嫉妬渦巻く湖の畔12
瞬間、ディーネの表情が恐怖に凍り付いた。
けれどディーネは逃げることはおろか助けを乞うことも謝罪することもなく、ぎゅっと目を瞑って歯を食いしばり、その痛みに耐えようと身構えただけだった。
「……や…めろ」
叫びたいのに、喉が裂けそうな痛みが走り、弱々しい声しか出なかった。
腕も足も、全身を包む空気がすべて針になったように、わずかな動きで痛みが走った。
それでも!
「………やめろ!!」
恐怖にひきつる喉を叱咤し、裂けそうな痛みを堪えて叫んだ。
叫んだ弾みに全身を激痛が襲ったが、かまうものかと奥歯を噛みしめる。
「頼む! やめてくれ!!」
妖精は私の懇願を一瞥すると、いっそう満足そうに笑みを深めてディーネを見下した。
「ほんっとに、忌々しいあの泥棒猫の顔にそっくり。これが焼けたらさぞ気持ちいいでしょうね。もっと早くやればよかったわ」
その暗い笑みに、戦慄が全身を駆け抜ける。
「やっめ、ろぉおぉぉおぉぉ……っ!!」
声の限りに、叫んだ。
妖精はいったん見せびらかすようにディーネの鼻先に近づけた水球を、今度は高く掲げてから足を退けると、私を見た。
「ふふ、大丈夫よ。あなたはこの子が私に似ているから心配してるだけ」
(違う!!)
またしても声が出ないもどかしさに喉をかきむしってやりたい衝動に駆られるが、腕も足も同様にぴくりとも動かない。
「……大丈夫、すぐに終わるわ」
ふわり、と。
妖精は場違いなほど優しく微笑んだ。
「待っていてね……これで、あなたも目が覚めるはず」
けれどそれはまるで口が裂けたかのように毒々しい笑みに変わっていき、妖精はことさらゆっくりと手のひらを返した。
「この子の醜い顔を見れば」
ゆらゆらと揺れる水球は、その手の真下数センチのところに浮いている。
「ずっと、待っているのよ。……愛しい人……あなたが、戻ってきてくれる日を」
(――――違うっ!!)
妖精は私を見ているようで、見ていなかった。
背後にいる幽霊に語っているようだった。
「これで、あなたはまた私に会いにきてくれるわよね?」
ゆらり、と水球が形を変えた。
「ディーネェェ――ッ!!」
叫んだ途端に痺れていた身体が唐突に軽くなり、ほんの3歩の距離に足を踏み出した。
一歩。
妖精はけたたましい笑い声を上げ、ディーネはただ恐怖に耐えて目を瞑っている。
薄黄色の水がぐにゃりぐにゃりと歪みながら落ちていく。
二歩。
重い。自分の体が酷く重い。
薄黄色の水球が、空気の抵抗で形を変えながら落ちていくのが、ひどくゆっくりに見えた。
けれど、自分の足が前に出るのも酷く重くて遅い。
早く
もっと早く!
気持ちだけが前に出て、身体は全然ついてこない。
ゆらりと揺れる水玉は、もう、立っている妖精の腰の高さほどまで落ちている。
倒れているディーネを引き寄せる暇はない。
覆い庇おうにも、届きそうにない。
三歩目を踏み出すのがもどかしく、飛び込むようにして水球に手を伸ばした――
「きゃあぁあぁぁあぁぁぁぁっ!!」
壮絶なディーネの絶叫。
灼ける音と鼻を突く異臭。
白煙。
それらで、あたりが埋め尽くされた。
異臭を放つ白煙に、視界を閉ざされていた。
べちゃりとまとわりつく嫌な感触に、泥濘に転がっていることを理解する。響き続けるディーネの悲鳴に飛び起きるが、もし、この立ちこめる煙の中で、ディーネだと思って抱きしめたのが妖精だったら――そう思うと、身が竦んだ。
「…………………う……ぁっ!!」
竦んでしまってから、伸ばしていた手の甲に激痛が走って思わず呻いた。
しゅうしゅうと音を立て、皮膚が灼ける臭いをあげる白煙が、自分の右手から上がっていた。
「……ディーネッ! どこだ!!」
空気が触れるだけでも激痛が全身を走る。
だが、だが壮絶な悲鳴を上げ続けているディーネがどんな状態かと思えば、そんな痛みなんか二の次で叫んだ。
「ディーネ――ッ!!」
声が嗄れそうなほど叫んでいるのに、聞いているだけで気が狂いそうな悲鳴にかき消されて届かない。
なのに、けたたましい妖精の哄笑は、耳を、頭を、刺すように聞こえてくる。
まるで哄笑と悲鳴のるつぼに放り込まれたみたいだった。
哄笑も悲鳴も、あちこちで反響されて何重にも響いてきて、どこから発せられているのかわからない。
方向感覚はぐにゃりとねじ曲げられて、自分が向かっている方向がわからない。
もしこれがまやかしだったらという恐怖を押さえ込み、悲鳴がすると思えるほうへ足を向けた時だった。
「……さぁ、これでも同じこと、言ってくれるかしらね?」
悲鳴と煙の中で妖精が満足そうに笑う声と、重い物を蹴り飛ばす音が聞こえてきて、何かがごろりと足下に転がってきてぶつかった。
「……………っ!」
それは悲鳴を上げ、痛みにのたうつディーネだった。
「ディーネ! しっかりしろ、ディーネ!!」
顔の左半分を両手で覆ったまま悲鳴を上げ続けるディーネを抱き抱える。
傷口はしゅうしゅうと音を立てて煙を上げ、見ているだけでも痛々しいほど苦しみ続けるディーネに、私はなにもできなかった。
激痛から逃れようとするように身を捩るディーネを抱え、ただ声をかけ続けることしかできなかった。
それは、永遠に続く地獄のように思えた。
「………ぁ……あ、あぁ………」
永遠に続くんじゃないかと思うほど聞き続けた悲鳴が、やがてゆっくりと弱々しくなっていき、しゅうしゅうという音と煙の発生も収まってくる。
「……ディーネ、大丈夫か?」
ぐったりと、疲弊しきっているディーネにそっと声をかけると、ひどく重いもののようにうっすらと右目だけを開けたディーネと目が合った。
「………っ、……嫌、離して……っ!」
意識があることに安堵するより先に、ディーネは左手で顔を覆ったまま右手でぐいと私を押しのけた。
「………ディーネ………?」
拒絶されたという動揺に、身動きがとれなかった。
なにか、幻覚を見ているとか、魔法をかけられたとか………?
「あははははっ、口だけで何もできない男は嫌われちゃったんじゃない?」
ディーネはせせら笑う妖精にが構わず、私から逃げるように湖に向かってずるずると這っていく。
湖の縁にたどり着いたディーネは湖面に自分の姿を映し、おそるおそる顔を覆っていた手を離す。
「ふ、ふふふふ」
一瞬の静寂の後、ディーネは笑いだした。
気が振れたんじゃないかと、寒気がした。
「嫉妬が仇になりましたね?」
ディーネは妖精に向かって振り返った。
その顔は左半分が焼け爛れていて見るに耐えないほど痛々しいのに、そこに浮かんでいるのは勝ち誇った笑みと、強い眼光だった。
「こんな顔――あなたのおまじまいを使っても、老若男女問わず気味悪がって誰も恋焦がれてなんかくれないんじゃないんですか?」
妖精が、はっとして息を呑んだ。
刹那の後悔が浮かんだのを見逃さず、ディーネは強く畳みかける。
「それでも、この身体を器にしますか?」
「…………っ!!」
声にならない怒りと焦りが一瞬だけ妖精の表情を歪めた。
だが、妖精はそれが爆発する前に気を取り直して軽い舌打ちをすると、何事もなかったかのように髪をかきあげた。
「は、そんな醜い顔なんか要らないわよ!」
妖精がそう吐き捨てると、ディーネの体からふわりと蛍のような光が舞い出てきて、そして星の瞬きのように静かに消えていった。
唖然とそれを見ていると、再び妖精は冷たい視線と歪んだ笑顔で私をひたと見据えた。
「ねぇ、あなたはこれでもあの子がいいの? あんな醜い顔でも――」
嘲るような縋るような複雑なその笑顔を、醜いと思った。
火傷なんかより、もっとずっと醜い。
「……少なくとも、お前よりはずっとマシだ」
冷ややかに言い捨てると、妖精の顔色が今度こそ取り繕うことなく憎々しげに歪んだ。
「ふんっ、ならあなたももういらないわよ!!」
妖精がそう言い捨てた瞬間、突然心の中に風が吹いて霧が晴れたような清々しさが広がった。
「別の女を想っている男なんて、いないほうが清々するわよ」
言い捨ててディーネのほうを向いた背中が、ほんのり寂しげに見えた。
「……でもね」
しかし妖精がぺたりと座り込んでいるディーネの横にゆっくりと膝をつくと、再度戦慄が走った。
「ただでは、解放してあげないわよ」




