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妖精の湖  作者: 葵生りん
4章
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妖精の夢


「――――……」


 水底に、名前を呼ぶ声が響いた。

 彼がつけてくれた名前。

 それを知っているのは彼だけ。

 その声を聞いただけでとくんと胸が高鳴った。


 高鳴る鼓動、はやる気持ちを押さえて、湖畔へと急ぐ。




 顔を出すと、星空のような髪の細身の青年が微笑みを浮かべた。


「ギルベイン……!」


 嬉しくて彼の腕の中に飛び込むと、急拵えで作り損ねた髪の一部が水のままで、ぴしゃんと彼の肌を打った。けれども彼は立派な服が濡れるのも構わずに抱きしめてくれる。



 厳めしい名前に似合わない、気弱で人の良さそうな人だった。

 肖像画で見た高祖父はすべて威風堂々としていたけれど、彼は人当たりのいい柔らかな優しい笑みを浮かべる青年だった。

 いつも不機嫌そうなアレス様とは、全然似ていない。

 あぁ、髪色が似ていて背格好が近いから、もしかして後ろ姿ならば似ているのかもしれないけれど。



「ギルベイン、会いたかった!」

「……うん、僕もだよ」


 嬉しい!

 彼の声を一言聞く度に心がぴょんぴょんと兎のように跳ねた。

 そっと頬を撫でてくれる彼に、妖精はちょっとした悪戯心を起こす。


 湖畔に遊びに来る恋人達がよくするように、唇を触れ合わせてみたのだ。

 恋人達は唇を触れ合わせては幸せそうに笑うから。同じように彼が笑ってくれるかと思った。


 けれど彼は、驚いた顔の後、口元を覆って眉を下げた。


「どうしたの?」

「いや、君はやっぱり湖の妖精なんだなって実感した」


 申し訳なさそうに笑った彼の言った意味がわからなくて妖精は首を傾げる。


「手が冷たいくらいなら違和感ないけど、唇がひんやりしているのは心構えが要るね」


 苦笑いで呟かれたその一言に、珍しく妖精の心は跳ねなかった。

 心の底に深く沈んで、タールのように重く煩わしく、残った。




   * * *




 妖精は、人間になりたいと願った。


 どうしたら人間になれるかと、妖精の王に訊ねた。


 妖精の王は止めた。


 昔、人間になることを望んだ人魚がいた。

 声と引き替えに人の姿を得た。

 けれど、愛されること叶わず、海の泡となって消えたのだよ、と。


 かまわない、と妖精は言った。


 魚達も、森の精も、動物達も止めた。


 不死の命を捨てるのか。

 たかが60そこらで死ぬ弱い生き物になるのか。


 人になれば、もう二度と妖精に戻ることは叶わない。

 妖精が持つ力も使えなくなる。

 妖精達の声、動物の言葉を聴くこともできなくなる。

 それでも、人になることを望むのか。


 妖精は頷いた。


 何を失っても構わない。

 私には、彼がくれた名前だけがあればいい。

 ただあの人と手を繋ぎ、恋人達のように触れ合って笑いあえるようになりたい。


 だから、人間にしてほしいと、願った。


 哀れんだ妖精王はもしあの男がお前を伴侶に迎えるのなら、その誓いを立てる前夜に儀式を行うと約束してくれた。




   * * *




「ギルベイン、聞いて! 私ね……」


 レテ湖の妖精である彼女は、湖を離れることができない。

 故に、人間になれるのだと報告したくても彼がきてくれるのを待つことしかできなかった。

 心待ちにしていた来訪に、姿が見えるなり妖精は抱きつく。

 いつもよりももっと上質な服が濡れてしまったが、なぜか彼のほうが申し訳なさそうに眉を下げた。


「すまない……すぐに帰らなければならくなったんだ」

「………え?」


 目を丸めた妖精に、ギルベインはさらに眉を下げる。


「父上の命令なんだよ」

「……もう、会えないの?」


 全身が涙になってしまったような気がした。

 すると、不意に額にキスが降ってきて、ふるりと全身が揺れた。


「待っていておくれ。また必ず会いに来るよ」


 きつく握った手、ゆっくりと抱きしめられた身体が、彼の体温を移して熱くなって、つかの間人間になれたような気がした。





   * * *





 妖精は待った。

 ずっとずっと、待ち続けた。


 身を焦がす淋しさを堪えて、その約束を信じて待った。


 けれど彼は戻ってこなかった。




 何年、待っても。




 やがて妖精は心配になる。



 どうしてきてくれないの?

 もしかして、病気にでもなったの?

 それとも怪我をしたの?



 確かめたくても、妖精は湖を離れることはできなかった。



 そしてついに妖精は願う。



――妖精の王よ、どうかどうかお願いします。私を人間にしてください。あの人の元に行きたいんです!


 その祈りを、森の精や動物達は反対した。


 あの男はもうお前のことなど忘れてしまったのだ。お前も忘れなさい、と。


 妖精はそれらの言に耳を貸さず、彼の元に行きたいと十日間泣いて願い続けた。



――よかろう。お前を湖の妖精の天命から解き放ってやろう。

 けれど、これだけは決して忘れるな。人間から真実の愛を与えられなければ、完全な人間になることは叶わず、半端な異形の存在として永遠の孤独を味わうだろう。


 それでもいいと、力強く頷いた。

 よもや、そんなことはあり得ないという自信があった。











 けれど、そうして会いに行ったギルベインは――もう既に、エスメラルダという伴侶を得ていたのだった。




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