光明2
物思いに耽っているとディーネが再び腰を上げようとし、慌てて掴み止めた。
「無理をするな。なにか用事があるなら言ってくれ」
「大丈夫ですと申し上げているのに、アレス様過保護ですよ?」
「なんとでも言え」
ぶっきらぼうに言ったけれども、ディーネはくすぐったそうに笑いながら腰を下ろした。
「……では申し訳ないのですが、あの箱を持ってきてください」
ディーネは部屋の片隅にひっそりとおかれている箱を指した。彼女が嫁入りの時に持参してきて、子供と一緒にグラに送る予定になっている箱だ。
言われたとおりに持ってきて目の前に置くと、ディーネは蓋を開けて宝物のように大事に靴下を中にしまった。
「お父様は毎年私の誕生日には必ず肖像画を描かせて、私が生きた証を遺そうとしてきたのですが」
そして、その代わりに中からひとつの額縁を取り出して大事そうに胸に抱いた。
「……今年で……18枚で……最後でしたね」
誕生日――来年の誕生日の約束をした時、泣き出しそうだったのを思い起こす。
来ないかもしれない未来の約束なんか辛いだけだっただろう。
涙を必死に隠そうとしていたから敢えて触れなかったけれど、あの時、その理由を聞いていれば。もっと前に、歳を取りたくないと言った理由を知ろうとしていれば――。
あぁ、本当に最近は気がつけば後悔ばかりしている。
生き方すら、間違っていたのだと思う。
私が頑なに人の話を聞くのを拒み、皆が敢えて耳に入れるのを避けてきたから、なにかの拍子に聞き及ぶこともなかったのだ。
耳が痛くても面倒でも、逃げずにちゃんと聞くべきことが、知るべきことが、きっとこれまでにたくさんあったのに。
「……アレス様、誕生日のこと、気に病んでいらっしゃるのでしょう?」
心を見透かされたようで、ぴくりと指が震えた。
「私、自分の誕生日が嫌いだったんですよ。私の誕生日はお母様の命日で、私に余命を突きつける一年で最も辛い日でしたから」
沈黙を肯定と察したのか、ディーネはわずかに笑ったような気がした。
「だから全然祝う気になれなくて。もう何年も、お父様が肖像画を贈る他はなにもしないで過ごしてきました。なにもやらないと言われても、それが当たり前だったので全然気にならなかったんです」
それが当たり前だと心から思っているのが、息苦しいほど切なかった。
「でも、アレス様は私のことを一生懸命考えてプレゼントを選んでくれて……」
声が、わずかに震えた。
ディーネは水仙の香りに追縋ろうとするかのように口元を覆って俯く。
「……とても………とても、嬉しかったんですよ。あんなに幸せだと思った誕生日は他にありませんでした……」
たったあれだけのことが、と思うのは何度目だろう。
「誕生日くらい、祝って当然だ」
切なさに耐えきれずに抱き寄せると、ほのかに水仙の香りが立ち上った。
もっとちゃんと祝ってやりたかった。
来年も、その次も、ずっと先まで。
なにげないありふれた幸福に溢れた日常を生き、笑っていてほしかった。
抱き寄せた腕にディーネは寄り添うように手を添え、頬を寄せ、そしてゆっくりとはにかんだ。
「………アレス様、図々しいことは承知なのですけど、約束の来年の分を……今、お願いしてもいいですか?」
「なにか欲しいものでもあるのか?」
この際誕生日など関係なくディーネが望むならどんな願いでも叶えてやりたいという気分で返事をすると、ディーネは笑った。
「画家さんを呼んで、絵を描いてほしいんです。私とアレス様が一緒にいる絵。それで、子供が生まれたらその子を描き足してもらって、親子3人の絵にするんです」
返事が、できなかった。
うっかり口を開いたら嗚咽が漏れてしまいそうで、思わず口元を覆う。
「あ、最終的にはお父様に引き渡してくだされば結構です。きっとお父様も喜んでくれると思うんです」
「………それが、夢なのか」
「はい。お母様は一度でいいから子供を抱きたいと願ったんだそうです。そしたらお父様は、そうやって親子3人の絵をお母様にプレゼントをしたんですって」
これほどささやかなのに、絵の中でしか叶わない夢なのだろうか。
「すごく素敵だなって、私、ずっとそのお話に憧れていたんです――……」
ディーネは抱いていた絵を目の高さに持ち上げて、愛おしそうに眺めた。
「これは、その絵を小さく書き直してもらった複製なんですよ」
そう言いながらディーネが見せた肖像画が視界に入った瞬間――頭が真っ白な濃霧に包まれたようだった。
霧を振り払うように頭を振ってから、改めてその絵を凝視する。
今よりもずっと若いグラ公爵が寄り添うように立つ椅子に腰掛け、赤子を抱いて微笑む、銀色の髪とアメジストの瞳の夫人が描かれている絵を。
「……ディーネ……」
目眩を堪え、息をのんだ。
「これは、誰だ……?」
心臓がうるさいほどに鼓動を刻み、声が震えていた。
聞くまでもないことなのに、確認せずにはいられなかった。
ディーネは母と自分がよく似ている、と言った。
そう、その夫人は、確かにディーネによく似ていた。
でも、上品な猫のような、この、顔は―――
「お父様とお母様ですが?」
ディーネの発した短い答えに、暴れていた心臓が今度は唐突に止まった。
「……アレス様、どうかなさいました?」
隠しきれない私の動揺を訝ったディーネが見上げてくる。
「……ディーネ……呪いをかけたのが魔女というのは、確かか?」
「はい?」
くるりと丸めたアメジスト色の瞳は、子犬のようにつぶらだった。
似ている。
似ているけれど、別人だ。
けれど、この肖像画に描かれているのは似ているなんていうレベルではない。
あの湖の妖精、そのものだった。
「………ええと、そう伝え聞いていますけど………確かかと聞かれると、確認する術はありません。当事者以外には口外もできなければ書き記すこともできませんし、それにお祖父様はほとんど何も語ってはくれなかったみたいで………」
ディーネの答えを、上の空で聞いた。
それは、全く意味のない質問だった。
妖精にしても、同じだ。
そういうおとぎ話があったから勝手に妖精だと思ったのだ。
あれは、自分で妖精だとも魔女だとも言っていない。
魔女は娘の身体を乗り換えて若さと命を維持している。
見る人によって姿が変わる、妖精。
つまり――
「……ディーネに呪いをかけた魔女は――レテ湖にいる」




