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妖精の湖  作者: 葵生りん
4章
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白紙に描く未来1



 コンコン、と叩扉の音に我に返り、身が竦んだ。

 アレス様もアベルと同じく面会を禁じられ居城に無理矢理戻されているが、さっき医者が面会の許可を出したので知らせを受けて顔を出すかもしれないとメイドが言っていたのを思い出したからだった。


 心の準備ができていないのに、返事を待たずにかちゃりと扉が開く音が続く。

 この無遠慮さは医者やメイドではないという確信を得て、開ききる前に掛布を頭の上まで引っ張り上げようと慌てた。


「ディーネ、気分はどうだ?」


 扉の開く音に重なってアレス様の声がしたが、掛布をひっぱりあげるより早く、アベルが勢い良くベッドに飛び込んできた。


「きゃぁっ……あ、アベルッ、ちょっと、待って……っ?」


 勢い押し倒され、覆い被さるようにして顔を舐めてくる。こんなに無遠慮に甘えてくるなんて、彼には珍しいはしゃぎっぷりだった。

 一月近くも会っていなかったぶんを取り戻そうとするかのような猛烈な甘えっぷりは、その気持ちはとても嬉しいけれど、ちょっと困りもするほどだ。


「ずっと心配してたから、許してやれ」


 アレス様は穏やかに笑いながらベッドに腰掛けた。

 私がいなくなった時にはアレス様を主人として行動するよう言ってきたし、もともとアベルが最初に懐いたのが彼だったとはいえ――なんだか寝込んでいるあいだに、アベルの主人がアレス様に変わってしまったように思えてほんのり裏切られた気持ちになる。

 けれど、ひとしきりじゃれて気が済むまで喜びを表現したアベルは、甘えるようにそのまま私の腕の中に寄り添った。

 暖かくてふわふわした毛皮に顔を埋めると、そんな暗い感情は小さな氷のように溶けて消え、心があたたかくなる。


「……無事で……よかった……」


 改めて倒れていたアベルを思い出して、もしアベルを失っていたらと思うと泣きたくなってしまう。


「……もう、あんな無茶はしないでね」


 強く抱きしめて呟くとアベルは文句でも言いたげにぷいとそっぽを向き、それを見たアレス様はくくくと声を押し殺して笑った。


「ディーネには言われたくないんだな」

「アレス様だって――」

「私は何もできなかった」


 むくれると、アレス様は後悔の滲む苦々しい声で呻き、包帯の上から火傷に手を添えた。


「すまなかった。偉そうに命に代えても守るなんて言っておいて、結局何もできず、なにも守れなかった」

「そんなこと、ありません!」


 心から訴えた。

 けれど、彼は自分を責めているように見えた。


 何もできなかったなんて、そんなことはない。

 アレス様のおかげで魔女の正体も居場所もわかった。

 もしなにか別の方法で居場所がわかっても彼が手を引いてくれなかったら、湖に行く決心ができずにただ運命の日が来るのを待っているだけだった。

 そしてなにより、心を縛られていてもなお、妖精に立ち向かって、私を救おうとしてくれた。


――悔しかったら、アレス様の呪いを解いてみなさい! あなたか私か、どちらを本当に愛しているか、それともすべて魔法で作られた幻影かがわかるはず。


 我ながら恥ずかしくて身を捩りたいほど思い切った啖呵を切ったものだと思うけれど、勢いでもそれが言えるほど、私を想ってくれた。

 妖精が呪いを放棄するよりも前に、妖精よりも私を選んでくれた。

 生まれてから18年、私は一度たりとも魔女の呪縛に逆らえたことなどなかったのに。


 それがどれほど困難でどれほど驚異的なことであるかと説明できたらいいのだけれど、うまく伝える言葉を探すうちに、接ぎ穂を失ってしまっていた。


「顔にこんな傷……これから苦労も嫌な思いもたくさんするだろうに」


 火傷の痕に白い手袋をしたままの手をそっと乗せられ、手のぬくもりがじんわりと染み入ってくると、ずきずきと胸が痛んだ。


「せめて、その苦労を私も一緒に背負う」


 頭を抱え込むように抱きしめられ、嬉しくて涙が溢れそうになった。嬉しかったけれど、ぐいっと彼の胸を押し戻して俯いた。


「……これくらい、平気です」


 絶対に、迷惑になる。

 こんな醜い顔の妻なんて、嘲笑の的になる。

 もしかすると妖精が言うようにいつか本当に嫌われるかもしれない――。


「平気なわけがないだろう。それにこれは私のせいだ」

「アレス様のせいではありません。これは顔を傷つけさせれば呪いを放棄してくれるんじゃないかと画策し、わざと挑発して、その思惑通りになった結果ですから」


 不機嫌な彼の声に、懸命に言い訳を重ねる。


「呪いが解けたのならグラに帰って、お父様のもとでアベルとともにひっそりと残りの生涯を送ります。ここにいる約束の期限だってありますし」


 アベルを抱きしめながら胸の痛みを堪えてそう自分に言い聞かせた。アベルは慰めるように頭を寄せ返してくれる。


「元々その期限はうちに呪いの火の粉がかからないようにという目的の約束だったんだからもう意味がないだろう。それとも、口先だけで何もできなかった私に愛想が尽きて帰りたくなったのか?」


 そんなことないです、と言ってしまいかけて危うく飲み込んだ。


「……………………帰りたいです」


 絞り出すように、嘘ではないぎりぎりの範囲で答えた。

 迷惑をかけるくらいなら、帰りたい。


 一瞬の、沈黙。

 身を切るように痛いその沈黙に、俯いて耐えた。



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