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妖精の湖  作者: 葵生りん
1章
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新婚初夜4


 白い肌に指を滑らせ、ゆっくりと時間をかけて姫の緊張をほぐしていく。


「………アレス様………」


 くたりとしどけなく横たわる姿も、とろりと溶けそうなほどに潤んだ瞳も、熱い吐息混じりに名前を呼ぶ声も、十分に緊張がとけたことを告げていた。



 しかし、いよいよ契りを交わそうかという瞬間になって、突如、姫の挙動は一変する。


「………あ………。やっ、嫌っ………――」


 姫はか細い悲鳴を上げて逃げるように上半身をよじった。


 一瞬、ここまできて今更と思わなくもなかった。


 けれど、姫の怯えようは初夜の経験に怯えるなんて生易しいものではなかった。



 姫の表情はもっと切迫した――まるでナイフか何かを突きつけられているような、殺人鬼でも見るような、そんな恐怖の表情だった。



 そのあまりに怯えきった表情に背筋に冷たいものが滑り、すっと熱が冷めた。



 身を起こし、ゆっくりと怯えている姫を手放した。



「……今夜は、やめておこう」


 身を引き、掛布を引っ張りあげて姫にかけ、投げていた自分の服がベッドの片隅に落ちているのを見つけて引き寄せる。


「…………え?」


 純白の掛布で胸元を覆い隠したものの、姫の表情は複雑だった。

 安堵と落胆を混ぜて、不安を足したような。


「私、なにかアレス様の気に障るようなことでも――」

「違う」


 姫の声は震え、今にも泣き出してしまいそうだった。服を着ながらそれをきっぱりと否定する。


「では、何故です?」


 尚も言い募られ、どうしたものかと髪をかきあげて溜息を漏らす。乱れた着衣を掛布で隠す姿は艶めいていて、目に毒だ。


「私が……嫌なんて言ったから、ですか……?」


 伏せた目が泳いで、何かに怯えているように見えた。


「……違う」

「だって、だって……そうでしょう……?」


 迷いのある返事をしてしまったためか、姫は悔やむように俯いて唇を噛んだ。


「違う。私は嫌とか駄目と言われていちいちやめるほど清らかで優しくはない」


 信じられないと言う意味だろう。

 姫は首を振った。


 凍えるように細い肩がふるえるのが、見るに耐えないほど痛々しかった。


「では、なぜ抱いてくださらないのですか?」


 自分らしくない気恥ずかしい理由を口に出すのが躊躇われて、沈黙した。


「あの、私……どこか、おかしかったのですか?」


 けれど、彼女がいっそう深く傷ついていく表情を見るに耐えなくてさらに溜息が漏れた。

 あれほど怯えたのだから、おとなしく受け入れていい申し出のはずなのに、なんでそうもいい募るのかとだんだん苛立ってくる。


「違う。あなたのせいではないと言っているだろう」

「だって……!」


 ついにはぽろぽろと涙がこぼれ落ち、それを拭いもせずに見つめられ、ついに観念した。


「姫――……」


 いさぎ悪くさらにもう一度溜息をついてから、目を合わせる。


「今、私は情事の最中にあってもあなたの名前すら呼ばない。あなたは本当にそれで満足か?」


 姫は、怯えるように鋭く息を呑んだ。


「私は、そんな責務や一時の情欲であなたを穢したくないと思った」


 はっとした瞳が激しく揺れ動く。


「……でも、」


 掛布を掴む手がふるえ、遠い故郷のほうを見つめてから、悔やむように目を伏せた。


「でも私、そのために……ここにきたんです……」


 あれほど怯えておきながら、それでも課せられた責務に忠実であろうとするのかと思うと、自然と口元が綻んでいた。


「責務なら果たしていると言っておけばいい。一度や二度で必ず孕むものでもない」


 そっと頬に指を滑らせて涙を拭うと、再びアメジストが溶けだすかのようにぽろぽろと涙がこぼれて頬に添えたままの手を濡らしていった。


 かすかに口元がふるえて、首を振ったような気がした。


「私はちゃんとあなたと心を通わせてから契りを結びたい。だから今夜はここまでだ。それではいけないのか?」


 姫はゆっくりと息を飲み、それから私の手のひらに自分の手を重ねて寄り添った。


「アレス様……――私、……私は……」


 必死に言葉を続けようとしていたけれども、どれだけ待っても言葉は涙に流されていき、口が動いても声は出なかった。


「無理をすることはない」


 涙にふるえる小柄な体を抱きしめ背中をさする。


「これから共に暮らし絆を育てて、愛し合って今夜の続きをすればいい」


 こんな気分は初めてだった。

 体を重ねる刹那の快楽より、こうしているほうがずっと満ち足りていくように思えた。


 姫はなおも涙をこぼし続け、最後に小さくこくんと頷いて顔を上げた。


「あなたが……それを望んでくださるのならば」


 小さくそう呟いた姫のほほえみは、妖精のように無垢で儚くて、美しかった。



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