虚ろな器2
「は……? 身籠――」
吐き気がして口元を手で覆うと、ディーネはほほえみを浮かべたままで静かに小首を傾げた。
「身に覚えがありませんか?」
あるから、自分自身に吐き気がするのだ。
なのにディーネは埃一粒ほどの感情も見せず、なにか聞き間違ったのだろうかと疑いたくなるほど静かに笑っている。
呪われているなんて、質の悪い冗談なんじゃないのか。
あるいは、身籠もっているほうが――。
そんな自分勝手な推測に思慮が及びそうになると、アベルが魔剣のような禍々しさで睨んできて、はっと息を飲む。
「…………いや、ある」
軽く頭を振って、アベルにわずかばかりの感謝を感じたのを今は脇に押しやって吐き気を飲み下し、それでもこみ上げてくる不快感を押し殺して、なんとかそれだけを答えた。
そうですか、と静かに答えたディーネの表情は、複雑な笑みをかみ殺しているようだった。
「あるけれども……――」
呻くと、彼女はそれをいたわるような目で見つめ、歴史書でも読み上げるかのようにとても淡々と言葉を紡いでいく。
「魔女の呪いは目的のために徹底しています。一度で必ず孕むように、決して流れないように。子供は必ず娘が生まれるように――」
その声は闇夜で暗殺者が音もなく忍び寄ってくる気配が漂うような、残酷なほどの静けさに包まれていた。
あの嫁いできた夜に殺されそうなほどの怯えていたのは――本当に、私がディーネを殺すのも同然だったからか。
茶会から戻ってきた夜、命を惜しまないと言ったのは、本物の死を覚悟していたのか。
ディーネはそんな悲痛な決意を秘めて“ずっと好きでした”と言ったのか――。
――それなのに、私は――。
――崖から突き落とすようなことだけはしてなさそうなのがせめてもの救いだけど!
憤慨したリズの言葉が脳裏に閃いて、深く胸に刺さる。
――私は、命懸けで愛されたいと望んだディーネに……偽りの愛を囁いて死の国に突き落としたのか――。
目の前が真っ暗になったような気がして、ぐるぐると視界が渦を巻く。
膝が笑って立っていられず、かくんと崩折れ膝をついた時――ふんわりと、水仙の匂いを含んだ風に抱き止められたような気がした。
「……ディー…ネ……?」
じんわりとあたたかさが沁みてきて、ディーネが寄り添って支えてくれたのだと知る。
その行動が信じられなくて呼びかけると、ディーネは無言で、その細い指で慰めるように優しく背中を撫でた。
「………ディーネ………」
無心に、その華奢な体を抱きしめていた。
こんな状況なのに、ずっと求めていた柔らかいぬくもりが冷えきった心をあたためていくのを感じて、どろりとしたものが胸に流れ込む。
無惨に儚い命を踏みにじっておいて救いを求め縋る己の醜さが、呪わしかった。
……最低だ。
救いようがないほどに。
口が動いても声が出ない様子だったのを、何度も目にしていたのに。
調べてみてくださいと、何度も言われたのに。
泣いているのを知っていて、見て見ぬふりをしてきた。
もっと早く知る契機がいくらでもあったのに。
ディーネは知らせようとしていたのに。
なにも知らず。
知ろうとせず。
あんな最悪の形で、純潔だけではなくなにもかも奪った――。
何度も繰り返し押し寄せてくる後悔と罪悪感から溢れてくる嗚咽を、必死に堪えた。
ディーネが水や霧のように指の間をすり抜けていきそうに思えて、それが怖くて、ただ強く強く抱きしめ続けた。
「アレス様……」
ディーネは私を支えきれず、わずかによろけた。心配するアベルがふたりのまわりを周っている中でぐずぐずと砂山が崩れるように座り込むと、ディーネは再び私の背中をゆっくりとさすった。それはまるで泣いている子供をあやす母親のような慈愛に満ちていて、己の醜さが否応なく顕著になるようでよけいに胸がキリキリと締め上げられた。
「……アレス様、申し訳ありませんでした」
そんな中で、ぽつりとディーネは苦渋に満ちた声で呻いた。
「………は?」
わけがわからず、腕の中に寄り添っているディーネを見つめた。
けれどディーネは背中に回した両腕に力を込め私の胸に顔を押しつけるようにしていて、表情は伺えなかった。
「……私があなたを責める権利なんてないのに、あんな暴言を……」
細い声も、華奢な体も、かすかに震えていた。
「…………な……にを、言ってるんだ?」
思考がついていかず、ただ困惑した。
私を詰る相手がいないだけじゃないのか。
なんで、謝るんだ?
「謝るべきは、私だ。謝って許されるとは思えないほど酷いことをしたのは、私だろう……?」
掠れた喉を絞るが、彼女はゆるゆると首を振った。
「………いいえ、元凶はすべて私にあるのです」
ディーネが首を振ると、水仙の匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。
あの香水の匂いだ。
毎朝とても嬉しそうにつけていた姿が脳裏に浮かんで、心がちぎれそうな気がした。
「私は本懐を遂げたのです。私は最初から人や噂話に無頓着なあなたを利用し、単に責務として子供を授けてもらうために嫁いできたのですから」
息を、呑んだ。
「……………嘘だ」
――片思いのままでもかまわないと思って嫁いできました。責務でも情欲でも、ほんの一時でも私を見ていただけたら、それでいいとさえ思っていました。
その言葉とあの時の表情が脳裏に蘇り、嘘だと言ってくれと心の中で祈った。
「嘘ではありません。あなたに何も知らせないままに子供を授かれば出産のためにグラに帰って使命を果たし、あとはお父様が子供を引き取り、あなたにはうまく言い訳してもらうつもりでした。お義父様には長くても2年ほどで決着をつけ、リベーテ家のみなさまには決してご迷惑をおかけしないという約束のうえでこの縁談に了承をいただきましたので、確認していただければはっきりするかと思います」
切れてしまいそうなほど限界まで張りつめた声だった。
「……あなたは、ずっと好きだったと言った。あれも全部、嘘だったっていうのか?」
ディーネは嘘をつくと必ず顔に、声に、態度に出て、すぐにわかる。なのに、あれが嘘だったなら、なにを信じればいい?
あの言葉を、疑いたくなかった。
信じていたかった。
不実な自分のことは棚にあげて。
少しだけ、迷うような間があった。
「……それもまた、本心でした」
かすかに声が和らいでいた。
くぅん、と心配そうにしているアベルが鼻先でディーネの腕をつつき、ぴたりと寄り添った。ディーネは苦い笑みを浮かべてアベルをひとなでだけしてから、私に再び固い笑みを向けた。
「正確には、あなたを利用することが理想的な手段と考えていたというべきでしょうか。私が思いつく限り、それが唯一誰も傷つけない方法だったのです。なにも知らないままであれば、私のことなど歯牙にかけなければ、あなたは自分の行動で人の命を削ったと罪悪感に苛まれることもなく、すべてが丸く収まるはずだと」
誰も傷つけない?
丸く収まる?
ディーネ自身が、犠牲になっているのに。
最初から儚く散る運命だから、省みる必要がないというのだろうか……?
友人も特別親しくしている人もいない。
持ち物は常にアベルと、最低限のものだけ。
唐突に、その事実が冷たい刃のようにぬらりと光った気がした。
あれは死ぬための準備だったのだろうか。
ディーネはいままでずっとそうやって、死ぬ用意をしながら生きてきたのだろうか。
誰の手も借りずにひとりきりで死ぬ用意をするための生――。
それはどれほど空しく、息苦しかっただろう。
それでもディーネは私達には楽しそうな笑顔だけを見せ続け、泣くときは人目を忍んでいた。
――このまま時が止まればいいのにと思います。
あの時――
どうして私は、ディーネがそう言った理由を突き詰めようとしなかったのだろう。
毎晩のようにひっそり泣いていた。
その理由を、なぜ一度も聴かずに、気づかない振りをし続けたのだろう――。
「……けれどあの夜、あなたが愛し合いたいと言ってくださった時――」
背中にまわる華奢な腕にきゅっと力が籠もった。
胸元があたたかい涙で濡れていく。
濡れた声が掠れて震える。
「私は、本当に愛されたいと願ってしまいました」
心が、震えた。
弦楽器のように細く激しく震えて、悲鳴のような嫌な音を立てた。
「それがどれほど罪深いことか、わかっていたのに。私はこの半年、あなたの優しさに甘えて、あなたのそばにいられるこの幸せな夢がいつまでも醒めなければいいと、欲張って……」
欲張る?
たったそれだけのことが?
私にとってはほとんど日常と変わらない、ただそこに彼女の笑顔が添えられただけの日常を生きることが、欲張るというほどのことだっただろうか。
誕生日すら、ちゃんと祝ってやらなかった……。
なにが、精一杯だったのだろう。
人に聞くだけの、たったそれだけのことをしないでおいて。
彼女の不可解な言動の数々の理由をちゃんと真剣に考えてやればよかったのに。
そうしたら、こんなふうに泣かせずに済んだかもしれなかったのに――。
後悔だけが波のように次々と押し寄せて、言葉にならない。
「幸せな夢の中でいつしか本望を忘れ、あなたの優しさに甘えて。愚かにも調子に乗って、暴言を吐いてしまったんです……」
ディーネはしゃくりあげながら、雨のように次々とこぼれ落ちる涙を手のひらで拭い続けた。
「あなたを騙し、こんな呪いに巻き込もうとしながら、愛されていいはずがないのに。あなたを好きだなんて言う資格など、ありはしないのに――」
ディーネは悔恨の涙を落とし続け、心が軋む。
「だから、ごめんなさい。暴言を吐いたことも、ずっと騙してきたことも、こんなことに巻き込んでしまったことも、全部……全部、悪いのは私です。ダメだって、わかっていたのに……私は、あなたの優しさに縋らずにいられなかったんです。……ごめんなさい――」
ディーネは、あとはひたすらごめんなさいと何度も何度も繰り返した。
「……ディーネ……」
なにも言葉が出てこなかった。
ただ嗚咽を必死に堪え、涙に溶けて消えてしまいそうに儚い少女を消えないように力一杯に抱きしめた。
「ディーネ……違う。私が悪かった」
ディーネは激しく首を横に振り、ごめんなさいとひたすらに繰り返して泣き続けた。
でも、ディーネがこんなに泣いているのは、私のせいだった。
泣いていた理由をディーネにでもほかの誰かにでも聞いていれば、ディーネの誕生日を誰かに尋ねていれば。
ディーネを、ただ苦しめているだけの自分が歯痒くて。
でも、このディーネを抱き寄せた腕を、離せなかった。
離したくなくて、ごめんなさいと呪文のように唱えながら涙にふるえる華奢な体を抱きしめ続けた。
この腕を離したくないという身勝手な願望に、抵抗することができなかった。




