夢幻泡影4
幼かった私はある日、側付きのメイドに考えなしに「大好き」と言ってしまったのだ。
魔女は、グラ家の娘が出産に際して命を落とすように定めた。
祖父ダンケルと祖母アンネはその呪われた運命に抵抗し、子供を設けないよう心に決めた。だがそれは魔女の逆鱗に触れ、魔女はアンネが死んだ方がいいと思うまで大事にしているものを奪い続けると宣言し、近しい人々に突然の不幸が相次いだ。そしてそれはさらに領民にまで及び、犠牲者が実に千を数えたところで、耐えきれなくなったアンネは運命を受け入れることを決めたのだ。
お父様の膝の上で、何度もその話を聞かされていたというのに。
私が発するその言葉は執行日のわからない死刑宣告に等しいという自覚が、足りなかったのだ。
彼女の表情は一瞬凍りついた。
すぐさま笑って「ありがとうございます」と言ったけれども、その笑顔を見ていると、心の中にすうっと冷たいすきま風が入り込んでくるようだった。
そしてしばらく経った頃、彼女は他の屋敷へと移っていった。
泣いている私の背中をさするお父様は作り損ねた笑みで、「すまない」と繰り返した。
そう、思えばあれ以来一度も、お父様以外にはその言葉を口にしていない。
心のどこかで、またあんな表情をされることに怯えていたのだ。
ひんやりとした風が頬を撫でていく。
瘡蓋がぽろぽろと剥がれ落ちるような感覚がして、なんだか痒いようなくすぐったいような不思議な心地がした。
怯えなくても、アレス様はそんなことなどまったく知らないのに。
「ふふふ、紛らわしくて申し訳ありませんでした。ずっとそれが務めだと言われてきたものですから、つい勤めとか役目というのが口癖になってしまったみたいです」
義務。勤め。役目。運命。
それらは、私が生まれたその日から常に誰かが囁き続けてきた言葉達。
――ディーネ、私はお前に幸せになってもらいたい。だから自分の生き方を自分で決めなさい。
お父様はそう言ってくれたけれど、選択の余地など最初からなかった。
みんなが望んでいるように子供を産むことは責務だった。
お父様やアベルを、そしてアレス様やみんなを犠牲にして、ひとりで生きながらえる意味も価値も私にはない。
私の価値はただ、魔女の定めた運命に従うことで生まれる。
だから、誰でもいいから誰かに嫁ぎますと答えた。
そうか、と静かに笑ったお父様は私の傍らにいたアベルの頭を愛おしそうに撫でた。
――ディーネが本当に誰でもいいなんて思っているのなら、私はマリーに会わせる顔がないよ。
悲しげに、そう呟いた。
それから、アベルの首元を撫でながら苦笑を浮かべる。
――アベルをディーネにくれたのは、リベーテ家のアレス君だったね。
反射的に目を見開いてしまうと、お父様は口元を綻ばせた。
それから、ひたと真剣な目でまっすぐに私を見、いつもは穏やかで優しいお父様が別人のように見えた。
――ディーネ、どれだけ制約が多かろうとも自分の歩く道は自分で決めなさい。たとえ一本道でも、立ち止まり、迷うことがあっても、その道を歩くという意志、自分で選んだ道だという誇りを持ちなさい。
魔女に定められた運命。
お父様も私も、抗えるだけ抗ったつもりだ。
けれど、なにもできなかった。
そして、私は挫け、なにもかもを投げ出した。
夢は見るだけでいいと、諦めていた。
だけどお父様は、まだ諦めていなかった。
必死に抵抗しようとしていた。
「……私、5年前にアレス様が私にアベルをくださった時からずっとお慕い申し上げておりましたよ」
自分の言葉が、羽箒でふわふわくすぐられるみたいだった。
「一度会っただけなのにか?」
アレス様の返事に滲むのは嫌悪や恐怖ではなく、戸惑い。
それを思うとよけいにくすぐったさが増していく。
「あなたには忘れてしまうような些末なことでも、私には一秒たりとも忘れたくない大事な想い出です。あの日以来、私はあなたを想わない日がなかったほどですよ」
疑い深く見つめられても笑みがこぼれ、アレス様の表情はなおさら怪訝に曇る。そうするとさらに笑みを深めてしまう。
「一人娘だからってそこまで重責に思うように育ててきたくせに、こんな辺境の地方領主の次男なんかに嫁がせる意味がわからない。グラにいったいなんの利益があるんだ」
「意味、ですか? ――意味というか、私がそう望んだからです。私を妻に迎えていただくことがなによりの利益だったんです」
「こんな、取るに足らない家なのにか?」
「グラ家にとってなにより重要なのは私が子供を産むこと、お父様にとって重要なのは私が幸せであることです。お父様は私の願いをできる限り叶えようと心を砕き、せめて好きな人のもとへ嫁ぐよう取りはからってくださったのです」
――ディーネ、他のことはなにも考えなくていいから自分が一番幸せになれると思う道を選びなさい。いいかい? もう一度聞くよ。お前はこれからどのように生きていきたいんだい?
「私が、アレス様のもとへ行かせてくださいとお父様に願ったんです」
ずっと私の気持ちを待っていてくれたのだと思うと、心の奥底のほうからじんわりとあたたかいものがこみ上げてくる。
「……大好きですよ、アレス様」
ほんの少し前まで伝えるのが怖かったのに、不思議なものだ。
この湧き水のように絶え間なく溢れてくる想いをどう表現したらちゃんと伝えることができるだろうかと思った。
どんな言葉を尽くしても、この気持ちを伝えられそうにないのがもどかしかった。
目を剥いているアレス様と視線がぶつかると、気恥ずかしくなって胸の中に頬を寄せた。胸板が揺れているような気がするほど響く早鐘のような心音を感じて頬が緩んだ。
「あなたが叶わぬ恋に胸を焦がしていると聞いていましたので、片思いのままでもかまわないと思って嫁いできたんです。責務でも情欲でも、ほんの一時でも私を見ていただけたら、あなたのそばにいられたら、それだけでいいとさえ思っていました」
最初は本当にそれだけでいいと思っていた。
「だからアレス様が責務でなく愛し合うために抱きたいと言ってくださって、とても嬉しかったんです」
なのに彼の優しさに甘えて、いつの間にか片思いでは足りなくなっていた。
私を愛してほしいと、私だけを想っていてほしいと。
一日でも長く、こうして寄り添っていたいと。
「あなたが慈しんでくださることはとてもとても幸せで――あなたに愛されることができるなら、命すら惜しくないほどでした」
もう十分に幸せな時間を、宝物をもらった。
もう、他にはなにも望まない。
この魂が天に召されようと、地獄に堕ちようとも悔いはない。
だから、ただ一度でいい。
胸を灼くこの想いを伝え、そして彼の想いを確かめたい。
この呪われた命の、最後の思い出に。
「だから……私を――……」
声が震えそうになって、ぐっと息を呑む。
そして、決意を込め、願う。
「どうか、私をあなたの妻にしてください」




