混迷2
あれから1週間、一度もディーネの顔を見ていない。
会わせる顔もかけるべき言葉も見つからずに、適当に理由をつけて部屋に戻らず、ディーネがいそうな場所に寄りつかず、あえて遠方に出かけなければならない仕事を引き受けて居城を離れ続けていた。
3日目あたりですれ違った兄が苦い顔で「喧嘩でもしたのか」と笑ったが、なにも答えなかった。
……答えられなかった。
今さら言っても仕方のないことだが、もし結婚式の日にあの妖精の記憶がはっきりしていたら、ディーネを見てあれほど混乱しなかったのではないかと、ふと思う。
引いては、こんな最悪の状態にならずに済んだのではないだろうか、と。
記憶がはっきりした今、冷静に比較するとディーネと妖精ははっきり別人と断言できる。
髪や目の色はまるで同じで顔立ちや雰囲気が似ているけれど、それは双子のように鏡写しのようにそっくり同じなわけではなくて、親子や姉妹のように似ているだけだった。
例えば目。ディーネは子犬のようにくるりとつぶらだが、妖精は切れ長の目尻が猫を思わせる。唇はディーネがぷっくりと肉厚でやわらかくて、妖精は薄くて品がいい。
しかも、そもそも見た目の年齢がかけ離れている。あの妖精は妖艶ささえ漂う妙齢の女性に見え、ディーネは実年齢より幼く少女に見えるのだから。
そうやって冷静になれば、いくらでも相違点を見つけられる。
なのに、なぜか今でも混乱してしまう。
今この瞬間も、ディーネの姿を脳裏に描いていたはずのに、いつの間にか思い浮かべていたのは妖精の姿だった。
なぜこれほど、あのふたりの姿が混和してしまうのだろう……。
どれだけ考えても、答えは砂か水を掴もうとしているかのように指の間をすりぬけていって、もどかしさと苛立ちだけが残った。
* * *
「なにを喧嘩したのか知らないが、いい加減にちゃんと話くらいしたらどうなんだ?」
ふらふらと逃げ続けてどのくらい経ったのか定かではないが、渋面の兄に掴まって尋問のような厳しい言葉をつきつけられた。
「喧嘩ならいったん頭を冷やす時間も必要かと思って最初は黙っていたが、いくらなんでも2週間も逃げ回るな。バカが」
……2週間、経っていたらしい。
あれ以来まともに眠れないせいか、頭にぼんやりと霞がかかったようだった。
腕枕というのは慣れないうちは腕が痺れて痛いが、一度慣れるとないと落ち着かなくなるものであるらしい。
この半年、眠る時にずっと腕の中にあったぬくもり、腕にかかる愛しい重み、光を弾く銀色の髪、よく涙の跡が残っていた寝顔、かすかな花の香り――それらがないという虚無感が落ち着かず、それが自分のせいだと思うと、胸が引き裂かれそうで。
ベッドに入っても一晩中ディーネの泣いている姿ばかりが浮かんだ。
嫁いできた日の夜。誕生日。毎晩のようにこっそりと泣いている小さな背中も、茶会のあとに縋って泣いた姿も、そして――私に裏切られ絶望し怒り狂って泣いた姿も。
私は、ディーネを泣かせてばかりだったと思った。
なのに、腕の中ですやすやと眠る顔を眺めながら眠りにつきたくてたまらなかった。
彼女とやり直すことができるなら今度は、もっとディーネが笑っていられるように努力しようと思った。そのために必要ならなんでもしてやりたいと思った。
けれど――多分、私はディーネを泣かせることしかできない……。
「彼女が今どんな状態か教えてやるから、お前ちょっと想像してみろ」
ふらりと逃げ足を踏みだそうとしたら、兄にがっしりと肩を掴み止められた。
「ずっと部屋に籠りきりで、なにか思い詰めた様子で、何を聞いても申し訳なさそうに笑って私が悪かったと言うんだ。私のせいなのにアレス様が部屋に戻れないのが忍びないと。アレス様は何も悪くないから責めないでほしい、出て行くなら私が出て行くからどうか帰ってきてほしいと――」
「ディーネが、悪かった……?」
訊き違いではないのかと思わず聞き返したら、話の腰を折られてむすっとした兄は大きく頷いた。
……ディーネは、いったい何が悪かったと自分を責めているのだろうか。どう考えても責めを負うべきは私で、一方的に私が悪いのに。
「………どうして、そんなこと………」
考えを巡らせているうちに、ふっとディーネは今まで誰にも、一度も、愚痴をこぼしたことがないのだと思った。
誰にも頼らず、ずっとひとりだった。
たったひとりで嫁いできて、夫の愚痴をこぼせるような親しい友人も家族もいなかった。
朗らかで人懐っこいけれど、どこかきっちりと線を引いていて、他人を立ち入らせようとはしなかった。
人懐っこいけれど、主以外には決して従わないアベルのように。
ディーネはずっと、友人も家族もいないこの地で、ただアベルだけを唯一の拠り所としていた。なにも言わず、ただアベルを抱きしめるだけだった。
ずっとひとりきりで、何も言わずに泣いていた。
ほとんど毎晩ディーネがこっそりと泣いているのを、知っていた。
寂しいのか、何か悩みがあるのか……どうして泣いているのかと、聞いていいのかわからなくて、いつか自分から話してくれるだろうかと思いながら、ずっと何もせずに見て見ぬ振りをしていた。
そのディーネがようやく、アベルではなく私に縋って泣いてくれた。
ようやく、ぽつりぽつりとずっと前から好きだったと言った。
大好きですと、恥ずかしそうに笑った。
――なのに。
なのに、私はその信頼を裏切ったのだ。
夫のくせに、いまだに体裁だけだ。
支えになってやれないだけではなく、逆に傷つけて、追い込んで――。
「……ディーネは、何も、悪くない。私が悪かったんだ……」
呻くように呟くと、兄は呆れ顔で手を離した。
「なら、早く帰って彼女にそう言ってやれ。互いに自分が悪かったと思っているなら、素直に謝れば仲直りできるはずだろう?」
兄に顔色を伺われ無言で視線を逸らしてしまうと、兄は再び眉をいからせた。
「意地を張らずに早く帰ってやれ。ただでさえ――」
何かをいいかけた兄は、口を開けたまま迷うような表情を見せ、一度口を閉ざした。
そして、ひとつ溜息をついた。
「……これを、彼女から預かった」
兄は、二つ折りにされただけの1枚の紙を差し出した。それは濡れて乾いたあとのように少しごわついた便箋だった。




