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妖精の湖  作者: 葵生りん
1章
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些細な喧嘩

「アレス様、アレス様!見てくださいな!」


 天気のいい昼下がりだった。

 まだ肌寒い日もある早春だったが、その日はとても麗らかな陽気だった。

 私は庭の東屋で本を読んでいたが、弾むような明るい声に呼ばれて顔を上げる。

 騎士のように寄り添う愛犬を伴って、満面の笑顔で両手いっぱいに水仙を抱え、息を切らせながら駆けてくるディーネは無邪気なこどものようで、見ているこっちまで顔がほころぶ。


「立派な水仙だな」

「でしょう? 私もそう申し上げましたら、こんなにたくさんいただいたんですよ」


 まるでお手伝いを誉められご褒美をもらった子供のような誇らしげな笑みを浮かべ、それから顔を寄せて胸一杯に香りを吸い込む表情は幸せそのものに見えた。

何も言われずとも伏せて待つ犬まで誇らしげに胸を張っているように見えるのがおかしくて、その頭をなでた。

 普段は積極的に動物に触れたいとは思わないが、不思議とこの忠犬だけは別だった。

 この犬は穏やかな性格で人当たりも良いが、しかし決して媚びない。許可がなければディーネ以外の命令も餌も一切受け付けず、主に危害が及ぶと判断すると途端に鋭い牙を剥いて身を呈してでも庇う。その立派な仕事ぶりとディーネの希望で、騎士のように常に彼女に付き従い、主を見守ったり時には兄弟のように一緒に無邪気に遊んでみたりしている。

 アベルは撫でられて一瞬目を細めるが、次の瞬間には主に視線を戻した。つられてディーネに視線を投げると、無邪気で幸せそうな笑顔がいまだに日差しの中できらきらと輝いていた。

 ディーネのここへ嫁いできた初日のどことなく堅い表情や儚げな印象は数日すると、年相応に――というより、やや幼い印象だろうか――無邪気な少女の笑顔に変わっていった。おそらくは責務を果たさなければという気負いや緊張があったのだろう。


「お部屋に飾ってもよろしいですか?」


 きらきらと輝くアメジストの瞳が懇願するように上目遣いで見上げてくる。水仙のにおいは若干苦手なのだが、この目で見つめられるとどうにも断る気が削がれる。


「好きにすればいい」

「ふふ、ありがとうございます」


 ぶっきらぼうに答えても、妖精のような美貌が満面の笑みで彩られる。

 不思議な姫君だと、日が経つにつれ、しみじみ思う。

 彼女は自分を飾ることにはあまり頓着しない。ドレスだって簡素だし、アクセサリーの類も普段はつけない。もとより、宝石の輝きよりも花の美しさのほうを好んだ。そんな彼女の飾らない美しさは、「妖精のような」という形容があまりにも似合う。

 あの湖の妖精に似ているから、ではない。妖精に固執しているからではない。ディーネは楚々として純粋に美しい。だからおそらくあの日妖精に出会っていなかったとしても、ディーネに惹かれずにはいられなかっただろう。

 ただ気になるところと言えば、腰が低すぎることか。

 先刻、庭師に対して「申し上げる」と言ったように、誰に対してでもへりくだる癖がある。公爵家の姫君として敬われる側の教育を受けているはずなのに。

 場を弁えるべきところではきちんと使い分けるから、学がないわけではないのだろう。ただそれを指摘された彼女は、領主でも衛兵でも庭師でもメイドでも、すべては尊ぶべき人であると主張したのだった。

そして日課のように毎日アベルをお供にして、庭や城下を散歩し、気になることがあれば人懐っこい笑顔で気さくに話しかけてまわる。

まぁ、見ようによっては、それも妖精らしいと言動だといえるかもしれない。

 公爵家の姫君と緊張していた使用人達は最初、驚き戸惑っていたが、それが馴染んでくると誰が彼女を喜ばせられるか競うように世話を焼きたがって奔走している。現実には、彼女は身の回りのことのほとんどを自分で片づけてしまって人の手を取らせることがないから、必然、私たちの部屋には常に花が絶えなくなった。

 その気持ちは、わからないでもない。

 ディーネが笑顔でお礼を言うと、ただ花を飾ることを許可しただけなのに、ものすごくいいことをしたような満ち足りた気持ちになるのだから。


「ちゃんと窓際だけにしてあとはみんなにお裾分けしてきますね」

「…………うん?」

「アレス様、水仙の香りは好まれないのでしょう?」


 言ったことがあっただろうかと記憶を辿る。あったとしても、よくそんな細かい好みまで覚えているなと感心半分、呆れ半分だが。

 ディーネは小さな秘密を隠すようにくすくすと笑いながらくるりと踵を返した。


「アベル、早速飾りに――」

「あぁ、ディーネ。あなたに手紙が来ていた」


 今にも駆け出しそうな姫を呼び止め、預かっていた手紙を差し出す。

 差出人は彼女の父親だったので喜ぶかと思っていたのだが、手紙を見たディーネの表情は曇った。

 抱えていた水仙をテーブルに乗せると、初日に戻ったような堅い表情で手紙を受け取り、封を切った。


「……なにか、悪い知らせか?」


 みるみる曇っていく表情を訝しく眺めながら尋ねる。

 彼女はゆるりと首を振って手紙を片づけ、暗い笑顔で溜息をついた。


「いえ……懐妊の報はまだか、と」

「ずいぶん気が早いな。まだ挙式から四ヶ月だろう」


 やたら悲壮に責務だと決意していたあの夜のディーネがちらりと脳裏をよぎり、遠方に嫁いだ娘にこんな表情をさせる手紙を書いてよこすグラ公爵に対して思わず渋面を作ってしまう。

 だいたい、娘は寄越すが孫は引き取るという条件。うちは公爵家と縁を結んだだけで大収穫だが、この条件のどこにグラに利があるのだろうか。単に彼女を遠ざけたいのはないかという悪意を疑うほどだ。王家に出してもいいようなこの姫君が、いったいなぜ私のところに嫁いできたのかと、疑問が首をもたげる。


「アレス様の気が長すぎるのですよ」


 苦笑いを浮かべて父親を庇うディーネは、先ほどまでの天真爛漫な少女とは別人のようだった。こういう時、彼女の態度は死刑を待つ罪人か余命を待つ病人みたいになにもかも投げ出してしまったような諦めが混ざっているようで、見ていてじりじりする。


「まだ一七だろう。そう急かずともいくらでも時間は……」

「もうじき一八になります」

「同じだ」


 くすくすと無邪気に笑うディーネに安心しつつも呆れ果てて眉を寄せて本に視線を戻す。が、聞き流してはいけない言葉があったような気がして頭を捻った。


「……もうじき一八? 誕生日が近いのか?」


 反芻してみてようやく、彼女の誕生日も知らなかったことに思い当たる。本を閉じて彼女を見ると、ディーネはふわふわと笑っていた。


「ふふ、アレス様は本当になにも調べずに縁談を了承してしまわれたのですね。普通は伴侶となる人のことは少しくらい気になって調べるものでしょうに」


 ディーネがやたら私の好みに詳しかったことに妙に納得がいった。が、同時にいままで妻の誕生日すら気にかけなかったのはさすがにバツが悪くて、頭を掻く。


「興味がなかったからな。政略結婚なんて相手が意に添わぬからと断れるものでもないのだし」


 ついつい言い訳が口にのぼった。ディーネは相変わらずくすくすと笑い続ける。


「ちゃんと意向は確認しましたし、強制なんかしてないはずですよ。そういう無精をするから、私のようなハズレ籤を引かされるのです」


 見ている方がつられて笑ってしまうようなその天真爛漫な笑顔がハズレ籤か――と思いつつも話が逸れるので飲み込む。


「……で、誕生日はいつなんだ? なにか欲しいものがあれば言ってくれれば用意する」

「ふふ、教えません。今からでも私のことを調べてみてはいかがです?」


 姫は秘密だとでも言いたげに人差し指を立てて口元に添えて笑うと、ドレスを揺らして踵を返した。


「なんで誕生日ひとつにそんな面倒をしなければならない。言えば済むことだ」

「本当のことを言わないかもしれませんよ?」

「なんの意味があって嘘をつくんだ」


 座り込んで愛犬の頭を撫でる背中が笑い声に合わせて揺れていた。少々うんざりしてきて嘆息すると、笑う声が途絶える。

「ようやく私に興味を持っていただけたんですもの。ね、アベル」


 拗ねた様子で同意を求められた忠犬は、賛同するようにわふんと穏やかに一声鳴いた。

 女性というのはどうしてこう時々合理的ではないことを言い出すのだろうかと思わず頭を抱える。

 しかも、ディーネは特にそういう傾向にある。

 自分のことを聞かれると、時に謎めいた笑みを浮かべ、人に聞いてみてはどうですか、調べてみてはどうですかと促してきて、まともに答えようとしない。


「祝賀会の用意ができないだろう」

「グラ家は誕生日を盛大に祝う慣習がありませんからどうぞお気遣いなく」

「それでもせめて、贈り物くらいは」

「そのお気持ちだけいただければ、それ以上に望むものはありません」


 苛立つ私にかすかな笑い声が返ってくるが、あてつけにも聞こえてよけいに苛立つ。


「希望を言わないと本当になにもやらないからな」

「結構です」


 ディーネも負けじとぴりりと張りつめた声で即答した。

 可憐で儚げな容姿のくせに、案外意地っ張りだ。

 意地の張り合いで、沈黙が流れた。

 そういえば、喧嘩をするのは初めてだ。

 彼女はこれまでおよそ従順だった。

なのに今はなぜこんなに頑迷なのか。

 沈黙が長く続き、なんでこんなつまらないことで意地の張り合いになったんだと思い始めて、ため息が漏れそうになった時だった。


「……歳なんか、取りたくありません」


 ぽつりと、彼女は言った。

 唖然として言葉を失うほど、張りつめた声で。


「……ディーネ……?」


困惑しながら声をかけると、彼女は弾かれたように振り返り、胸の中に飛び込んでくる。


「このまま、時が止まればいいのにと思います」

ぎゅうっと服を掴んで胸に顔を押し当てている姫の表情を伺うことはできなかった。


「こうしてアレス様のそばにいると、特に」


その声にどうしようもないほど深い寂しさが滲んでいて、妖精のように儚く、幻のように消えてしまいそうな気がした。


「なんだ、それは。近々今生の別れがくることを覚悟した病人みたいな言い種だな」


 消えてしまわないように、存在を確かめるために、そっと背中に腕を回して抱きしめる。


「あぁ、そういえば体が弱いんだったな。そんなに深刻なのか?」


 あまりに毎日庭を歩きまわっているので失念していたが、そう考えれば早く子供を作れと催促してくるにも合点が行く。胸の中にしこりのような嫌な感触は残るが。


「ご覧の通り、日常生活にはほとんど影響ありません」


 かすかに笑ったディーネもゆっくりと背中に腕を回してきた。あたたかな体温と鼓動を共有すると、ディーネは表情に苦さを滲ませた。


「じゃあ、なぜ……?」


 ディーネはくすりと笑って胸の中から離れたかと思うと、心配そうな視線を送っていた忠犬の頭をひと撫でする。


「誰かに聞いてみてください」

「ディーネ……」


 振り出しに戻ったとうんざりする私を横目に水仙と手紙を抱えあげ、寂しげな笑顔を向ける。


「あなたが人付き合いや噂話を嫌っているのは存じておりますが、それが必要なこともあるのですよ」

「………は?」


 意味深な響きを持ったその言葉の意味を考えるうちに、彼女は恋人のようにぴたりと寄り添う愛犬を従えてすたすたと歩き去り――結局、誕生日を聞きそびれたままになった。


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