混迷3
一瞬、私を詰るディーネが脳裏をよぎって、どんな恨み言が書き連ねられているだろうかと思うと受け取るのに覚悟を要した。
「今、ここで読め。お前は放っておくと読まずに捨てかねない」
兄が強引に押しつけたその便箋から、かすかに水仙の香りがした。
誕生日に贈ったあの香水の匂いだった。
ディーネは毎朝、噛み殺そうとして噛み殺しきれないほほえみを浮かべて、ほんの少しずつとても大事そうにそれをつけ、肺一杯にその香りを吸い込んで、とても幸せそうに笑っていた。
清浄な朝日を浴びてほほえむ彼女がそのまま空気に溶けていきそうに見えて、思わず抱きしめたことが何度あっただろうか。
あの時に戻って、抱きしめたいと思った。
心の底から間欠泉が吹き出すように唐突に激しく会いたいと願った。
あのまぶしいほどの笑顔を浮かべたディーネに、もう一度会いたい。
あの声が、聞きたい。
「アレス様」と私を呼ぶ可憐な声。
甘えん坊の子犬みたいに見上げてくる菫色の瞳。
遠慮がちで、控えめで、幻のように儚く消えてしまいそうなほどそっと寄り添ってくるディーネを、消えていかないように強く抱き寄せたい。
抱きしめて、いつものように穏やかに眠りにつきたい……。
「読まないのなら私の口からこの言葉を伝えてくれと頼まれている。だが、直接彼女の言葉を聞くべきだ。読め」
手の中に押し込まれた紙切れを握りしめ、思う。
この香水をつけてくれているなら、まだ私に怒りや憎しみ以外の気持ちを残してくれているだろうか。
本当に、仲直りができるだろうか。
やり直すことが、できるのだろうか………?
そんな願いを込めて、おそるおそる便箋を開く。
『先日の暴言の数々、本当に申し訳ありませんでした。許して欲しいとは申しません。アレス様がもう私に会いたくないのならば、私はグラに帰る覚悟です。父に戻る旨の一報を入れれば用意は整いますので、ラグナス様にその旨をお伝えください。』
愕然として、手に力が入らなかった。
恨み辛みを書き連ねられたほうがよほどマシだったかもしれない。
『もうお会いできない時のために、ここにしたためておきます。』
震える手に必死に力を込め、蜘蛛の糸に縋るような想いで続きに目を通す。
『あなたのそばで暮らすことができて、私は夢のように幸せでした。言葉にできないほど感謝しております。けれどその間アレス様には心労をおかけしていただろうかと思うと心苦しい限りです。
私がご迷惑をおかけした分まで、これからのアレス様が幸せでありますように、いつまでも祈っております。』
こんな……一片の恨みごとも言わず、他人行儀な挨拶を残してグラに帰るのか。
最後まで、何も言わないつもりなのか!
……最後まで?
…………これで、最後……なのだろうか…………。
……嫌だ。
会いたい。
もう一度、会いたい。
いますぐに走って会いに行きたい。
もう一度やりなおすことができるなら、罵られても詰られても構わない。
かさりと床に落ちた手紙を拾った兄が、返事を待っていた。
「悪いと思っているなら、帰って謝れ。このまま彼女が帰ってもいいのか?」
「………嫌だ。帰さない。ディーネは死ぬまで私のそばにいると言った……」
二度と手を離さないつもりだった。
ずっと抱きしめていたかった。
「お前が逃げ回っているんじゃないか。子供みたいな我が儘も大概にしないか!」
…………また、いなくなるのか。
(………………っ)
血が滲むほど拳を握って、踵を返した。
「…………まだ帰れない。どこにも行かずに待っててくれと伝えてくれ」
最低だ。
愛しいと思いながら、会いたいと思いながら、ディーネと妖精の区別がついていないではないか。
「アレス!!」
兄の説教が飛んできそうになって、走って逃げた。
どうしたらいいのだろう。
本当に会いたいと思っているのが、どっちなのかわからない。
こんな混乱の中でディーネに会って、これ以上傷つけたくなかった。




