穏やかな余生
晴れ晴れとした初夏の空の下、アベルは投げたボールを走って追いかけ、体を捻らせながら見事に空中でキャッチすると、今度は走って戻ってきて、私の前にボールをおいて伏せる。
誉めろ!といわんばかりに金茶の目を輝かせて見上げてくる姿が愛らしい。ぽんぽんと頭を撫でてやると、鼻先でボールをつついて私の足下に押しやり、琥珀のようにきらきらとした目で再度見上げてくる。
「もう一度投げてほしいそうです」
なにをして欲しいのかと困惑していると後ろでディーネがくすくすと笑いながら翻訳し、アベルがわふんと嬉しそうに鳴く。
「なるほど」
ボールを拾い上げ、軽く手の中でぽんぽんと軽く放って焦らすと、既にスタートダッシュの体勢を整え足踏みをしながら全力で尻尾を振っている。
じりじりと振りかぶり、おもいっきりボールを投げる――が、手が滑って生け垣の向こうに飛んでいく。
それでもアベルはボールを追いかけ、生け垣の向こうへ消えていった。
「……悪いことをしたな」
我ながら情けない制球力に頭を掻く。ディーネは相変わらず後ろでくすくすと穏やかに笑っている。
「でもアベル、とても楽しそうですよ。私が投げてもあんなに飛ばないですから」
投げようとした手からボールがすっぽ抜けて真上だとか見当違いの場所に飛んでいくディーネに比べたら、これでも少しはマシなのだろうが、それにしてもこれでは格好がつかない。
「これを機に少し体を動かすことを検討するかなぁ……」
呟いて穏やかな快晴の空を見上げた時、うっすらと浮いた汗を風が撫でていき、肌寒さを感じて身震いがでた。
あの日以来、表面上は元に戻ったような穏やかな日常が過ぎていった。
ディーネはアベルを連れてのんびり散歩したり、アベルと遊んだり、庭の花を愛でてみたりして一日を過ごし、私は時間の許す限りできるだけそばにいるようにした。
なにができるわけでもないけれど、このなんでもないようなささやかな幸福を、今度こそ噛みしめるように味わっておくべきだと思った。
そしてふと、今この瞬間のように、この穏やかな時間がいつまで続くのだろうかという考えが浮かんで、喉の奥が灼け付くような痛みと息苦しさに襲われる。
今この時間の一分一秒が、惜しかった。
追縋って捕まえられるものならばがむしゃらに追いかけたいけれど、時間は残酷なほどに刻々と過ぎていく。
私が逃げまわっていた一月……あれを取り返せたら、どれほどいいだろう。
もっと早く、ちゃんと話をすればよかったのに――。
後悔に押しつぶされそうな気分でいると、ディーネはふわりと私の背中に身を寄せた。
「――アレス様。ひとつだけ、お願いがあるのです」
「うん?」
振り返る代わりに背中に寄り添うディーネの呼吸まで聞きとれるように耳を澄まして返事をする。
「ご迷惑でなければ、アベルを引き取っていただけないでしょうか?」
私が死んだら、という言外の意図にざわりと背筋が寒くなってすぐには返事ができなかった。
「こちらには何も遺さないつもりだったのですけれど。アベルは私がずっと連れ歩いてしまったので、故郷のほうではあまり懐いている人もいなくて寂しい思いをさせてしまうかもしれないと、ずっと気がかりだったんです……」
(何も遺さないつもり……何も遺さなくても、絶対に、一生忘れることなどできないのに)
今から形見分けを済ませようとしているディーネに、苛立ちとも悲しみともつかない感情を持て余してしまう。
どうしてそう、呪いに殉じることに心を砕くのだろう。
ただ諦めて投げ出してしまうのだろう。
「ご迷惑ですか?」
長い沈黙を拒否と思ったのか、彼女は不安げに聞いてきた。
「………いや、どうにもならないのかと考えていたんだ。なにか方法はないのか?魔女の住処がどこにあるかとか、どんな姿とか、なにか手がかりは――」
「方法があるならむざむざとこんな呪いを甘んじて受けていると思いますか?」
背中から、苦笑混じりなのにずしりと重みのある返事がかえってきて、言葉に詰まった。
あまりにも当然の答えだった。
たかだか数カ月関わっただけの私が、脈々と呪いを受け続けている一族に対して、わかったようなことを言えるわけもないのに。
沈んでいると、ふふっと背中から小さな笑い声が聞こえてきた。
「私も昔は魔女を見つけだしてなんとかしようと躍起になっていましたよ。療養と称してあちこち旅をしたのも、それが目的のひとつだったのですけれど」
笑い声がぴたりと止み、声が沈む。
「――でも結局、どこにいるのかもわからないままでしたね」
明るく語ろうとしていても、流砂に引き込まれるように暗い地の底に声が沈んでいった。
「お父様お母様もお祖父様も、先代達も抵抗なら試みました。けれどどれも実を結ばず、逆に魔女の不興をかい、より強固に残酷に子孫の運命を縛ってきたのです」
ディーネは、助けを求めるようにぎゅうっと私の服を握りしめた。背中を引っ張られ、いやがおうにも背筋が伸びる。
「私は――この腕に抱くことすらできない娘に、私以上の呪いを与えたくありません。それが、私にできる唯一のこの子への祝福ですから」
私はその暗澹とした空気を払拭する言葉を持たず、ただ沈黙する。
「―――わふんっ!」
重い沈黙が沈着しようとする寸前、穏やかな犬の鳴き声が足下から聞こえた。その陽気な声が蜘蛛の子を散らすように沈黙を追い払う。
夢から覚めたような気分で足下に視線を落とすと、盛大に尻尾を振るアベルが鼻先でボールを押しやっていた。
「おかえりなさい、アベル」
ディーネはいつもの笑顔でアベルの頭を撫でてねぎらった後に、クリーム色の毛皮に顔を埋めて抱きしめた。
「……アベルが犬でよかったよ……」
苦笑いでぼそりと呟くとディーネが不思議そうに見上げてきたが、なんでもないよとうやむやに笑ってごまかすことしかできなかった。




