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妖精の湖  作者: 葵生りん
2章
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夢幻泡影5

 背中に添えられていた手のひらがぐっと強く押し当てられて、互いの体が密着する。


「……ディーネ、意味がわかって言っているか?」


 迷い、張りつめた声が、耳の中に直接吹き込まれるようで心臓が凍るようだった。思わず詰めてしまった息をゆっくりと吐き出しながら、改めて心を決める。


「………はい。初夜の続きを」


 気恥ずかしくて小さな声で返事をすると、ぴくりと彼の指が震えた。

 静寂が降りた――と、思った瞬間、唐突に唇を塞がれた。

 まるで飢えた狼に襲い掛かられたような錯覚がしてしまうほど激しいキスだった。



 この半年、ずっと軽く触れるような口づけしか交わさなかったことが、嘘のよう……。



 意識がふらりと歪むのは、呼気に含まれる強い酒気にあてられたのか、それとも息をつく隙も与えてくれない深い口づけのせいか、よく、わからない……。


 ふわふわとした心地を漂っていると、唐突にふわりと体が浮いた。


 膝の裏と背中に腕を回して抱き上げられていて、きょろりと見回す間に景色は流れる。向かうのは、当然――。


 怖々と見上げたアレス様の表情が張りつめていて、少し怖い。

 思わず縋るように探したアベルはアレス様の足下をついてきていたが、寝室への扉の前までくると立ち止まり、迷うようにウロウロと歩き回った。


 アベルの迷いは、私の迷いだ。


 ぎゅっと胸の前で拳を握り、アベルに「そこで待ってて」と目配せで指示する。

 耳と尻尾をしょぼんと垂れさせたのを誤魔化すようにその場に伏せるアベルの姿を、閉じゆく扉が遮る。

 続いてカチャリと静かに鍵のかかる音が落ちた。


 空気とともに身が引き締まる思いがして、ますます強く両手を握った。





 アレス様は私をベッドに運びおろすと、枕元のチェストの上に常備されている水差しとグラスを手にとり並々と注ぎ、一息に飲み干した。


 深呼吸のように肩を揺らして大きく息を吐くと、下ろされたまま動けないでいる私に再びキスが降ってくる。

 酒気が幾分和らぎ、ほのかにレモン水の味がした。


「……ディーネ……」


 彼は呻くように囁く。

 潤んでいるように見える熱視線に、心臓が飛び跳ねる。

 なにか言おうと思ったけれど全身にぞくぞくする感覚が駆けめぐってうまく言葉にならない。


 高熱に浮かされたような、あるいは夢でも見ているようなうっとりとした甘い掠れ声が、熱い吐息が、私の名前を呼んで肌をくすぐる。

 アレス様がかわいい、なんて、ぼんやりと思ってしまう。

 いつも澄まし顔で、淡々としていて、息を乱すなんて珍しいのに。

 彼が触れるたび、名前を呼んでくれるたびに、胸の奥ががじんわりと熱くなっていく。


「ようやく捕まえた……私の妖精……」


 うっとりとした声がじわじわと思考を痺れさせていくのを、気になる単語が引き留めた。


「………妖…精………って……?」

「うん? あなたのほかに誰がいる?」


 ものすごく当然のことのように聞き返され、返事に窮した。


「泣くたびに涙に溶けて消えていくんじゃないかと不安になるくらい儚げで、そのくせによく泣く困った妖精だ」


 彼の指が目元から頬に滑って包み込み、そらさないまっすぐな視線で射抜かれた。かぁっと顔だけではなく全身が熱くなると、彼は笑みをこぼした。


「……もう、逃がさない」


 胸の谷間に顔を沈め、両腕をしっかりと背中に回して息苦しいほど強く抱きしめられる。


「………アレス様………」


 なんだか迷子の子供のように必死だったから、星空みたいな髪の中に指を滑り込ませる。

 逃げるわけではないけれどそう遠くない将来に別れの時がくるのだと思うと、罪悪感がちくりちくりと胸を刺した。


「あなたが望んでくださるのなら、私は死ぬまであなたの傍にいます……」


 きゅっと彼の頭を抱え込み、本当にそう望んでくれるといいのだけど、と心の中で呟く。


「ディーネ……」


 彼は深みのある掠れ声で私の名前を呟くと、再び深く口づけを求めた。

 さっきまでの激情に任せた荒々しさではなく、ことさらゆっくりと。熱い吐息が絡み合い、頭に霞がかかったようにぼうっとしてくる。

 彼は気の済むまで何度も角度を変えては唇を合わせることを繰り返してから、ようやく解放するといたずらっぽく目を輝かせて笑った。


「あなたが人間か妖精か、確かめてみようか?」

「……確かめるって……、どう……やって……です?」


 唇は解放してもらえたけれども、彼の指が喉や首筋に滑るから心臓が暴れ狂っていて、切れ切れにしか声が出ない。


「うん、とりあえず耳が尖ってないかとか背中にはねがないかとか、確認してみようか?」

「ひゃぁっ!」


 耳の裏を舐めあげられ、背中に回された手が肩胛骨のあたりを艶めかしく撫で回し、嬌声をあげてしまう。


「かっ……からかわないでください!」


 くくっと小さく喉の奥で笑われて、必死に抗議の声を上げる。


 アレス様が妖精と呼ぶのは、口のうまい貴公子などが大事な人を私のお姫様とか子猫ちゃんとか呼ぶのと同じようなものだろうか?

 それは徹底して非社交的なアレス様のイメージとはかけ離れているけれど――。


「ディーネ……」


 その、掠れた声。

 その愛おしげな視線。

 指先まで行き渡る情熱。

 熱いほどの指が、私を気遣いながら頬に触れる感触。


「………愛してる」


 目眩を堪えるように目を閉じ、肩口で囁かれた言葉。



 そんな思考は、それらに溶かされて消えてしまった。




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