白紙に描く未来6
「冗談は、さておき――」
笑いあう和やかな空気が、すぅっと鳴りを潜めた。
「ディーネ、最初からやり直そう?」
「……やり直す?」
「この一年のことは全部忘れて、挙式の日から――」
彼は私をぎゅうっと強く抱きしめ肩口に顔を埋めた。
それはまるで叱られることを覚悟してしょんぼりしている子供みたいで、一瞬返事に迷ってしまった。
あれは私にとってどれだけ水に流そうと思っても黒黴のようにじわりと後から後から滲み出てくる苦い記憶だけれど、彼にとっても同じくらい苦い記憶なのだろう。それをどれほど後悔しているかは、わかっているつもりけれど。
けれども、頷くことはできなかった。
「……嫌です。未来は白紙ですが、過去は忘れても白紙にはなりません」
迷った末の答えに、彼が息を飲むのが見えた。
「今まで私はあなたに意見する立場でないと思って口を出すのは控えていましたが、嫌なことからすぐに目を背けたり逃げたりするのはあなたの悪い癖だと思うんです。私にしたことに負い目を感じるのなら、それを一生背負うべきなのですよ」
強い非難に彼は動けないでいた。
今までずっと、意志なんかいらないものだと思ってきた。
命じる人の優先順位があるだけで、人形のように言われたことに従順でなければならないと思ってきた。
だけどもう呪いは解け、魔女の器になる必要はなくなったから。
彼が意志を持てと、どうしたいのかを言ってちゃんと人として生きろと言って掴み取った白紙の未来だから。
だから、これからは自分の考えを言えるようになろう。
――という決断だったのだけれど、しょんぼりしているその背中にさすがにちょっと強く言い過ぎだったのだろうかと両手を添えた。
「えぇと、妖精と混乱してしまった点については不可抗力と水に流しますけれども。それ以前にですね、どれだけ耳の痛い忠告だろうと、あなたがもっと人の話に耳を傾けていれば。逃げずにきちんと話をしていれば。私の呪いもご自分の呪いも知る機会がいくらでもあったはずですよ?」
責めたいわけではないのに、説明しているうちにアレス様はさらに落ち込んでいくように思えた。じわじわとそれが哀れになってきたけれども、胸に秘めた決意は覆してはいけないもののような気がして、彼の背中をゆっくりとさするに留める。
「辛いからって問題を放置して逃げても、誰かが勝手には解決なんてしてくれないから、よけいに辛くなっていくだけなんです」
それは、自分に対する苦言でもあった。
私も逃げようとばかりしてきたから。
「私はあなたが知ろうとしてくれないことで半年間悩み、さらにあなたが話もせずに私を避けた1月にもういっそ死にたいと何度思ったか……」
ぽつりと愚痴をこぼしてしまった途端、急にがしっと両肩を掴まれた。
「……待て。ちょっと待て。死のうとしたのか? あの1月に?」
アレス様は怖い形相をしていたけれど、あまりに唐突だったのできょとんとしてしまう。
「はい? ですからテラスに出たけれどもいつのまにか部屋に戻ったと言いましたよね? 十ヶ月後に死ぬのが決まっているなら、苦しんで過ごすより死ねたら楽かしらと……」
アレス様は勢い余ったように盛大にがっくりと肩を落とした。
「……だから。なんでそうさらっと怖いことを言うかな……」
「………………?」
その脳天をわけもわからずに見つめ続けたが、それ以上何も言わないのでひとまず話を続ける。
「ですからね? 忘れたらだめなんですよ。痛くても辛くても、ちゃんと向き合って背負っていかなければ、目を背けて逃げていたら同じことの繰り返しになりますから」
死ぬことすら許されず、せめて心だけでも捨てて人形のように、魔女の思い通りにただの器としての生を全うしようとしていた。
復讐が怖くて、子供が私と同じ苦しみを受け継ぐことに甘んじようとしていた。
いつか嫌われるのが怖くて、帰ろうとばかり考え続けた。
「……ディーネからは二度と逃げない。後が怖すぎる」
苦笑いでぎゅうっと強く抱きしめられた。
「なぜ私だけなんです? あなたはやろうと思えばちゃんと人を気遣うことも、立ち向かうこともできるじゃないですか」
「ディーネは特別――」
「私が逃げずに妖精に立ち向かえたのは、あなたが私の手を引いたからです。だから、あなたが怖いのなら、今度は私があなたの手を引きます」
緩みかけた彼の手を両手で包み込んで、彼の目を見つめた。
「これから先、この火傷や呪いの噂、いろいろと苦しいことはあるでしょうけれども、それでも生涯苦楽をともにしてくださるのでしょう? ならば私はなんにでも立ち向かえます。妖精にだって、あなたは一緒に逃げるんじゃなくて、一緒に立ち向かってくれたではないですか」
この手を繋いでいられるなら、私も、もう逃げない。
「だから、あなたが完全に私を裏切っていなかったのなら、忘れないで乗り越えていけばいいんです」
「……そうか」
刹那の沈黙のあと、頬に彼の指が滑った。
「では、あれを乗り越えられるほど気持ちよくしてやれば文句はないな?」
見上げさせられると、彼は含み笑いを懸命に堪えている。
「あ……ありますっ! 私の話をちゃんと聞いてました? もっと人の言葉に耳を傾けてくださいと――ッ!!」
思わず声を張って詰め寄ると、彼は逃げるように身を引いて朗らかに笑った。
「ははは、冗談だ。さすがにそれはもう十分に懲りた。これからちゃんと努力する」
本当ですか?と疑いの目を向けてしまうと、ぎゅぅっと強く抱きしめられる。
「誤魔化さないでくださ――」
「――ディーネ」
彼は肩口に顔を埋めると、唐突に空気を一変させて密やかに私の名を囁いた。
なにごとかと目を丸めていると、そっと、包帯の上に指が滑った。
「 」
唐突に耳元に囁かれた言葉。
静かに、泣いているような、懺悔するように響いた言葉。
心が幸福で満ちて、あふれた幸福は涙になってぽろぽろとこぼれた。
「私もです……」
彼の背中に腕を回して抱きしめる。
額をぴたりとくっつけてはにかむと、今度は優しいキスを求められた。
角度を変えて幾度も甘いキスを繰り返していたら、部屋の隅でアベルが呆れた様子でため息をつくのが聞こえてきた。




