レテ湖の妖精
ディーネにいったい誰を抱いたのかと詰られた瞬間、唐突に脳裏に閃いた。
虹を溶かしたような美しい湖の畔で妖精に会ったあの日のことを、鮮烈に――。
自然の美しさだけがリベーテ家領地の唯一の資源だが、虹色に輝くレテ湖はそのなかでも格別で、昔からとても嫉妬深い水の妖精が棲んでいると言われていた。
妖精は見る者によって姿を変えるが、いずれにしても見惚れずにはいられない美貌の女の姿で、レテ湖で恋人達が逢瀬をしているとその姿を現して男を惑わせ仲違いをさせてみたり、恋人達の仲を引き裂く悪戯をしてみたり、魔法をかけたりするという。
普通なら妖精が棲む湖と銘打たれると観光資源として活用できそうなものだが、この湖はそれができずに常に閑散としていた。
なぜならその妖精は、悪戯と笑って済ませられないほど切実に、圧倒的な成功率と破壊力でレテ湖で逢瀬をした恋人や夫婦を不仲にさせるのだ。
しかしそれでも、私は実際に出会うまではただの御伽話だと思い続けていた。
逢瀬をしていると必ず妖精が出てくるわけではないし、そんなものは偶然不仲になった恋人たちがおとぎ話に理由をなすって騒いでいるだけに思えた。
だからあの日、リズが肝試しのノリでレテ湖に行こうと誘ってきても何の感慨も湧かず、ただ断るのが面倒臭かったから行くことにしたのだ。
「まぁ、綺麗……!」
「そうだな」
感動に目を輝かせたリズが同意を求めるように見上げてくるが、とっくに見飽きて感慨の湧かない私は苦笑いで相づちを打った。
とたんに彼女は頬を膨らませて詰め寄り、指先を私の口元にびしっと勢いよく突きつける。
「アレス様、ここは君のほうがキレイとかなにか気の利いたこと言うべきところです」
「そんなことを私に期待されても困る」
気のない返事にリズは脱力してへたっと肩を落とし力のない笑みを浮かべた。
家柄が近く親が親しく行き来しているから必然幼少の頃からよく顔を合わせていたリズは私がおよそそんなリップサービスなんかしないことくらい承知しているはずだ。
「……そうでしたね。では、せめて態度で示してください」
リズは控えめに一歩だけ歩み寄って胸の中に寄り添うと、今度は妖艶な笑みを見せ、誘うように自分の唇に細い指を滑らせてから目を伏せた。
「はいはい……」
おざなりに返事をして、誘われるままに、唇を重ねる。
彼女の両手が、私の後ろ頭を抱え込んで、唇が招き入れるように開かれる。腰に腕を回してから舌を差し入れると、彼女もまたそれに応えた。
どちらからともなく崩折れ、柔らかくて毛足の長い絨毯のような叢に転がり込む。
口づけたままドレスの上から胸元に両手を添える。途端、彼女は唇を逃れ、私の手を押しとどめるように自分の手を重ねた。
「んっ……アレス様……ここでは、人目が……」
口では拒否していても、私の頭を抱える両腕には逃すまいと力が籠もっている。
形だけの抵抗を面倒だから無視してドレスのボタンをはずし、露わになる白い肌に唇を滑らせる。
「態度で示せと言ったのは君だ」
私が彼女と付き合っているのは既に有名な話で、それも彼女が吹聴しているのだから、いまさら気にかけることでもない。
「でも――」
猪突猛進の彼女にしては珍しく、どこか迷いがあるように見えた。
「妖精か? 君に怖いものなどないと思っていたが、おとぎ話に怯えるようなかわいいところもあるんだな」
「怖いものなら、両親とか虫とかいくらでもありま……――」
珍しい表情をからかって笑うと、むくれてぷいと湖のほうをみた彼女の表情が唐突に青ざめた。
不思議に思ってその視線を追うと――そこに、湖面の上に、小鳥と戯れる妖精がいた。
「きゃぁあぁぁぁぁっ!!!」
絹を裂くような悲鳴を上げて逃げていくリズのことは、完全に意識の外だった。
一瞬で、その美しさに心を奪われていた。
光の下でキラキラと輝く朝日のように清浄な銀の光を纏う姿は、この世のものとは思えない凄絶な美貌だった。
妖精と戯れていた小鳥が私に気づき、飛び去った。
不思議そうに小鳥を見送った後、妖精が振り返る。
光を浴びて空気に溶けていきそうな銀色の髪が、さらさらと透けそうなほど白い肩を滑り落ちた。
菫色の澄んだ瞳が、嬉しそうに細められる。
ほのかに桃色に色づく唇の端が少しだけ持ち上げられ、鈴の音のような可憐な声音がこぼれ落ちる。
「――私と遊んでくれる?」
喉が凍り付いて、どんな言葉も出てこなかった。それどころか、座り込んだまま麻痺したように指一本動かすことすらできなかった。
妖精は音もなく湖面を歩いてくる。
純白の薄布は水に濡れ、肌に張り付くと肌の色が透けて見えた。
心臓が耳の中にあるのではないかと思うほど、自分の鼓動がうるさかった。
何も考えられず、ただ自分の鼓動の音を聞いていた。
妖精は体が触れあうような距離まで歩いてきて膝をつくと、上目遣いで優美に微笑む。
目が合うと、その神秘的なアメジストの瞳に宿る熱が伝染したかのように、全身が燃え上がりそうな気がした。
妖精の指先が軽く肩を押し、緑の絨毯に寝かされる。
ゆったりと覆い被さってくる妖精に組み敷かれ、ひんやりした指先が形を確かめるように頬を、唇を、なぞっていく。
肩からこぼれ落ちた銀色の髪がさらさらと私の体を撫でる。それだけのことに背筋がぞくぞくする。それが恐怖によるものか快感なのか、よく、わからない……。
「ねぇ、私……ひとりぼっちで淋しいの」
鈴の音のような声に、くらりと眩暈にも似た感覚がする。
私の頭を両腕で抱え込むので、白桃のようにかぐわしくやわらかな胸が顔に押し当てられる。ほのかに甘い香りと、柔らかさに、酔う。
「だから、あなたの愛を私にちょうだい?」
耳に触れるほど唇を寄せて囁かれ、甘く痺れるような感覚が全身を駆け巡る。
白く細い腕が頭の後ろから首筋をなぞり、腰のほうへと滑っていく。耳の中に舌先が入り込み、次に首筋に噛みつくような口づけを次々と落としていく。
ふと気がつくと、服が全部消えていた。
一瞬、その不可思議を不気味に思ったが、妖精がにこりと笑うとそんなことはどうでもいいと思い直した。
水のように冷たい手のひらがつつぅっと艶めかしく体をなぞる。
「………っ!」
さわさわとなぞるように触れられただけで意識が飛びそうだった。
「一生、私だけを愛してくれるって約束して?」
馬乗りになっていた妖精が甘い声でねだった。
妖艶さとあどけなさの同居する蠱惑的な妖精の微笑みに、無我夢中で約束すると叫んだ。
愛しているとも。
あとはもう――ただ快楽の渦に呑まれた。




