夢幻泡影1
ぼんやりと目が覚めると、すっかり体がなじんだふかふかのベッドに包まれていた。
けれども、枕はいつもの腕枕ではない。
日溜まりの匂い。柔らかくてあたたかい毛皮が頬を撫で、とくとくと穏やかな鼓動が聞こえる。それから、すぴすぴという小さな寝息も。
「………?」
霞がかかったような意識を揺り動かし、目をこすりながら身を起こす。
部屋は薄暗いが、間違いなくリベーテ家の寝室のベッドの上だ。けれど、一緒に寝ているのはアレス様ではなくアベルだった。
「………………?」
アレス様はアベルをベッドに上げることは嫌がっていらしたのに、どうしてアベルがここで寝ているのかしら?
あぁ、そういえば、アレス様がヴィルメール伯の別邸で開かれる会議のために出張して不在にする間だけは許可してくれたのだった。
……いや。
いや、違う。
一緒に行くことになったから、その許可は白紙になった。
一緒に出かけて、それで―――
「…………っ」
記憶が蘇ってくると、一緒に涙と吐き気も蘇ってくる。
「……くぅん?」
口元を覆って嗚咽を堪えようとした瞬間、耳元に心配そうなアベルの声がした。
「…………ア……ベル………アベル……っ」
今度こそそばにいてくれたアベルが首を傾げ、つぶらな瞳でじっと見つめてくる。目が合った瞬間に崩れ落ちるように縋ると、喉がひきつった。堰を切った涙が止めようもなく溢れ、こぼれていった。
アベルはただ静かに心配そうな視線を送り、そっと体を寄せていた。
体調を理由にヴィルメール伯の別邸をあのまま辞して、夜を徹して馬車を走らせてリベーテ家の居城に戻ってきたのだ。
先触れの伝令を走らせたものの、私たちを乗せた馬車もかなり急がせたので、さして迎える準備はできなかったはずだ。予定外に重ねての深夜の帰着にみんなが右往左往している中で、アベルは馬車の扉が開くなり待ちきれないとばかりに飛び込んできた。
ふわふわの尻尾を千切れんばかりに盛大に振りながら私の顔を何度か舐めたかと思うと、ふっと尻尾を止めてつぶらな瞳で心配そうに見上げてきた。「アベル」とそっと呼びながらそのあたたかな耳の後ろに顔を埋め、この日溜まりの匂いを感じた途端、ずっと張りつめていた糸がぷつりと切れ――その後の記憶がない。
ネグリジェに着替えが済まされているが、その記憶も全くない。おそらくはメイド達の手によるものだろうが、それほど深く眠っていたのだろう。
どれだけ泣いたのか、よくわからない。
アベルは最後の涙を振り絞るように流した私の頬を舐め、鼻先をつんと合わせた。
「……ありがとう、アベル」
不思議だった。
アベルの温もりに触れていると、自然と笑みがこぼれる。
どれだけひとりで泣いてもアレス様の腕の中で泣いても、治まらなかった胸の悪さと痛み。それが今は涙に溶けて洗い流されたようだった。
「……ねぇアベル……」
決意を口に出そうとした瞬間、凪いでいた胸中に強風が吹いたように細波立った。
胸の震えを堪えてアベルを抱きしめると、静かに決意が浮かび上がってくる。
「………帰りましょうか?」
アベルがいてくれれば、もう十分。
これ以上を望み、あの人を呪いに巻き込まないためにも。
アベルは理解できない言葉を聞いたように「きゅぅん?」と首を傾げた。
「いいのよ、もう十分に幸せな時間をもらったから」
首元のひときわ柔らかくて暖かい毛並みを撫でていると、静かに決意が固まっていく。
「……もう、いいの。もう……」
ほのかに自分の体から香る水仙の香水を感じ、キリキリと胸を絞られるようで、アベルを抱きしめる腕に力が籠もる。
あの人は、こんなままごと遊びに半年もつき合ってくれた。
想像していなかったほど優しくしてくれた。
……幸せだった。
それはまるで夢幻のように。
だからせめて、余命はあの人が幸せであるように祈ろう。
お父様に迎えにきてもらい、離縁を申し出る。再嫁の先を探して――。
アベルのぬくもりに励まされながら、しとしとと降る雨に打たれる土のようにゆっくり静かにこれからの身の振り方を固めていく。
そしてその時になってようやく、アレス様はいったい今どこにいらっしゃるのだろうかという疑問が湧いた。
「アベル、アレス様がどこにいらっしゃるか知ってる?」
アベルは一瞬顔を歪めたが、次の瞬間には何事もなかったかのようにむくりと起きあがり、ひらりと軽快にベッドから飛び降りた。




