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妖精の湖  作者: 葵生りん
3章
33/63

虚ろな器1



「ディーネッ!!」


 いまだ混乱の最中にあったが、それでももしリズに聞いた噂が本当で――もし、あの時の子供ができていたらと思うと、背中に火がついたような激しい焦燥に駆られた。

 それは、混乱で傷つけるんじゃないかなんて、そんなものは比べものにならない恐怖だった。

 焦燥と恐怖に突き動かされて足がもつれそうになりながら部屋に駆け込み、ディーネを探す。


「あらアレス様、おかえりなさいませ。そんなにお急ぎでどうなさったんです? ラグナス様から待っていろという伝言は確かに受け取りましたのに」


 いつものソファに腰掛けてアベルのブラッシングをしていたディーネが顔を上げ、にこやかに何事もなかったかのような返事をした。


 1月前のことが、ではない。

 この7ヶ月がすべてなくなって、結婚式を挙げた日に戻ってしまったような返事だった。


 馬と自分の足を全力で走らせ帰ってきたせいか、息が上がっていてすぐには声が出なかった。

 息を整えようと一呼吸した時、キリ、と胸がかすかに軋んだ。


「あれは――本当なのか?」


 息苦しさと胸の痛みを無理矢理押さえ込むことに注意を向けていたから、勢い余って半端な尋ね方になってしまった。

 目の前に立ちすくむ私に、ディーネは笑顔のままで子猫のようにあどけなく首を傾げる。


あれ(・・)というと?」


 彼女がはじめてここにきた日、同じような表情をした。

 あの時ただかわいいと思ったその表情が、今はまるで人形のほほえみに見えた。

 その表情の堅さの理由が身を切るようで、一瞬足が外に向きそうになるが、これ以上逃げるなと自分の足を叱咤して止め置く。


「自分の命と引き替えにしか子供を産めない呪いをかけられているという、あの噂は――本当か?」

「あぁ、ようやく聞き及んでいただいたのですね」


 彼女は空虚な笑みを深め、その返事は穏やかな肯定に聞こえた。

 それが無性に癇に障り、ぎりっと拳を握る。


「……なんで、今まで黙っていた?」

「私は何度か、調べてくださいと申し上げましたよ」


 怒りを押し殺して問いただすが、彼女は涼しい表情のままブラシについた毛を取って片づける。


「それでわかるわけがないだろう!」


 押さえきれずに声が荒くなる。だが、それでも彼女はぴくりとも表情を変えなかった。

 アベルに視線を落とし、その背中と喉元を撫でて目を細める。


「いいえ、無精をなさらずに、一言誰かに尋ねればすぐに聞き及ぶことでした。今となってはこのあたりでも知らない人がいないほど有名な噂ですから」

「だから、なんで黙っていたんだと聞いている。そんな回りくどいことをせずとも――」

「ウゥゥ―――……ッ」


 苛立ってつい詰め寄ろうと一歩足を踏み出すと、アベルの鋭い視線と低い唸り声が刺さって身動きが取れなくなる。


「アベル、やめて」


 ディーネはアベルの首に腕を回して抱きしめ、背中をポンポンと叩いて宥める。迷うように何度か私とディーネを見比べたアベルは、最終的に私を睨むに留めることで折り合いをつけたようだった。

 ありがとうと小さな感謝をアベルに囁いたディーネは、短い嘆息を漏らした。


「申し訳ありません。他言無用の呪いもかけられていて私の口からお話することができなかったのです」


 ディーネは笑顔で、しかしどこかぴしゃりと厳しい声でそう言い切ってから、わずかに不思議そうに自分の喉に手を当てた。くぅんと顔色を伺うアベルに、安堵と悲哀の混じった笑顔を向けて頭を撫でた。

 それから、言葉を無くしている私にいたわるような視線を向けた。


「呪われていることが知れると、嫁の貰い手がなくなって魔女も困るからでしょうね。当事者以外にこの呪いのことを話すことはできないのですよ」


 それでも、とディーネは痛みを堪えるように眉を寄せてアベルの首元に顔を埋めた。


「それでも――口にすることができずとも、お父様は呪いの噂が真実かと聞いた時のお母様の様子からそれがただの噂ではないことを察しました。あの噂は、そうやってグラ一族が懸命に呪いと戦って勝ち取ってきた、ごくわずかな、でもとても大事な、抵抗の証でもあるのです」


 彼女の言葉はとても穏やかであるが故に、いっそう強い非難として胸に響いた。

 ディーネはふっと自嘲が混ざった笑みを浮かべて顔を上げる。


「おかげで王都の近隣では公爵家に縁を得られたとしても、廃れゆくことがわかっているグラ家の威光より、一族が呪いを受けることを恐れて私を娶る物好きはいなくなっておりました」


 確かに最初こんな不相応な縁談なんてよほど貰い手に困るような問題がある姫なのだろうと思ったけれど。

 けれどまさか、まさか――呪いだなんて、誰が思う?


「……もう百年ほど昔、グラ家の当主――私の高祖父になります――が魔女との契約を破ったために、怒った魔女が一族を未来永劫苦しめるように様々な呪いをかけたのだそうです」

「じゃあなんで子供を産むことが責務なんだ? 子供を産まなければ生きていられるんだろう? 家のためなら養子でもなんでも、方法は……」


 救いを求めるような情けなさに声が掠れた。

 想いを馳せるように遠くを眺めていた視線が、いたわるように優しく私に向けられる。


「35年ほど前、グラの領地において日照りによる飢饉と疫病が蔓延して数千に及ぶ民の命が失われたのをご存じですか? こちらではあまり出回っておりませんが、王都のあたりではあれも私の祖父母が呪いに殉じることを拒んだために魔女が起こした災厄なのだと噂されておりまして、それもまた事実なのです」


 ディーネはアベルを抱きしめる腕に力を込めて、その背中に辛そうに歪んだ顔を埋めた。


「……日照りが始まった頃、祖母の父や親類、友人、側仕えのメイドや使用人たちが次々に原因不明の病気や事故に遭って亡くなったそうです」


 背筋に氷を滑らせたような悪寒が走った。


「私が20歳までに子供を産まなければ、魔女は私の大事なものを死んだ方がいいと思うまで奪い続けるのです」


 私はよほど酷い顔をしていたのか、ディーネは「私の夫であるうちはあなたに危害は及びませんからご安心くださいね」と言い添えた。


 ……義務。

 ディーネはことあるごとに義務だの責務だのと言い続けた。

 小さい頃からそれが責務だと言われ続けたので口癖になったと言った。


 それは、私が思っていたよりずっと重い意味があったのだという衝撃に、うまく頭が回らない。


「……幼い頃は、なにひとつ、誰一人を失っても全く動じずにいられるよう、世界中の全てを憎んで生きながらえようかと考えたこともありました。……けれど、無理でした。父やアベルを犠牲にして生き延びる苦痛に耐えられるとは思えませんし、私にそれほどの価値などありませんから」


 ディーネは気を取り直すように深呼吸をひとつしてから、言葉をなくしている私と目を合わせた。


「ですからあなたがいつまでも私に手をつけなければ、ここを去り再婚を考慮しなければなりませんでした。もうあまり時間に余裕がなくて、正直どうしようかと困っていましたけれど――でもようやく、肩の荷が降りました」


 苦笑いが安堵と寂しさが滲む笑みに変わっていき、ざわりと肌が粟立った。


「ディーネがそれで死ぬと知ってなお、子作りに励めって言うのか? そうしなければ離縁すると?」


 ふふ、とディーネは一瞬本当に嬉しそうに笑った。


「アレス様はお優しいから、このことを聞いたら心を痛めてくださるだろうなと思っていましたよ」


 けれども、それはすぐに、本を閉じるようにパタリと人形のほほえみに戻った。


「でも、無理をしていただかなくとももう結構ですからご安心ください」


 私は優しくなんかないし、無理するって、もう結構ですって、安心しろって、どういうことだ……?


 いいたいこと聞きたいことが山ほどあって、一度に全部が殺到して喉が詰まった。

 結局どれもまともに言葉にできないうちに、ディーネは目を伏せた。


「今、私がこうしてすらすらとこの話ができるということは――あなたがこの呪いの当事者になったという証です」

「呪いの、当事者……?」


 ざわ、と背筋が寒くなって、声が震えた。

 ディーネはおなかに手を添え、戸惑う私を作り損ねた笑みを添えてまっすぐに見上げた。


「はい。あなたの子供をここに身籠もったという証です」



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