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妖精の湖  作者: 葵生りん
2章
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淡い初恋の記憶1


 彼とはじめて顔を合わせたのは結婚するおよそ5年前――療養のために別荘に滞在させていただくリベーテ家のみなさまにご挨拶をした日のことだった。

 他のご家族は居城の方で先に挨拶を済ませたのだけれど、彼はその場にいなかった。その後、アレス様の兄君であるラグナス様に付き添われて湖畔に移動して別荘を案内していただいているときに、ようやく廊下を歩いている彼に遭遇した。


「アレス、賓客への挨拶に顔を出せとあれほど言っておいたのに、こんなところで何をしている!」


 ラグナス様に呼び止められ振り返った彼は不機嫌そうに眉を寄せただけで何も答えない。その態度に呆れつつも、いつものことだと溜息をついたラグナス様はやむなくといったふうで紹介に移る。


「ディーネ様、躾がなってなくて申し訳ない。あれが不肖の弟アレスです。アレス、こちらがグラ公爵家の――」


 ラグナス様に紹介されている間、私はほわぁっと息をこぼしていた。

 貴婦人達が高嶺の花と囁いている噂は聞いていたが、しかめっ面をしていてもなお綺麗な人だと幼心にも思った。

 兄君は父親似で肩幅のしっかりした武人然とした方だけれど彼は正反対で、神経質そうな細身には剣より本が似合っていた。

 背が高くて、女性が羨むほど白くきれいな肌で。切れ長の涼しげな目元と凛々しい眉、すっと通った鼻筋。闇夜のようなダークブルーの髪が光を滑らせると星空のように輝いていた。

 それらに見とれてドキドキと高鳴る心臓を宥めすかしながら、できるだけかわいい笑顔を作って、できるだけ優雅な所作を心がけてドレスの裾を摘んでお辞儀をした。


「はじめまして、アレス様。グラ公爵家のディーネと申します」

「あぁ、療養だとか。どうぞごゆっくりなさればいい」


 なのに、彼は実に素っ気のない返事をして、そのまま踵を返した。

 氷のようなサファイアの瞳はどこか遠くを見ているようで、誰とも、一瞬たりとも合わせることがなかった。


「おい、アレス。失礼だろう!」


 ラグナス様が非礼を責めたが彼は一切意に介さず、つかつかと小気味いい足音を立てて立ち去ってしまった。

 私はそんな露骨に冷たい態度を取られたのは生まれて初めてだった。

 だから、ただもう、呆然としてしまった。


「申し訳ない。困ったことに誰にでもあの調子なので、どうか気にしないでいただきたいのですが……」


 ラグナス様が苦笑いで弁明したけれど、怒っていいのか泣いていいのかそれとも悔しがるべきなのかすらわからずに途方に暮れた。



 その時は、刃物のようだと思ったのを覚えている。

 綺麗だけれど、そのぶん無愛想さと寡黙さが際立って、どことなく怖いとすら思った。

 だから別荘に滞在中、彼が湖に出かけて行くのをちょこちょこと見かけたのだけれど、自分から声をかけるのは怖くてできなかった。





     * * *





 そして三ヶ月が経ち、そろそろ帰郷の挨拶をしなければと来たときとは別の意味でドキドキしていたある日、別荘の庭にいる彼を見かけた。

 意外にも――いかにも困った顔をしてはいたのだけれど――毛がぼさぼさの汚れた子犬を撫でていて驚いた。


「わぁ、かわいい!」


 私は挨拶のことをすっかり忘れて、クリーム色の子犬に思わず飛びついた。

 とても人懐っこくて、手を差し出すとくりくりとした明るい茶色の目を輝かせて顔をすり寄せてくる。手のひらをぺろりと嘗められるとくすぐったくて、くすくすと笑ってしまう。


「かわいい? 痩せて薄汚れた野良犬だ。触るとその立派なドレスが汚れる」


 彼が失笑を浮かべるので、私は首を傾げて見上げた。


「じゃあアレス様はどうしてかわいがっていらしたんです?」


 彼はまず、お前は誰かと訝る視線を向けたので、少し泣きたくなった。

 目も合わせないような挨拶を一度したきりでは無理もないと自分に言い聞かせて気を取り直すべく努力しているあいだに、子犬が彼の手にじゃれついて私の素性には興味を無くしたようだった。


「かわいがってなどいない。……散歩の途中、いつのまにか後ろをついてきて」


 どうあしらっていいのかわからないと途方に暮れた様子でじゃれてくる子犬に付き合い、お腹を出してごろんと横になり「撫でて」と琥珀色の瞳が訴えると慣れない手つきで撫でてやりながら、彼は心許なげにぽつりと言った。


「連れて帰るつもりもないのにずっとついてくるから、どうしたものかと……」

「……ふ、ふふふふ」


 その困り果てている表情を見たら、湧き水みたいにこぽこぽとお腹の底のほうから笑いが溢れてきた。失礼だからダメだと堪えようと思ったけれど、次々に溢れてくる笑いを抑えることができなかった。

 案の定、彼は盛大に眉をしかめてむすっと黙り込む。

 止めなきゃと思うのだけど、そう思えば思うほど止められなくなっていた。


 薄汚れた野良犬と言いながら邪険に追い払ったりはしない人なのかと、そう思ったら急に怖くなくなって、今まで怖いと思っていたことを申し訳なく思った。



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