夢幻泡影3
しん、と静寂が降りた。
暴れ続けている自分の心臓の音だけがやけにうるさく、送り出されて頭に上ったもののそこで迷子になった血が降りる道を探すのに精一杯で、うまく思考が巡らない。
愛している?
誰を?
私の妖精?
彼の妖精は、私ではないはずなのに。
なんだか私が妖精であるかのよう……。
期待に胸が踊る高揚感と不安に引き裂かれそうになっている思考を寄せ集めようとしていると、ふっと腕を掴んでいる力が緩んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げたアレス様は、胡乱な瞳を私に向けた。
その瞳に――それはまるで夜闇に朝日が射し込むように音もなく、しかし顕著に――光が戻り、同時に見開かれていく。
「……………………」
彼は口元を押さえながら、あちこちに視線を泳がせる。
まず私の顔から足下まで視線を走らせ、後ろで鋭い視線を送っているアベルを一瞥し、室内の様子にもさっと目を配り、そしておよその状況を把握したようだ。
「すまなかった。飲み過ぎて醜態を晒すとは……」
居心地悪そうに身を引きながらぽつりと謝罪する顔色は酒気とは別に赤みが強くなり、気まずい沈黙が降りてくる。
「………はい。あ、いえ。……いいえ、あの………」
なんと言えばいいのかわからずに、心臓が胸を突き破って出てくるのではと思うほどに激しく早鐘を打ち、蒸気を吹きそうなほど全身が熱く、吃ってしまう。
「……あの、………ようせ……い…って……」
あなたは誰を“妖精”と呼ぶのですか?
手離したくない、愛していると、そんな言葉を与えられる人は、誰――?
背中を向けてしまった彼には聞き取れないほど口の中でもごもごしていると、深い溜息が聞こえた。
「寝言を真に受けるなよ」
ぐさりと氷のナイフを刺されたような気分がして、暴れ回っていた心臓がぴたりと動きを止めた。
「………………はい」
私は、なにを舞い上がっているのだろう。
このまま帰ろうと決意したばかりだというのに。
ゆるゆると染み渡っていく冷めた想いが、喉をきゅうっと絞めつけるようだった。
「ご……めん、なさい……っ、ごめんなさい……っ」
堪えようとしたのに、堪えきれず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていった。
「私は、なにもできないまま、なにもしないまま……っ」
いつのまにか、お父様と、グラ家の領土に住まう人々に対する気持ちも混ざり込んでいた。
どんな犠牲を払っても幸せになってくれと言ってくれたお父様。
呪いに巻き込まれて死ぬことを恐れ、怯えて暮らすメイドや庭師達。
そのどちらの願いも叶えられず、私の身勝手でアレス様にも迷惑をかけただけで帰るのだという申し訳なさと、不甲斐ない自分への憤りも、後悔も。
「…………ディーネ、なんで泣くんだ?」
アレス様が困っている。
撫でていいのかどうか迷う手があてもなく宙をさまよっている。なのに、涙が止まらない。
「なにひとつとして、役目を、果たせなくて……っ」
「……また、役目か」
苦々しい溜息と呟きが床に落ちた。
「どうしてそう役目に拘って自分の気持ちを蔑ろにするのか理解に苦しむ。泣くほど嫌ならばそう言ってくれた方がいっそ――」
再び背中を向けた彼の言葉は、そこで途切れた。
「…………え? なぜ、私がアレス様を嫌いだなんていう話になるんです?」
「義務感で無理に繕わずともいい」
「無理に、繕う……??」
なんだか話が噛み合っていないという違和感の方が涙に勝り、アレス様も怪訝そうに振り返った。
(…………あ。)
目が合った瞬間に、気づいた。
愛し合うというのは、一方通行ではないということに。
――愛しているんだ。どれほど身勝手だと蔑まれても、嫌われていても、それでもそばにいてほしいと思うほどに。
一度も「愛してる」という言葉をくれないなんて思っていたけれど、私だって彼の寝顔にしか「好き」と告げていなかったことに。




