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妖精の湖  作者: 葵生りん
2章
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淡い初恋の記憶2


「でしたらこの子、私が連れて帰ってもよろしいですか? ちょうど療養の旅の連れを探していたんです」


 ひとしきり笑ってなんとか収まってきた笑いを最後に深呼吸で整えてから、しかめっつらした彼を見上げて聞いてみた。

 子犬は言葉を理解したかのように腕の中に飛び込み尻尾を振りながらつぶらな目で見あげてきて、「わふんっ」と嬉しそうに鳴いた。

 確かにドレスは泥で汚れたけれど、ぬくぬくとした子犬のあたたかさがくすぐったくて、そんなことは全然気にならなかった。


「こんな雑種の野良でいいのか。犬でも猫でもちゃんとしたものを親に頼めばいいだろう」


 呆れ顔にどことなく滲む不安はこの子犬の安否だろうかと思うと、ようやく納めた笑みが再びこみ上げてきて、子犬で歪んでしまう口元を隠す。


「この子は私を気に入ってくれたみたいですし、私もこの子が気に入りました。それに比べたら血統なんて鬱陶しいだけの小さな問題でしょう?」


 腕の中の子犬を撫でながら答えたら、彼は目を瞠った。


 それが、彼がはじめてちゃんと私と目を合わせてくれた瞬間だった。


 目が合うと胸がとくんと不自然に脈打った。

 ずっと彼の目を見ていたかったし、私を見ていてほしいと思った。

 しかし彼はすぐに無言で顔を背け、子犬の頭を軽くぽんと撫でると、踵を返す。


「……よかったな」


 去り際、犬にしか聞こえないような小さな声で呟いたのを私の耳も捉えた。

 その時の横顔が、うっすらとだけれどものすごく穏やかな笑顔を浮かべていて――雷に打たれたみたいに痺れてしまった。


 彼が立ち去ってしまった後も、子犬を抱いたまましばし呆然とその背中を眺め続けた。


「……アレス様は人付き合いが苦手なだけで、本当は優しい人なのね」


 彼が見えなくなってからようやく痺れがとれてきて、あたたかなアイボリーの毛皮に顔を埋めて呟く。腕の中からわふわふと嬉しそうな返事があった。


 心の中がじんわりとあたたかくて。

 まるで霜焼けの手を暖めたようにむず痒かった。





     * * *





 私は生まれてからずっと、お父様をはじめとして周りの人々にかわいがられて育った。

 けれど物心がつく頃になるとそれをどこか空しいと感じはじめた。


 私が丁重にかわいがられていたのは、魔女に遅くとも20歳までには死ぬように運命づけられているからだった。

 その運命を憐れむか、あるいは私がその運命から逃がれようとした時に魔女の怒りが自分たちを巻き込むことを恐れていたに過ぎなかった。

 呪いを恐れ私を嫌う人は、そもそも最初から近寄って来なかっただけだった。


 憐憫や恐怖で誇張されていない純粋な愛情や優しさは、誰も与えてはくれなかった。


 お父様は、溺愛と言っていいほどかわいがってくれた。

 私が幸せになるよう常に心を砕き、大事に大事にしてくれた。

 私はそんなお父様のことが大好きだった。

 小さい頃はお父様のお嫁さんになると本気で思っていたし、そういうとお父様はとても喜んだものだった。

 けれど、そのお父様の愛情の奥には、常に亡きお母様の姿があった。

 お母様が受けた呪いを受け継いだ私に、お母様の面影、お母様への愛情、それに後悔、悲しみ、そういうものを重ねていた。重ねまいとしているのは感じたけれど、それでもお母様のことを完全に払拭して私を見たことはなかった。


 成長するにつれ、お父様がどれほど笑っていても、その奥に隠している悲しみと苦しみが増していくのを痛いほどに感じていた――。


 あの頃はまだ幼くてそれをはっきり理解していたわけではなかった。

それでもただひたすらに与えられる空虚な愛情の重圧と、無為な時間を過ごす苦痛と、そして苦しむお父様を見続けることに耐えかねて、療養と名目を付けてお父様の元を離れた――そんな折のことだった。


 飾ったり取り繕ったりしない純粋な優しさというものに、はじめて触れたような気がした。

 彼が与えてくれた何も知らない無垢な子犬が、純粋な思慕とぬくもりをくれた。


 この子を困り顔で撫でながら安否を案じていた彼を思い出すと、時々重さに耐えきれずに折れそうになる心が軽くなるような気がした。


 それからというものの私はずっとアベルを撫でながら「彼がこの子に向けたあの不器用な慈悲を、あの笑顔を、いつか私にも与えてくれたら幸せ」なんていう空想に、想いを馳せていた。



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