嫉妬渦巻く湖の畔7
「ヴゥゥゥ――ゥ……ッ!」
アベルが唸っていなければあるいは、寒気などは気のせいで、単に魚が跳ねたのかもしれないと考えただろう。
それほど、湖は静謐な美しさに包まれている。
けれど、唸るアベルは野生の獣を思わせるほど獰猛だ。
波紋は、静かに広がっていく。
小石を投げ入れたように、中央から裾に向けて。
アベルの唸りはさらに険しさを増し、牙を剥く。
温厚なアベルがこれほど激しい敵愾心を露わにするのを、私は初めて見た。戸惑っているところを見ると、おそらくはディーネにとっても初めてなのだろう。
アベルの唸り声とは対照的に、森には静寂が満ちていく。
糸が切れるまでじわじわと引き延ばしていくような緊張感のなかで無意識に、怯えた表情をしているディーネを強く抱き寄せた。
それをちらりと横目で見たアベルは、前身を低く屈め、ボールを追いかける前のようにじわりと足踏みをする。
波紋が最大に広がり、今度は静かに収縮をはじめようとした。
その、刹那。
アベルは跳んだ。
「ヴォゥウゥ……ッ……!!!」
唸り声を上げながら助走をつけ、水際で踏切った。
無駄のない低い軌道を描き、逃げるように小さくなっていく波紋の端を捕らえようと――。
アベルの前足が波紋に届こうかという、瞬間だった。
視界が、青く染まった。
「…………グォァッ!!」
巨大な蛇――あるいは、東洋で言うところの龍だろうか――が、湖の中央から突如として飛び出し、アベルを一呑みにした。
「ア……ベルッ! アベル――ッ!!!」
一瞬その水龍の姿に圧倒されて呆けたが、ディーネの悲鳴が頭を殴るように激しく響いた。
水で創られているのか空中で蜷局を巻く龍の体は透けて、腹の中で足掻くアベルの姿が見えた。
「いっ……いやぁっ――っ!! アベル! アベル!!」
「ディーネ、今は無理だ!!!」
悲鳴を上げて湖に飛び込んでいきそうなディーネを必死に捕まえて留めた。
闇雲に湖に飛び込んだところでアベルを取り戻せるわけがなかった。湖の中央近い水面から人の身の丈ほど宙に浮いている龍の腹の中にいるのだから。
「でも……でも、アベルが! アベルがっ!!」
「わかっている!!」
なにか手はないかと疾風のような速度で思考を巡らせながら剣の柄を握り込んだその時、木々の葉が風に鳴る音に混じって、くす、と、笑い声が聞こえた気がした。
私がその笑い声にぞっとしたのと時を同じくして、叫んでいたディーネも凍りついた。
くすくす、と再び笑い声が聞こえた。
ディーネは青い顔で私の服をぎゅっと掴んだが、それでも強い意志を持ってあたりを見回す。
くすくす
くすくすくすくす……
少しずつはっきりと聞こえてくる、それは間違いなく女の笑い声だった。
「他人の住処に勝手に押し入ろうだなんて、悪い子ね」
どこからともなく聞こえた笑い声の源が波紋の中央であることに気づくと、そんな言葉がはっきりとそこから発せられたのがわかる。
息を詰めて凝視していると、やがて波紋の中心に音もなく艶やかに輝く銀の光が現れた。
目を凝らしてよく見れば光っているのは水だった。
太陽の光を弾くようにまばゆく輝く銀色の水。
龍の尾は、その銀の水に繋がっていた。
「グゥゥ…………ッ! グ……ッ!!」
もがいて龍の腹から頭だけ出したアベルが眉間に深い皺を刻み、その銀の光に向かって唸ったが、すぐさま水龍に再び取り込まれた。
「………煩いわね」
静かな怒気を含んだその声は、一帯の空気を凍らせるほどに冷ややかだ。
背筋が凍った一瞬、龍はゆらりと鎌首を私たちのほうに向け、伸ばす。
反射的に、ディーネを庇って伏せた。
ドッッ…シャァァァッン!!!
アベルを飲み込んだまま突進してきた水龍は私たちの頭上を越えてから地に衝突し、激しい水音と飛沫を上げて舞い散ったのだ。
意識を押し流していきそうな激しい水音と打ち付けてくる衝撃に、ディーネを強く抱き寄せることで必死に耐えた。
「アベルッ!!!」
水龍崩壊の衝撃は止んだとはいえ、いまだ舞い散った水弾がバチバチと滝のように強く水が打ちつけてくる中でディーネは私の腕を押し退け、草が洗い流され黒い土が剥き出しになった円の中央に横たわっているアベルに駆け寄った。
「アベル! アベル!!」
泣き出しそうなディーネの悲鳴に揺り起こされたアベルはよろりと頭を上げ、ディーネにすり寄せた。
「ア……ベル……ッ!」
安堵からディーネは強く抱きしめたが、アベルはすぐにその手を逃れて立ち上がった。
「ヴゥゥ―――……」
「やめてアベル!! もういいの……もう………いいから…………」
アベルはよろめきながらも湖の中心に向かって唸り声を上げ、ディーネは必死に追い縋って押し留めた。
それを背中に庇い剣の柄を握り、目を凝らす。
激しく波立つ湖面。その中央にある銀色の水から、溜息がこぼれた。
「……あぁもう。仕方ないわねぇ」
鈴を転がすような可憐な溜息だった。
銀色に光る水が、蛇が絡むようにうねうねと形を変え、人の輪郭を形作っていき――そして光を失った時そこに立っていたのは、間違いなく昔ここで出会った、銀髪が輝く凄絶な美貌の妖精だった。
妖精はゆっくりと顔をあげ、吸い込まれそうなアメジストの瞳を開けた。
目があった瞬間に、くらりと酔いに似た目眩がした。
それは猛烈な睡魔に似ていて、気を抜くと心地よく永遠の眠りにつけそうな気さえした。
だが。
このまま、それに従うわけにはいかなかった。
背後に庇ったディーネはきっと成す術もなく怯えている。
アベルが弱っている今、私が守らなければ他に誰がディーネを守るというのか。
「アレス様、ダメです! 逃げてください!!」
「アベルが命がけで引きずり出してくれたんだ。逃げるわけにはいかない」
剣を抜き慣れない構えを取ると、背後でディーネが息を呑む音が聞こえた気がした。
「ふふ、仲睦まじいこと」
妖精は満足そうに、妖艶な紅い唇の端を持ち上げた。
妬みと嫉みに歪んだ赤い唇。
けれどそれはすぐにひっそりと鳴りをひそめ、穏やかな笑みに変わった。
「……ディーネ、久しぶりね」




