第四章『会遇、それは終焉への船出④』
あれから一ヶ月経った。
何万年の時を生きるケルベロスにとって、一ヶ月など瞬く間に過ぎてしまう。しかし、この一ヶ月は長く感じた。
待てども暮らせど、召喚される気配がなかった。訪れるのはやはり亡者のみ。
ハープ以外の生者が来るわけでもなく。何もない、いつもの冥界への入り口の姿だった。
「騙された!」そう思うと、腹が立ち死者に当たった。こうすることで、何かがあるわけではなく、ただただ虚しい気持ちになった。
ハープの顔は記憶から薄れていく中、彼女の作るお菓子の記憶だけが、舌の上から消えず反芻することで気を紛らわせていた。
そうすると「早く召喚してほしい」と、強く思うようになっていった。
今日も、死者達を監視し、門の番をしている。すると、意識が自分の遥か上空に引っ張られていくのを感じた。足元には魔導陣が展開される。
意識ははっきりしているのだが、自分の中の自分が、吸い取られていくような感じに陥った。
生者の攻撃かと、身構えるも人の気配はなし。
どんどん意識は、吸い取られていく。しかし、そこに恐怖は微塵もなかった。むしろ、心地良いものを感じたのだった。
ここは地上、エリュトロン大陸の辺鄙な村。桜が咲き乱れるこの村には、病に苦しむ人々がいた。
その病は「何日も苦しみ続けるが死に至れない」と言う、奇病。どんな名医も治すことはできなかった。
これは、病ではなく”呪い”と、呼ばれている。
残念ながら原因は分かっていない。瘴気に当てられたのか、前世での行いなのか......発病者にはなんの共通点は見受けられなかった。
この呪いを解くことができるのは、召喚師だけである。
村の広場に人だかりができていた。これから解呪の儀式が始まろうとしている。
そこにはハープの姿が、一週間続いたケルベロスの契約に打ち勝った彼女は、呪いに苦しむ住人を助ける為、遠路遥々この村を訪れたのだった。
ケルベロスとの契約から、一ヶ月が過ぎていた。
「では、これから儀式を行います。危ないですので、皆さん下がって下さい」
ハープが言うと、ティタ達が野次馬を下がらせる。その中心にはハープと、解呪を行う少年の二人のみ。
顔面蒼白の少年は、ロープで縛られ、身動きが取れず、グネグネと、もがいていた。それはさながら芋虫のよう。
少年の前に立つと、ケルベロス召喚の呪文を詠唱をする。
「安心して下さい。もうすぐ、楽になりますよ」
ハープは大きく息を吸う。
”月帝の巫女”
”純白なる羽衣”
”夢幻の未来”
”我は無能なる魔導師”
”汝、過去、現在、未来の護手”
”汝、保存、再生、霊化の権化”
”魔の力を行使する。我は聖者”
”神の力を行使する。我は咎人”
ハープの首筋には以前まで無かったタトゥーがあり、それが発光する。
その直後、彼女の足元には契約の時に描いた魔導陣が浮かび上がる。そして、それから黒い光の柱が立ち上がった。
光の柱が弾けると、空中には洞窟内であった時の三つ首の魔獣。しかし、スケールは小さくなっている。
ふわりと着地する。大きさだけではなく、蛇の髭はなくなっていた。
この姿はケルベロスの本人なのだが、実際には本体でない、端末の様なものである。自身そのものを召喚する事もできるのだが、世界に悪影響を及ぼしかねない為、このような端末で召喚するのだ。端末と言っても能力はなんら遜色はない!
「ケルベロス、お待たせしました。ようやく、あな……」
挨拶を済まそうとした時、ケルベロスは目を押さえながら苦しんだ。二本の前足では六つの目はカバーすることができない。
「目が! 目が痛いっ! 肌が焼ける!!」
「だ、大丈夫?」
万年穴倉生活の引きこもり犬は、太陽の下に来るのは生まれて始めてだった。
強烈な光で失明寸前。敏感な肌も燃え尽きそうだ。
数十分間ケルベロスは、悶え苦しんだ。それからしばらくすると、突っ伏したまま動かなくなる。
心配そうにハープが頭に手をやるとすっくと、立ち上がった。未だに目は瞑ったままではあるが……
「こ、ここは何なんだ? 俺は一体どうなった?」
「ごめんなさい、ケルベロス。急に召喚よび出してしまって」
「ん? この声は、確か……」
「あなたと契約を結んだ、ハープです」
「おぉそうだった。と、言う事は俺は召喚されたと?」
「ハイ、その通りです! いきなりになってしまったのは本当に申し訳ありません」
「それより、この眩しいのは何だ? 肌も焼ける!」
ケルベロスはボロボロと、涙を流している。
「……これは、日光といいます。あなたはずっと、あの穴の中にいたから初めてでしたね」
ここには居たくないと、強く思う。ケルベロスにとって、ここは地獄のようだった。
冥界の王に連れられて、冥界を巡った時の事を思い出す。
人々が泣き叫ぶあの光景、その人間達の気持ちが、今はよく分かった。
「本当にごめんなさい。仕事はすぐに終わります。それまで我慢してください」
そう言うと、リュックから薬草を取り出しケルベロスの涙を救い上げる。それを口に含み、ロープで縛られ、暴れてる少年に吹きかける。そして、解呪の呪文を詠唱する。
”脚を天に掌を地に”
”瓦解する理”
”修繕する夢”
”上から下へ、誕生から終焉へ”
ハープの足元には、解呪の為の魔導陣が展開される。それが、音もなく浮かび上がり、少年を覆って、浸透していった。
もがいていた少年はおとなしくなり、気絶してしまったようだ。だが、顔色はよくなり安らかに眠っている。
少年の両親が駆け寄ってくる。
「召喚師様! この子は、大丈夫なんですか?」
「はい。もう、大丈夫です。一日もすれば目を覚ますでしょう」
ニッコリと、満面の笑みで答える。
「ありがとうございます!」
土下座をする両親。何度も額を地に着け、二人はハープに感謝した。
野次馬達からは、拍手が起こる。
「顔を上げてください。当然の事をしたまでです」
少年を父親が抱きかかえ、家へ帰っていく。終始母親は、お辞儀をしているのだった。
「あっ! と、この中に村長さんはいますか?」
野次馬を掻き分けて、初老の男性が現れる。
「私ですが」
「この村で、一番大きい台所をお借りしたいのですが?」
腕を捲くりながら言うハープの姿を見て、村長の頭にはハテナマークが浮かんでいた。
目が開けられないケルベロスは、頭を抱え突っ伏している。そこに、冥界の番犬、地獄の魔獣の威厳は微塵も感じられなかった。
野次馬達も捌け、広場にはハープ達とケルベロスが残っていた。
太陽光にもようやく慣れたケルベロスは、ハープの作った大量のお菓子を貪っていた。
「旨い! 美味い! 甘! この菓子は格別だ。口が……いや、歯の一本一本が喜び、悶えている様だ! 何層にもなった生地を砕く瞬間、堪らんッ! 一層砕く度に、心が躍る! ハープ、お前の作る菓子は天下一だ! うンめぇぇぇえぇぇ」
その大げさな物言いに、少しハープは照れ臭かった。
「あんな辛い事があったとしても、これで完全にプラスだ!」
貪る勢いが増す。巻き散らかしながら食べるのだが、飛び散った破片を左右の首がキャッチするので、そこまで散らかってはいなかった。
「ケルベロス、そろそろ送還の時間です」
甘味に酔いしれている。
「聞いてるんですか?」
ハープの言葉に耳は傾けない。
「ケルベロスッ! 話を聞きなさい!」
ハープが声を荒げると、ケルベロスの体に電流が走った。突然の衝撃で、目がチカチカする。
召喚師は契約した相手が言うことを聞かなかった場合、強制的に行動をキャンセルさせることができる。
それを、強制力と呼ぶ。
「な、何だ? 今のは?」
口から煙を吐きながら、ハープを見上げる。
「あなたが、言うことを聞かないからですよ。もう還る時間だと、言ったのです」
「還る? 冥界へか」
「そうです」
「なんでだ? 俺はもっと、この菓子を食べていたい!」
「わがままを言わないで下さい。そう言う契約ですよ」
構わず咀嚼を再開する。
それを一瞥するとハァと、溜息をつく。
「いいですか、ケルベロス。私は、あなたを強制送還することもできるんですよ。そして、これ以降あなたを召喚しないと、言うこともできるのです。いいですか? よく考えてみて下さい」
やはり、言うことを聞いてはくれなかった。聞く耳がないのだろう。
「全部言わないと分からないのですか? 強制送還されたら、あなたは二度と、私のお菓子は食べられないんですよ。良いんですか?」
ピタリと、咀嚼が止まる。
「それは、本当か?」
勿論と、笑顔で答える。それには、不思議な圧があった。
「わ、分かった。それは、一番困る。言うことを聞こう」
ハープは、圧の消えた笑顔を見せると、送還の呪文を唱える。
首筋のタトゥーが光る。
”神の力に感謝する”
”魔の力に感謝する”
”静まれ還れ”
”この世の条理は正された”
”この世の平安は保たれた”
ケルベロスの足元に魔導陣が展開される。ズブズブと、彼はそれに引きずり込まれていく。
「ハープ、必ずまた俺を召喚よべよ! お前の作ったマドレーヌ、また食べたいからな。絶対だぞ!」
そう言い残すと、魔導陣の中に彼は消え去った。
不思議な魔獣だと、ハープは思った。
ケルベロスの他に、三体の召喚をその身に宿している彼女だが、ケルベロスのように、言うことを聞くものは、初めてだった。
「なんなんです? 意外と、素直じゃないですか……」
この出会いが、ケルベロスにとって、一生忘れることのできないものになることを、この時は全く考えても見なかった。
今の彼の頭の中には、ハープのお菓子の味でいっぱいなのだ。
今はそれで良い。時が来れば、嫌でも思い知らされてしまう。彼の冥界の番犬としての一生は、終わりを告げたと言うことを……
これまでのヴァルハラの王~ケルベロスコール~:契約は行われた。ハープは苦しみ悶える果たしてケルベロスは再び彼女の作るお菓子を食べることができるのだろうか!?