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妖精の湖  作者: 葵生りん
3章
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嫉妬渦巻く湖の畔4



「……全然、出てきてくれそうにないですね」


 ディーネは水際に座り込んで水面下にいる指先ほどの小魚たちを掬い上げようとゆっくりと湖に手を差し入れながら溜息をついた。

 他愛もない話をしながら時間をかけて2周したが、虹色の湖面も花の香りを含んだ風も穏やかで、妖精が現れるどころか悪戯めいたことすら何も起こらないからだ。


「元々10年に一度出てくるかどうかという幻の存在だからな」


 当然小魚は逃げ、残念そうに肩を落とす背中に苦笑いが漏れた。

 かつて調べたところによると、恋人達の仲違いは確実なのだが、妖精が姿を現すのはその程度だった。だから出てくる度に姿が違ったのだろう。もっと頻繁に現れていれば、紛らわしい情報にならなかっただろうに――。


 と、不意に考え事から現実に意識を引き戻すと、いつのまにか空気がずしりと重くなり、わずかな沈黙が流れていたことに気づく。


「……妖精が10年や20年に一度のヤキモチを妬くほど、リズベット様と仲がよろしかったのですね?」


 その苦笑いは茶化そうとしたものなのか、よくわからなかった。押し殺しても殺しきれずに僅かに震えた声だったから。


「いや――リズのことなら悪ふざけが過ぎただけだ」


 後ろめたさから、その小さい背中から視線をそらした。


 想いの強さならばリズの比ではないはずだ。

 それなのに出てこないということは、感情よりも行為に反応するのか、それとも私の想いはディーネではなく妖精に向いているのだろうか。あるいはディーネがそばにいたいと言いながらも線を引いていることが影響しているのか。それとも単に妖精のきまぐれなのか――。


 静かな湖面を睨んで答えのない思考を巡らせることに疲れ、ふと視線をディーネに戻すと彼女はいつの間にか目と鼻の先にいて、なにか思い詰めたようにじぃっと私を見つめていた。


「……妖精にやきもちを妬かせれば、出てくるかもしれないのですよね?」


 なにか決意したような強ばった声音で言いながらさらに一歩距離を詰め、細い指が私の両頬を包み込んだ。


「そう、だが……?」


 決意を秘めた紫水晶の瞳が、睨むと表現してもいいほど強く私を見つめていた。その鋭い眼力と動揺に射すくめられ、一瞬、身動きがとれなかった。

 動けないでいるうちに躊躇いがちに艶めいた唇が近づき、ほんの少し私の頬に触れて、すぐに首すじに沈み、麦藁帽子が落ちてころころと転がっていった。

 だが、ディーネは両手を私の胸にあてて寄り添ったまま、それを気にする様子はなかった。

 銀色の髪からちらりとのぞく耳が火が出そうなほど赤くて、小鳥みたいな心音が聞こえるような気がした。

 いったい何をするつもりなのかとひやりとしたが、まぁディーネにはこの挨拶程度のキスが精一杯なのだろうと思うと、かわいらしくて苦笑が漏れる。


「残念だが、このくらいでは多分無――」


 無理だなと笑おうとしたら、ぎゅっと服を掴む手に力が籠もり、


「――っ!?」


 唐突に、耳に舌が這う感触がしてぞくりとする。


「ディ……ディーネ………?」


 戸惑う間にも首筋がひやりとした。


「っ、なにを……」


 驚きのあまりバランスを崩して尻餅をつくが、彼女は一緒に倒れ込んできて離れない。


「……では、どのくらいの悪ふざけ(・ ・ ・ ・)なら、妖精は妬いてくれますか?」


 驚愕のあまり、咄嗟に言葉が出てこなかった。


「それとも、そもそもお相手が私ではなにをしようと無駄な足掻きでしょうか……?」


 蚊のなくようなか細い声が宙に消え、顔を胸にぎゅうっと強く押しつけた。

 ぽつりと、一粒の涙が私の外套コートに落ちた。


「ディーネ……?」


 戦慄く肩に触れようとすると、弾かれたように顔を上げた。


「………アレス様。不本意かもしれませんが、妖精に出てきてもらうためと割り切って私の悪ふざけにつき合ってください」

「……は……?」


 ふざけ(・・・)などとは言葉ばかりの刺すような強い睨みを利かせながら、ディーネは僅かに震えている両手でワンピースの前釦をひとつ外した。


「ちょ、ちょっ、待て、落ち着け! それで出てくるとは限らな――」

「試さないで後悔するより、いいでしょう?」


 ディーネは戸惑い慌てる私とは対照的に静かに、しかし切羽詰まった声で言うと、唇を強く押しつけてきた。張りつめた声は明らかに無理をしていた。

 妖精のような艶めきなど皆無だったが、馬乗りの体勢で見下ろされるとかつての記憶が脳裏をよぎって背筋が凍った。


「やっめ、ろ……」


 押し退けようとするが、彼女は服を掴んで頑として抵抗した。

 いつのまにかもう一つ釦を外したのか外れたのか、もみ合っているうちに露わになった白い肩をサラサラと銀色の髪が滑り落ちた。

 強い日差しに照らされて白く輝く肩が目に眩しくて、強く目を閉じる。


「………ディー、ネ……っ」


 目を閉じた瞬間に脳裏に浮かんだのは、あの夜の、泣き叫ぶディーネの姿だった。

 戦慄が背筋を駆け、麻痺した脳天を強く揺さぶった。


「―――やめろと、言ってるだろう!!」


 声の限りに怒鳴りつけて押しのけると、ディーネは怯えたようにびくりと身を竦ませ、憑き物が落ちたように急に力なくずるずると腹の上から滑るように落ちて、地面にぺたりと座り込んだ。



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