夢幻泡影2
騎士然として座って待っているアベルに続いて、疲労の蓄積された重い体を引きずるようにして降りる。アベルが気遣わしげな目をしているのを見たら重い鎖のような疲労が軽くなったような気がしてつい笑みをこぼしてしまいながら、アベルを促して寝室から居室に続く扉を開けた。
開けた途端、暗闇の中に漂う酒気にむせそうになり、その場に足を止めて袖口で口元を覆った。匂いだけで酔いそうな気がするほどの濃い酒気が絹の目地を浸食して鼻を突き、疲れも相俟ってめまいがした。
めまいを堪えて踏みとどまっている間に、アベルは器用に解錠して窓を開け放ち、カーテンを引いた。ひんやりとした新鮮な風がむっとするほどの酒気を幾分拭い去ってくれたので、気を取り直して顔を上げ、アベルをねぎらって撫でた。
それから暗闇に目をこらそうとするとちょうど雲が切れたのか月明かりが強くなり、窓辺に据えられたテーブルセットを刺すようにくっきりと照らし出す。
その上に置かれている深緑のブランデーのボトルは空だった。
再び月が翳り、ボトルはひっそりと暗闇に同化しようとし、ほんの少し底に飲みさしのブランデーが残ったチューリップのような形のグラスは僅かな月明かりを弾いて鋭利な光を放った。
「…………?」
思わず首を捻る。
アレス様はこれまで婚儀の祝宴の時を除いてほとんどアルコールの類を口にしてこなかった。晩餐会などに呼ばれた時などは相手が誰であろうとほんの一杯を拒絶し「失礼だ」とラグナス様に叱られていたけれど、どこ吹く風といった様子だったのだ。
婚儀の祝宴の様子を思い起こす限り下戸ではないようだし、ほんの時々ワインをグラス1杯程度、寝酒に嗜むことはあった。
ある夜にお酌をしながら飲まない理由を尋ねたら彼はすっと目を背け、酔う感覚が好きではないし、ましてや他人に酔った姿を晒すのが嫌だとぽそりと呟いた。
――だというのに、この状況は尋常ではない。
氷も水も用意していないところを見るとストレートのようだし、室内に漂っていた酒気は寝酒の範疇ではないのだから。
くいっ、と困った顔をしたアベルに袖を引かれて物思いから我に返ると、寝室の扉近くに据えられたふたりがけのソファの上に転がっている人影が見え、ますます首を捻る。
「………アレス様?」
歩み寄ってみると、やはりソファに寝ているのはアレス様だった。
このソファは寝室に入れてもらえないアベルのベッドとしてここに据えられたものだ。私はここに座って膝にアベルを乗せブラッシングをしてあげるのが毎朝の日課だけれど、いつものアレス様なら絶対に座ったりはしない。
けれど、ここにアレス様が寝ているからと言って、アベルが許しもなく勝手に寝室に入ってくるとも考えられない。
(……まさか私が二の足を踏んでいるせいで業を煮やした魔女が警告代わりにアレス様とアベルを入れ替える魔法をかけたとか?)
一瞬そんなことも真剣に考えたけれど、おそらくそれはない。
お父様の話を聞く限りでは魔女は狡猾で、グラ一族を苦めることを心から楽しむ残忍さを併せ持つ。そんな魔女ならばもっと残酷な魔法をかけてきそうなものだった。
それにアベルはいつも通りによく気の利く騎士だし、何度かイグニス様がふざけてお酒の類を与えてみようとした時のアベルの反応と言えば「姫の警備を怠るわけには参りません」とでもいいたげに頑として一滴も口にしなかった。
そうなるとやはり、私が泣いてばかりいたから慰めにアベルに一緒に休む許可をくれたうえに、昼間の一件の苛立ちから常にない深酒をして正体なくここでお休みになってしまった……ということだろうか?
そう思うと申し訳なさで胸がいっぱいで、息が詰まりそうだった。
(……せめて、きちんとベッドで休んでいただかなければ)
なんとか呼吸ができるほど気を鎮めてから、そう思った。
元々妻としてなにもせず居候のようなものだったのだから、一緒に眠るのが嫌ならば私やアベルがソファに寝るべきだ。ベッドもアベルが寝ていたからアレス様に言わせれば不衛生と言われかねないけれど、このソファよりはいいはず。
「アレス様、こんなところでお休みになられていたら風邪を召されますよ」
屈みこんで肩に手をおいて、声をかける。
起こすのは忍びないけれど、アベルの助けを借りたとしても私の膂力では引きずってしまうので起こすしかなかった。
「アレス様、アレス様!」
「……ぅ……ん……」
何度も声をかけ、肩を叩き、揺すってみてようやく、アレス様は呻いた。
「きちんとベッドでお休みに――」
「………………ディーネ、」
少しほっと胸をおろした瞬間に、薄くサファイアのような瞳が覗いて、痛むほど強く腕を捕まれた。
「………グラに、帰りたいか………?」
「え………?」
心を読まれたようで思わず息をのみ、瞠目してしまった。
途端、見開かれた瞳の色が変わったように見え、身が竦んだ。強い力で腕を引かれ、よろめいてソファに寄りかかると、アレス様は覆い被さるようにして逃げ場を絶つ。
アレス様の腕の向こう側にちらりと見えるアベルは唸りこそしていないが、耳をピンと立てて警戒心を露わにしている。私が僅かでも悲鳴を漏らせば、アレス様に飛びかかりそうだ。
目を合わせて「だめ」と心の中で呟くと、アベルは迷う気配を漂わせたが警戒は解いてくれない。
(……アベル、お願いだから……)
アベルがアレス様に飛びかかったりしないよう、必死に目で訴える。と、掴まれた腕にじわりと痛みが走った。
「……あなたはいつもそうやって私にはなにも言わず、毎晩ひとりで泣いて、頼りにするのはアベルだけだな」
ぴんと張りつめた糸が震えるような緊張感が、漂った。
「…………帰ることは、許さない」
足を踏み換え少し体を引き、いつでも飛びかかれる体勢を整えたアベルが、ぴくりと動きを止めた。
「あなたが毎晩泣いていても……それでも……手放したくないんだ………」
どっ、とハンマーで殴られたように心臓が強く波打った。
崩れ落ちるように私の首筋に額をつけたアレス様は、泣くのを堪えているように見えた。
「………すまない………私は、あなたが幸せならば帰ってもいいと言えるほど、寛容ではなくて…………」
気持ち悪くなりそうなほどに心臓はバクバクと暴れ続けていて。
「―――愛しているんだ」
「…………は…ぃ………?」
我が耳を疑った。
アレス様は首元から顔を上げることなく、苦しげに呻いた。
「どれほど身勝手だと蔑まれても、嫌われていても、それでもそばにいてほしいと願ってしまうほどに」
暴れ続ける心臓の音に邪魔されるほど小さな甘い囁きを聞きながら、今度は自分の正気を疑った。
ブランデーのとろけるように甘い香りとともに囁かれたこの言葉は、未練がましい願望が見せる夢ではないのだろうか。
だって現に、濃い酒気にあてられたのか、くらりと酔うような感覚がする。
でも、掴まれた腕が、じんじんと痛い。
「………私の妖精は、どうしたら、泣かずに、消えずに、この腕の中にいてくれるんだろうな?」
憤りと苦しみとが混ざった自問が、薄闇の静寂に溶けて消えた。




