夢幻泡影6
高熱が出た時みたいに体が熱くて、悲しいわけでもないのに瞳が潤んで、意識はふわふわとたゆたう。
ふとアレス様が起きあがり、ぴりりと空気が緊張した気がした。彼が服を脱ぎ始め、緊張がじわじわと肌に染み込んでくる。
ぞくぞくするのは未知の感覚に対する恐怖だろうか。
それとも、もっと原始的な恐怖だろうか――
「……ディーネ、怖いか?」
アレス様は再びふわりと覆い被さってきて、耳の中に直接吹き込まれる声にびくりと身が竦んだ。
いいえ、と答えなければならないのに、すぐには声が出なかった。
「だ、大丈夫、です……っ」
喉を振り絞って震える声でなんとか答えると、シーツをきつく掴んでいる私の左手を、彼の大きな手が包み込んだ。
「そう、大丈夫だ。信じろ」
熱いほどの手の温度、体の重み。
耳にかかる熱い吐息と優しい声。
全部が、愛しいアレス様。
身も心も命そのものまですべてを委ねようと思った愛しい人が、大丈夫、信じろと――。
きゅぅんと胸が締め付けられる痛みに涙が滲みそうになった。
それを堪えてゆっくりと頷くと、爪先から旋毛までを貫かれるような感覚が駆け抜ける。全身が雷に打たれたみたいに痺れ、声にならない悲鳴が漏れる。
アレス様は浅く肩で息をしながら、頬をそっと撫でてくれる。それで自分が泣いていたことに気づく。
離れようとする彼の背中に腕を回して縋りつきながら、必死に首を振った。
「や、やめないでください……!」
全身が痺れるような、ひきつるような痛みに襲われ、苦しかった。だけど、もう二度と触れてくれなかったらと思うと、怖くて、怖くて――。
「どうか……」
痛みのせいか恐怖のせいか、涙が止まらない。
あぁ、どうしよう。
また困らせてしまう。
泣いたら、やめてしまうかも。
「やめ……ないで……」
そう思うのに、どうしても涙が止められなかった。
「……まさか、やめるなと泣かれるとは思わなかった」
穏やかな失笑が、降ってきた。
ゆっくりと優しく額に口づけを落としてから頭を抱え込むように抱き寄せて、囁く。
「あなたは最初の日、殺人者でも見るみたいに怯えた目で私を見ていたから」
「……私、そんなにひどい顔してました?」
ぎくりとして気持ちが引き締まる。
「あぁ、あれはひどい顔だったな」
彼は苦い含み笑いで耳元に顔を埋めた。
「ちゃんと睦み合えるだろうかと、ずっと心配だった」
「……ご、ごめんなさい……」
目の前に彼の胸板があって、ぴたりとくっついた耳から彼の心音が聞こえてきて、一気に心臓がばくばくと暴れ始めた。
顔が熱くなって、ふらふらしそうだった。そんな私の顔色を確認したアレスは少しだけ笑ってから、ついばむようなキスを再開した。
何度も繰り返されるくすぐったい感覚に、ほんわりと心の中があったかくなる。
肩を抱きよせる優しい腕に勇気づけられて、おそるおそるこちらからも唇を寄せ、彼の唇をついばんでみた。
彼は驚いて目を丸めたが、次の瞬間にはくすりと笑った。
「まるで夢の続きだな」
今度は優しいキスが雨のように降り注いだ。
唇から目、鼻、頬、額、耳、首筋、胸、手のひらや腕、髪にまで、思いつく限りの場所に次から次に落とされる口づけが、くすぐったくてもどかしい。
ぞくぞくするその感覚に意識が集中する。痺れるような心地よさに酔って力が入らない。次第に痛みは疼きのように変わり、彼は緩やかに動き始める。
宥められてそろそろと身を任せると、あとは雲の上に浮いているような、とろけそうな快感だった。
この瞬間が永遠に続けばいい。
この時間と引き替えられるなら、なにもかも捨てていい。
そんなことを思うほど、幸福な時間だった。
ふいに彼の手が頬を滑る。目が合うと朦朧とした意識が、彼の優しいほほえみでいっぱいになる。
穏やかに笑う声が、直後に張りつめた。
「――愛している」
耳元で真摯に囁かれた言葉は甘く切なく、すべてを溶かしていくようで。
「すまない。気恥ずかしくてこういう時でもないと口に出せなくて」
静かな謝罪が前の一言をより切に訴えて、胸にじんと響く。胸の奥がきゅうと締め付けられる。
「アレス様……私も……私も、愛しています……」
彼の背中に両腕を回し、力一杯に抱きしめる。
彼は味わうように目を閉じ、徐々に動きを速める。
溺れているかのように息苦しくて、言葉にならない。
助けを求めて彼の背中に縋りつく腕に力が籠もる。
性急な動きが唐突にぴたりと止まった。
本能的に終わりを悟り、息をのんだ――その、瞬間だった。
「愛しているよ、私の妖精。あの時よりずっと――」
ぞくり、と瞬時に背筋が凍った。
「―――い、」
何かが、弾けた。
「いやぁあぁぁあぁ……!!」
「いや! いやぁっ! 離して!離してくださいっ!!」
ただひたすら、嫌悪しか感じなかった。
逃げだそうとめいっぱい腕を突っぱって、めちゃくちゃに暴れた。
「……ディーネ……?」
困惑しながらアレス様が身体を離すと、激しい喪失感に襲われる。
幸せだったのに。
ついさっきまで、これで死んでも悔いがないと思っていたのに。
涙を堪えて逃げ出そうとすると、全身が痙攣するようにぎしぎしと悲鳴を上げ、よけいに涙が滲んだ。
滲む視界でなんとか服を捜し当てて掴んだ。
ベッドから降りて走って逃げたかった。
どこにも行くあてなんかないのに、ここにはいられない、いたくないと思った。
「ディーネ、どうしたんだ?」
しかしベッドから降りるより前に腕を掴まれ引き寄せられ、強引に顔を付き合わせられる。触られると吐き気がしそうだった。振り払いたかったが、力の差でかなわない。
「触らないでください!」
だからヒステリックな金切り声で叫んだ。
ただただ戸惑っている彼を怒りにまかせて睨みつける。
「あなたは――」
涙と怒りで声が震えた。
「あなたは、私の名前を呼びながら……愛していると言いながら――いったい、誰を抱いたのですか!」
彼は、はっとしたようにゆっくりと息をのみくだした。
比べるようなあの時なんて、ない。
彼の表情が困惑から驚愕にかわり、そして悔恨へと歪む。腕を掴んでいた手が、ゆるゆると離れていく。
「………すまない………」
静かな謝罪が胸に深く突き刺さり、よけいに惨めになる。
違う、とか。
誤解だ、とか。
嘘でも言ってくれたらよかったのに。
どんなに見え透いた白々しい嘘だったとしても、縋るように信じたのに。
否定してくれなかった。
私じゃなかったんだ。
彼が愛していると囁くのは、私じゃない誰かなんだ……。
そう思ったら、もう逃げる気力も怒る気力も削がれ、へたりと座り込んだ。
なにもかもが吐き気がするほど憎らしくて、ただもうひたすらに泣きじゃくることしかできなかった。
「どうして、こんなっ……ひどいことをなさったんです……?」
涙もこみ上げる悪態も、止めようがなかった。
彼は悔恨と憐憫を秘めた目を静かに伏せただけだった。
だって、最初から彼に想い人がいると聞いていた。
彼の心の中に誰かがいることを知っていた。
だから務めと割り切ってくれてもいい、一時の情欲でもいいと思っていた。想いの届かない人の代わりでもかまわないとすら覚悟して、それでもただ一時、短い余生の最後の時を彼の傍で過ごせたらそれだけでいいと思って嫁いできた。
なのに、彼は愛し合いたいと言った。
愛されていると信じ込ませてくれた。
幸せだった。
これまでの17年間で感じた幸福を一日に凝縮したような毎日だった。
なのに、それなのに――。
「偽りの愛を囁くならばどうして……せめて最後まで騙し通してくださらないのですか! それなら最初から責務だと言ってくれたほうが、よほど――……」
呼吸もままならない嗚咽に遮られ、それ以上言葉を継ぐことができなかった。
せいぜい十月の余命。
どんな白々しい嘘でも信じたのに。
なのに、なんでこのまま愛されていると信じることを許してくれなかったのだろう。
例え嘘でも、愛されていたかった。
愛し続けていたかった。
彼が私を殺しても、文句なんか言うつもりじゃなかった。こんなふうに詰り、恨み、憎むつもりなんか、なかったのに!
アレス様は泣いている私の肩に触れようとしたが、結局は拳を握ってそれを止めた。
そして無言のまま服を着ると、寝室を出ていった。
ぱたんと扉が閉まる音が静かに響いて静寂が訪れたら、惨めで寂しくて怖くて――もう、なにも考えたくなかった。
アベルにすら、会いたくなかった。
朝靄のように、幻のように、消えてしまいたかった。




