光明1
妊娠3ヶ月に入った頃からディーネは悪阻と思われる吐き気や目眩、体調不良に見舞われはじめ、4ヶ月になると床に伏せていることが多くなってきた。
「……私、魔女に病気や怪我をしないように魔法をかけられているので、こんなに長く寝込んだのははじめてですよ」
ディーネはそう言ってベッドの中で自嘲するように弱々しく笑った。
今は気分がいいという彼女は背中に枕を当てて半身を起こし、純白のレース糸で小さな靴下を編む手を一心に見つめて再び動かし始める。
今はディーネのいる場所ならどこにいても怒られることのなくなったアベルは肘掛けのようにその横に寄り添い、それを穏やかに見守っている。
レース編みの靴下はすでに片足ができあがり、じきにもう片足分も完成しそうだ。娘だからとレースのフリルがふんだんに編みこまれたそれを見ていると苦いものがこみ上げてきて、思わず目を反らした。
「病弱とか言ってただろう」
「それはですね、呪いのことを無理に話そうとすると倒れてしまうのと、あとはいつ死んだとしても不思議ではないように、グラ家の娘が代々ついている嘘のひとつです」
鉤針を器用に操りながら、穏やかに懺悔するようだった。
今まで嘘で塗り固めて真実を伝えられなかった罪悪感を、膿を押し出すように吐露しているように思えた。
「……そうか」
ディーネは一目一目に想いを込めるようにゆっくりと丁寧に編みすすめていき、最後に余り糸を処理すると、両足分をそろえ、その出来に満足そうに目を細めた。
「ピンクも作ってあげたら、喜ぶでしょうか?」
「……あぁ、多分」
ディーネはそれを大事に胸に抱いて、起きあがろうとした。
元々食が細いのに今は吐き気でほとんど食べることができないせいなのか、それとも目眩でもしたのか、ともかくディーネはそれだけの動きもままならずに目元を覆った。
「無理をするな」
倒れ込みそうになるディーネの腕を掴んで支えると、ディーネは目元を覆っていた手をのけてうっすらとほほえみを浮かべる。
「大丈夫ですよ、悪阻は重いほうが元気な子供が生まれるらしいですし。それに、子供が生まれるまでは魔女が守ってくれるんですよ。大事な器ですから」
ディーネは冗談のつもりだったのだろうが、作り笑いすらできずに固まってしまった。ほんの一瞬だったが、それに気づいたディーネは申し訳なさそうに目を伏せ、ベッドにぺたりと座り込んだ。
「………ごめんなさい」
小さな謝罪に、喉の奥からこみ上げるものがあって口を強く引き結ぶ。
ディーネが悪いわけではない。
あの口癖と同じ。無意識に出るほど身に染み着いて離れないくらいに、ディーネは魔女の器であろうとし続けてきたということだ。
「……その子は、どうしてもグラ家が引き取るのか」
ディーネは答える代わりにひっそりと目を伏せた。
「グラ家でその子は、ディーネと同じように魔女の器になるために育つのか……?」
元々、子供はグラ家が引き取るという約束のもとに結ばれた縁談だ。そう簡単に反故にできないのは承知の上だ。それでも、言わずにはいられなかった。
「………私の子だ。私の手元で――」
心の隅に迷いはあった。
きっと子供を見るたびにディーネを思い出し、いつまでも罪の意識と後悔に苛まれる。けれど、それは背負うべきものではないのだろうかと漠然と思った。逃げてはいけないのではないかと。
いつの間にか握っていてこぶしに、そっとぬくもりが触れた。添えられた手を伝うように顔を上げると、ディーネはゆっくりと首を振った。
「お義父様もお義母様も、きっと反対されます」
「父のことはどうでもいい」
苦々しく吐き捨てる。
最初からその計画をある程度知っていて了承した両親とは、しばらく会話らしい会話をしていない。
「お義父様もお義母様もアレス様のことを心配していらっしゃるのですよ」
ディーネは言いながらベッドサイドのチェストに視線を送り、ぎゅっと小さな靴下を胸の前で抱きしめた。
そこには、一通の手紙が置かれていた。
それは彼女がグラ公爵に懐妊を知らせた手紙の返事だった。
届いたときにディーネが苦笑いで見せてくれたそれには、所々滲んだ文字でただ一筆「おめでとう」と綴られていた。
そして、大きな空白を挟んだ便箋の末尾に「用意しておこう」と。
「……お父様は、私をとても大事にしてくれました」
ぽつり、とディーネは言った。
「それはお母様の遺言でもあったそうです」
ぽつりぽつりと話す姿はまるで大きな氷塊を自らの体温だけで暖めて溶かしていくかのように思えた。刺すような激痛に耐えながら、それでも少しずつ、少しずつ――溶かしていこうとする姿が切なくて、握った手を離せなかった。
「お祖父様は、お父様とは真逆で母が幸福と思うことは端から全部遠ざけて育てたそうです。それでお父様とはかなり衝突したみたいですけれど」
「祖父というと、夫人の死を忌避するために一度は子供をもうけることを拒否したために魔女に災厄を引き起こすと脅され、最終的にはディーネの母が生まれて夫人を亡くしたという――その祖父か」
子供を、憎んでいたのだろうか。
ディーネはその祖父と同じように私が子供を憎むと思っているのだろうか。
「はい、そのお祖父様です。けれど――」
ディーネは作り損ねた笑みを張り付けた。
「お祖父様はお母様の葬儀の時、世界中を憎んでも生きて欲しかったと呟いたのだそうですよ」
一瞬、呼吸を忘れてしまった。
「お父様は私が幸せならどんな犠牲でも払うと言いました。世界を犠牲にしても、お父様を犠牲にしても、私が幸せになれるなら構わないと」
どう足掻いても抜け出せない流砂に落ちたようだった。
「――お父様は私を見るとき、いつも辛そうでした」
ディーネは悔やむような苦々しさで呟いた。
「しかも、年を追うごとにお父様の苦しみは増していくように見えました」
すんと鼻をすすりあげ、涙を拭いながら、必死に笑おうと心がけていた。
「……私……最初はお父様が少しでも心から笑ってくれるように頑張りました。けれど……頑張れば頑張るほど……お父様を、苦しめるばかりでした……」
小さな靴下を抱きしめる彼女の手が震えた。
「私は絵でしかお母様を見たことがないのですが、みんなによく似てると言われるんですよ。だからきっと、お父様は私を見るたびに思い出しているんです。お母様を死なせたのは自分のせいなんだと」
ディーネの父の心痛も祖父の心痛も、本当に痛いほど身に沁みた。
「だから私、お父様のそばにいるのが辛かったんです。だから療養とか魔女を捜すとかいろんな理由をつけて故郷を明け続けました………本当は、もっと………」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて、ディーネは両手で顔を覆う。
「ごめんなさい……お父様が今、どんな思いでいるかと思うと――」
少し泣いたディーネはすぐに顔を上げて「ごめんなさい、話が逸れました」と断りを入れて涙が残ったままの笑顔を見せる。
「……魔女がグラ一族をどれほど深く強く呪っているか、ご理解いただけますか? 直接の危害が加えられずとも伴侶は心を痛め続けます。死んで終わりの私たちのほうがいっそ楽ではないかと思うほどです。ですから、アレス様にこれ以上のご迷惑をおかけするわけにはいきませんよ」
また、線を引かれた。
きっちりとした線。
胸が締め上げられるように痛む。
その痛みを一緒に背負わせてもらえるほど、信用されていない。
それは当然の報いなのだろう。
今まで色々なものから逃げ続けた、報い――




