白紙に描く未来7
けだるいまどろみのなかで、意識の届かない遠い場所から子守歌が聞こえるような気がした。
――もう、蹴らないでよ。お転婆ねぇ。歌ってあげるからおとなしく寝ててちょうだい。
困ったように、でも優しくそう語りかけながらゆっくりとお腹を撫でている姿が、霧の向こうにおぼろげに浮かぶ。
……その情景をみた途端、涙が溢れそうになった。
私は、あの子にそんなことを一度もしてあげなかったと気づいたから。
老いるまで一緒に生きる覚悟がなかったのと同じように、母親としてあの子を育てるという決意はなかったのだと、気づいたから。
いずれ失うつもりだったこの命より尊いものだと思っていた。
母が私に遺してくれたように、精一杯のことをしてあげようと思っていた。
だけどもし妖精が連れて行かずにあの子が産まれた時、私は一片も曇りのない愛情をそそぐことができたのだろうか。
もしふたりめを授かったとして、ふたりに分け隔てなく愛情を注ぐことができただろうか。
いくら不可抗力だったと言い聞かせて水に流しても決して消えることはない、あの時の絶望と怒りを一度も、微塵も思い出さずに、あの子をかわいがってあげられただろうか。
溺愛の中に滲んでいたお父様の罪の意識を感じて育った私のように、私の意識の底に沈む暗い感情を肌に感じて育つのだろうか――。
顔を覆う手のひらを、腕を伝って、肘からこぼれ落ちていく涙が、水面に波紋を描いていった。
私の身代わりにするのはかわいそうだとは思っても、かすかな胎動を感じる度にあんなふうに優しく語りかけて子守歌を歌ってはあげられなかった。
靴下を編んでみても、親子の絵を望んでみても、それはただの義務感あるいは手に入れられないが故の憧れではなかったのか……。
* * *
窓からは柔らかな朝日が射し込んでいた。
天井には湖面の光を反射した銀色の網目が漂っている。
ぼんやりとそれを眺めて、ふと頬を伝っていた涙に気づいて拭う。
それだけの動きなのに、病み上がりの身体はひどく重くて軋むようだった。
軋む身体を捻って寝返りを打つと、頭の下に当然のようにそこにある男の腕が頬に当たった。
今までと同じ腕枕なのに、ちゃんと想いが伝えられた後だからなのか、今までよりずっとずっと愛しく思えて、そっと心を預ける。
そのぬくもりに、辛い夢の残滓が洗い流されていくような気がした。
「……あの人は結局、淋しがりなんですよね……」
「うん? また、妖精の話か?」
「あら、起きてたんですか?」
「んー……今、起きた……」
ひとりごとだったのだけれど、寝ぼけたアレス様の重い返事に苦笑いを浮かべた。
「アレス様はなぜ妖精が子供を生まれ育ってから連れ去るのではなく、胎児を自分のお腹に入れて連れて行ったんだと思います?」
また人がいいとか溜息をつかれそうな気がするけれど、思い切って聞いてみることにした。
「………次の器にするためじゃないのか?」
「だったら生まれ育ってから連れ去りにくる方が楽だし、そう宣言しておけば私たちが泣きながら育てる姿を楽しむことだってできたと思いませんか?」
「あぁ、なるほど」
アレス様は少しずつ覚醒してきた頭を捻り、そういえば子連れでは男を誘惑もできなくなるだろうなと呟いた。
「だから私、なぜかと考えたんです」
「その結果が、寂しいから?」
「そうです」
「いままでずいぶん男を誑かしてもからかうだけで連れて行かなかったのに?」
「男の人は一度手酷く裏切られているから連れて行く気にならないのではないでしょうか? その点、子供が母に向ける思慕は絶対で、無条件で、しかも本当に純粋無垢ですから」
複雑な気持ちでそっとお腹に手を添えると、アレス様の表情が曇った。
――ねぇ、あなたはその子を、器にできるの?
そっと心の中で問いかけてみる。
――あなたは、母になったのでしょう?
あなたの存在は妖精でも人でもないかもしれない。けれどあなたがその子を生んだ母親だという事実は、誰にも変えることはできない。
お腹を痛めて生んだ子供が寄せる無垢な愛情を十数年受け取り続け、それでも非情にその命を摘み取って身体を奪い取ることができる?
淋しいと感じるのであれば、私がアベルに求めたようにあたたかいとも愛しいとも感じるのでしょう?
ふっと、優しく子守歌を歌って聞かせる姿が、まなうらに浮かんだ。
――だから……器にするんじゃないなら。
大事に育ててくれるなら。
お腹を撫でて語りかける優しい声が、耳の奥にこだまする。
私には、この人がいてくれる。
これから先の未来がある。
だから。
――その子は、あなたに託すわ。
母親になりきれなかった私の代わりに、愛してあげて。
本当の愛情で包んで幸せにしてあげて。
あなたが欲しかったものは、一片の曇りもない愛情なんでしょう?
「だったら、あの子がいることで、妖精も救われるといいと思うんです。もうこんなことをしても空しいだけだと目を覚ましてくれたら……と」
言いながら、想いを湖の底へと馳せた。
見上げた天井に煌めく銀色の網に目を細め、こぼれそうになった涙を隠すために案の定呆れたと言わんばかりの溜息をついた彼の脇の下のほうに潜り込む。
「……まぁ、虹の麓には幸福があるというからな。妖精が恋人達を呪わなくなってくれると、観光でうちの経済も潤ってくれて助かるんだが」
彼もまた天井に揺れる銀の網を見つめていた。
「それなら妖精に引き裂かれなかった絆があると私たちが証明してみせればいいんですよね?」
「…………嫌だ」
名案だと思ったのだけれど、アレス様は苦々しく呻いた。
「え……昨日の誓いはなんだったんですか……?」
うっかり目に涙が溜まったまま顔を上げて見つめてしまったら、アレス様は急に狼狽えた。
「違う。証明はともかく、ひけらかすのが嫌だと言ってるんだ。私はあなたほど故郷のために自己犠牲なんて」
「あ、だめですよ? 私たちの生活は血税で成り立ってるんですから、私たちは領民のために身を粉にして働く義務が!」
「ディーネの身を粉にしては洒落にならない気がして怖い……」
アレス様は苦笑いを浮かべると、寝返りを打って背中を向けた。
「昨日、ちゃんと努力するって約束したばかりですよ!」
布団の中に潜り込んで逃げようとするので掛布を引っ張って妨害すると、意外と容赦ないんだなとぼやく声が聞こえてきた。




