嫉妬渦巻く湖の畔1
「……本当に、大丈夫なのか?」
ピクニックにでも行く気か?と聞きたくなるほどうきうきと心弾ませながら帽子と日傘をそれぞれ右手と左手に持ってどちらにしようかと悩んでいるディーネを横目に、今朝から既に何度目なのかわからない質問を繰り返した。
「はい。体調がよければ散歩くらいしたほうがいいと言われたじゃありませんか」
ディーネは5ヶ月に近づいてつわりが落ち着き随分と体調がよくなってきたのだが、何度となく聞かずにはいられなかった。
妊娠5ヶ月を過ぎるとしばらくは安定期なのだそうで、気分がよければ散歩くらいしておかないと出産時の体力がつかないのだと、それは確かに助産婦に言われたのだが。
「ねぇアベル、どっちがいいかしら?」
アベルは迷わず帽子をつんと鼻先でつつき、ディーネは右手に持っていた帽子を見つめると、「そうね」と言って日傘を置く。
それから今度はいくつかの帽子の中からどれを被るかで悩み始めたのだった。
目的の別邸までは馬で行けば30分ほど、ゆっくりと馬車を揺らしても1時間ほどだ。馬車の揺れが響かないように柔らかなクッションを何重にも敷き、助産婦や医者も同行させる――子を宿した妻にできる配慮ならば万全というほどに整えている。
だが不安の種は、その別邸に向かう理由が湖の妖精をおびき出すためという点にある。
妖精だか魔女だかの住処がわかったことで呪いを解かせると意気込んではみたものの、現実問題として住処から出てこなければ話にならない。
かつて妖精に会うために足繁く通ったが一度たりとも会うことが叶わなかったことを考えれば徒労に終わるのは承知していたが、それでもディーネの体調を見計らっている間、いてもたってもいられず一人でレテ湖に行ってみた。結果は想像通り妖精が現れる気配は微塵もなく、なんの収穫もないまま一月が経過した。
結局は古い御伽噺を――嫉妬深いあの湖の妖精が姿を現すのは、恋人や夫婦がきた湖の畔に出かけた時だけという御伽噺を信じ、ディーネとふたりで湖の畔に出向いてみるしかなかった。
――それだって、姿を現すのは稀なのだから、怪しいものだが。
それにしても、魔女の住処に踏み込もうというのに、ディーネのこの浮かれぶりはいったいなんなんだと我知らずため息を落とした時だった。
ディーネは目敏くそれに気づいて、肩と眉をわずかに落として笑った。
「……すみません。アレス様とふたりでこんなふうに出かけるなんて、夢みたいで」
「ただの逢瀬ではすまないかもしれないんだ」
「はい、わかっています」
やむをえないとはいえ、ついこの間まで起きているだけでふらふらしていたくせに魔女に相対しに行っても本当に大丈夫なのかと眉を寄せると、ディーネはその笑顔に少しだけ悲哀の影を滲ませてお腹に手を当てた。
「でももし悪いことが起こるとしても、この子を解放してあげられるかもしれないのにただ諦めて死期を待つより――それを後から後悔したり、この子に恨まれるより――足掻けるだけ足掻いてみた方がずっといいと考え直したのです」
「……そうか」
眩しいほどの決意を秘めた表情に目を細めると、ディーネは笑みを深めた。
「人事みたいにおっしゃいますけど、アレス様が行こうって私の手を引いたんですよ?」
その言動の動機がかなり自分本位であったことが否めないので、苦笑いになってしまった。するとディーネは私の手を両手で包み込んだ。
「――行きましょう、アレス様」
それはまるで祈るような呟きだった。
「妖精が棲む、レテの湖へ」
ほんの少し冷えた手元から時期外れな水仙の香りがして、背筋が伸びる思いがした。
足下ではディーネがいつのまにか落としていた帽子を拾ってきたアベルが行儀よく差し出していた。
大輪のヒマワリと黄色のリボンがあしらわれた鍔の広い麦藁帽子。眩しいほどの白のレースと爽やかな新緑色のリボンがあしらわれたワンピースを着込んだディーネの銀髪の上にそれを被せ、改めてその白い手を強く握りしめる。
「……あぁ、行こう」
そして私はディーネの手を引いて別邸に向かう馬車に乗り込んだ。




