成させる為、最後の線を描いていく。残り数センチで陣は完成する。
なかなか進まない。決してハープが焦らしているからではない。ケルベロスの体感時間が長く感じさせているだけ。ほんの数秒の出来事なのだが、何時間も経過しているようであった。
そして、ようやく陣は完成した。線は黄色く輝き、辺りを照らす。
空に浮かんだ二つの月よりも、強く輝いていた。
その魔導陣は、地面からめくれるように立ち上がり、ケルベロスを包んだ。
あまりの輝きに、彼は目を瞑っていた。意識ははっきりとしているのだが、体はボヤケているような、何もつかみ所のない不思議な感覚。
三つの首、四足で立っているとは思えなくなっていた。さながら、水にでも”なった”かのようだ。
しばらくすると、水のような状態から固まっていくのがわかった。ケルベロスの意識を包み込むように、水が固体へと変質していく。「これは脚か?」「これは背だな」完成していく段階が理解できた。
取り囲んでいた魔導陣が縮んでいき、新たに構築された体にピッタリと貼り付く。
これにて、転人魔導は完了となる。