嫉妬渦巻く湖の畔2
「わぁ……!」
ディーネが思わず感嘆の息を漏らしたのも、やむをえなかっただろう。
その日、残暑の厳しい日差しは空や森の色彩をくっきりと際立たせ、虹色の湖面は一層美しく輝いていたから。
ここにグラ家を呪っている魔女が棲んでいるなどと言われても信じられないほどに、邪悪さなど塵芥の一粒すら伺わせないレテの湖は虹を溶かしたように美しく、清廉に存在していた。
けれど私は湖以上に、ディーネに目を奪われていた。
風を受けたレテの湖面はキラキラと虹の欠片を舞い踊らせ、その光粒が私の隣に立つディーネの無邪気な笑顔を照らして燐光を放つようで、うっかり息をするのを忘れてしまいそうだった。
「……本当に、綺麗ですね……」
ほぅ、と吐息を漏らす彼女にうっかりあなたの方がと言いそうになってその言葉を呑みこんだ。
リズにはそういう美辞麗句を私に期待するなと言ったのに、ディーネには自然と口端に上りそうになったのは我ながら不思議だが、いまだにディーネと妖精が混乱するくせにそんなことを言ったところで白々しいだけだった。
「……アレス様?」
「いいや、なんでもない」
不思議そうに見上げられ言葉を濁すと、ディーネは不安げに目をそらした。
「すみません……私、はしゃぎすぎでしょうか? 本来の目的を忘れたわけではないんですけれども」
「いいや、暗い顔で逢瀬をしていたところで、妖精は嫉妬なんかしないだろうからそれは別に」
言いながら目を閉じ、複雑な気持ちで珍しく腰に下げている剣に手をおいてみる。
(……あの妖精に、剣を向けることになるだろうか?)
この一月ほど何度か巡らせた思考が再び脳裏に閃いて、妙に落ち着かない気持ちにかられた。
あの妖精がディーネに死の呪いをかけている魔女だと理解したうえで、魔女を許せないと思う。
それは、恋慕の情が妖精よりもディーネにあるからだと、思う。
それなのに、相変わらずディーネを思い浮かべていたはずなのにその姿がいつのまにか妖精にすり替わることが幾度あっただろう。
我ながらどうしようもない不実さに嫌気がさすが――これは、さらにもうひとつの不安を生んでいた。
(もし――……妖精に剣を向けたつもりで、ディーネに剣を向けたら? もし、この手で、ディーネを斬るようなことになったら……?)
妖精を思い浮かべてディーネに変わることは、今のところない。だが、「もし」と考えてしまうとそれが何より空恐ろしく、剣の柄を握る腕に力が入った。
「――アレス様。それを抜くような状況になるようなら、私のことは構わないで逃げて下さいね?」
無意識に柄を強く握りこんで背筋を冷やす怖気を堪えていたら、ディーネはそれを自分の両手でそっと包みこんだ。
「……信用されてないな」
腕に自信はないのは確かなので失笑しながら、不安げなディーネの髪を撫でる。
これまで性に合わないと逃げ続けていた訓練を最近真面目にやってみたものの、付け焼き刃では護身にもやや不安が残る程度にしかならなかった。
護衛を連れてこられたらよかったのだが、物々しい警備体制を敷くと妖精が出てこなくなるだろうと、結局連れてきたのはアベルだけだ。――ということは、暴力に訴えることになるならば心許ないがこれだけが頼りだ。
「命を懸けてでも守ると約束しただろう?」
「……私は……大丈夫なんです」
ディーネは首を振り、俯いた。
「子供が生まれるまで私が生きていていなければ魔女は困るはずですし、もうじき自分のものになるこの身を傷つけるはずがないんです。……けれど、あなたにそんな保証はないのですから」
ぎゅうっと心細そうに自分の体を抱いたディーネは少しだけ震えているように見えて、そっと抱き寄せる。
「…………逃げる時は、あなたも一緒だ」
決意を秘めて抱き寄せた腕に力を込める。
顎に押し当てたディーネの表情は帽子の鍔に隠れて伺えないが、それでも首を振ったのがわかった。
線。
手は届いても、抱き寄せてみても、越えられない、きっちりとした線。
胸に刺さるその線の存在、その痛みを感じるたびに、この線を消すことができなくても、それは自業自得なのだと深く胸に刻み込む。
だから、これ以上、逃げて後悔はしたくない。
絶対にディーネをおいて逃げたりしない。
一人で逃げて繋いだ命を後悔しながら生きるより、死んでも一緒にいられるならその方がよ ほど―――… …… …
「わふんっ!」
不意に足下からアベルが存在を主張し、軽い目眩にも似た感覚から目覚めた。
(……立ち、くらみ? そんな場合ではないのに――)
「アベルも危なくなったらちゃんと逃げるのよ?」
「わふ!」
目頭に手のひらをあてて目眩を振り払っている間に、ディーネは屈んで目を合わせたアベルに声をかけていた。だが、ぴしりと居住まいを正して誇らしげに一声鳴いたアベルは「主君をおいておめおめと生き延びる気はありません」という騎士の風格を漂わせていた。
「……じゃあ、アレス様を守ってくれる?」
アベルはしばし私をじっと見、それからぷいと顔を背けたかと思うとディーネの手のひらを嘗めたりして甘えはじめた。
なんとなくだが、その態度はディーネのついでならという意味のような気がする。
「もう、アベル……最近ちょっと反抗的ね」
ディーネが苦笑いでむくれて見せたところを見ると、あながち間違いでもないらしい。アベルは尻尾を振ってディーネの顔をぺろりと舐めた。
「アベル、くすぐったいからやめて」
くすくすと困った様子で笑っているディーネにお構いなしでアベルはじゃれ続ける。
「もうアベル、やめてったら」
その笑顔は私に向けるのとは全く種類の違う屈託のない笑みで――私はじりりとわずかな疎外感を噛み殺すことしかできなかった。
「……さて、そろそろ散歩でもしてみるか?」
アベルと戯れているディーネをしばらく見守っていたが、焦燥に似たなにかが次第に強く胸を焦がして、ついに耐えきれず声をかけた。
「あ、はい」
ディーネが慌てて立ち上がるのだけを確認すると背を向け、2・3歩先に踏み出す。すると、私を追いかけてきたディーネが躊躇いがちに肘近くの袖を摘んだ。
足を止めて振り返ると、許しを乞うように不安げに見上げてきていて、思わず口元が緩んだ。
「ちゃんと、腕を組めばいいだろう?」
「……ご迷惑かと、思いまして」
くすぐられているような気分を押し殺すとつい突っ慳貪になってしまって、ディーネは申し訳なさそうに言い訳をした。
「何を言ってるんだ。妖精が姿を現すくらいに嫉妬してくれないと困るんだろう?」
「………………はい」
ディーネは不安を混ぜた複雑な笑顔で私の腕に手を添え、ぴたりと寄り添った。照れた顔を隠すように私の腕に頬を寄せて、ほんの少しだけ湖を見つめた。
「そうですよね、妬いてもらわないといけませんから……」
張りつめた声で呟いたディーネの後ろで無言の騎士が立ち上がった。
ゆっくりと歩き始めたふたりと一匹が見守る虹色の湖は、静かな風に音もなく揺れているだけだった。




