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妖精の湖  作者: 葵生りん
1章
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新婚初夜2


「あぁ……そういえば――子犬を、連れていた?」

「覚えていてくださったのですか?」


 ぱぁっと周りが明るくなりそうなほどの輝く笑顔が咲いて、声が弾んだ。今度は美しいと言うより愛らしい笑顔だった。


「アベルもきっと喜びます!」


 アベルというのは彼女が故郷から連れてきた愛犬だ。

 純血ではないがゴールデンレトリバーの血が濃く、立つと姫の身長くらいある大きな犬。クリーム色の毛並みはよく手入れされてつやつやと立派で、今日は式典などのために彼女から離れていたが、主を見守る姿は凛々しく騎士の風情を漂わせていた。


 そう言えば子犬もクリーム色だった気がするが、いくら記憶を掘り返してみても、それ以上はなにひとつとして思い出せない。


「いや、おぼろげにそれを思い出すのが精一杯だが」


 姫の勢いに押されて気持ち身を引くと、今度はあからさまに肩を落とした。


「そう…ですか……。いえ、ご挨拶しただけですから無理もないことです」


 姫ははしゃぎすぎたと頬を染めて視線も床に落としたが、私は上の空だった。


 でも――では、あの夢は……?


 この姫君と、あの妖精の記憶が混同しているのだろうか。

 今まで会ったこと自体をすっかり忘れていたのに、この顔立ちを――しかも幼い頃ではなくて今の顔立ちを――月に何度も夢に見るなんて、あるだろうか?


 あれはただの夢なんかではないはずだ。

 散々嘲笑されたが、確かに5年前に妖精に会った。

 恋焦がれずにはいられないほど美しい妖精だった。

 しばらくは毎日のようにあの湖に通っていたが二度と会うことは叶わずさらに嘲笑の的になったが、それでも構わなかった。

 もう一度会うことができるなら、どんな犠牲も省みないと思っていた。


 さすがに湖に出向いて探すのは諦め、意に添わずとも家のために必要なら結婚も了承したけれど。


 もはやあのわずか数秒しか、数十メートル先から見た姿しか、記憶に残っていないけれど。


 けれども、ただの夢なんかじゃない。

 どれだけ記憶に留めようと努力しても、日々色褪せ、欠けていく焦燥と嘆きに苦しみ続けた5年の月日。


 それは決して、夢に浮かされたものではない。


 なのに、こんな偶然があるのだろうか?


 それとも、やはりあの妖精が今ここに……?


 暗い森に迷い込んだような不安と混乱に、冷静になろうと額に手を当てる。


「アレス様?」

「……なんでもない」


 小柄な姫君が下から心配そうに顔色を覗き込んでいることに気がついて、苦笑いで額から手を離す。


「顔色が優れません。お疲れなのではないのですか?」


 尚も心配そうに、私の頬に細い指が触れた。

 潤んだ瞳がくらりと酔いそうなほど麗しく、ほんの少し冷えた指先に触れられると心臓が飛び跳ねる。


「あなたこそ、体が弱いのなら早く休まれるべきだろう」


 動揺から、ついそっけなくその手を払ってしまう。


「あ……、はい。……ごめんなさい」


 払われたことで傷ついたのだろう、長いまつげが伏せられ、細い指が胸の前で組み合わされる。

 不安げに視線を泳がせ、ひとつしかないベッドに躊躇いがちに目を留め、それからほのかに頬を染めて再び目を伏せた。


「姫もお疲れでしょう。無理に今夜契らずとも……」


 新婚初夜だ。

 宴の主役ながら早々に部屋に下がることが許されるのは、本当の意味での夫婦の契りを交わすという仕事が残されているからに他ならない。

 だが、この純白の花嫁の緊張が痛いほど伝わってくる。


「……いえ」


 姫は胸の前に組んだ両手に力を込めてそう呟くと、まっすぐに私を見上げてきた。


「いいえ、夫の子を宿すことは、妻の務めです。まして故郷の皆はグラ家の跡取りを一日も早くと待っていますから」


 緊張した面持ちではあるが、その目は覚悟の上で結婚することを了承しているとはっきり告げていた。


「……務め、か」


 意に沿わぬ結婚など珍しくもないことだが、迷いから苦々しく呻いてしまう。


「あの、私、それほどアレス様のお気に召しませんでしたか?」


 おそるおそる見上げているアメジストの瞳が、泣き出しそうなほど潤んでいた。


 互いに政略結婚と割り切って決めた縁談のはずだ。

 覚悟の上で輿入れしているのに契りを求められなければ、よほど自分に問題があるのかと気に病むのも仕方ない。

 私とてどんな姫君だろうと務めと割り切り責務を果たすつもりだったのだ。この姫君の容姿を実際に見るまでは。


「いや……そうではなくて――」


 口に出しかけてかけて、ようやく気づいた。


 私は、彼女を気遣っているのではない。

 この姫君に触れて、あの妖精の思い出が壊れるのを恐れているだけだ。


「あなたのような美姫をもらいうけるなど夢のようで、信じがたくて」


 珍しく美辞麗句が自分の口からこぼれるのが照れくさくて、額に軽い口づけを落とす。途端、姫の頬が朱に染まった。


「こんな幸福な務めがあるものかと、不安になっただけです」


 かわいらしい姫君を腕の中に閉じこめると、小鳥のような速い鼓動と体温が伝わってくる。その愛らしさに、まんざらでもないと口元が綻ぶ。


 あの思い出に固執するのを、やめよう。



 レテ湖の妖精は見る者によって姿を変えると言われている。

 いずれにしても美しい女性で、一説には見る者の理想を映して現れるのではないかと。


 もしそうならば、彼女が妖精本人でもそうでなくても、これ以上の幸福はない。



 この切ないぬくもり、すべらかで柔らかい肌。

 5年も夢見て願い続けた瞬間が、今こうして現実の腕の中にあるのだから。



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