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妖精の湖  作者: 葵生りん
2章
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黄昏4



「……でも、」


 ふっと心の奥底でなにかが囁くような声がして、再び後ろ暗い思いで呟いた。


「でも私……妻の務めを、果たしていません……」


 子を成すわけでもなく、お茶会の席で満足に友好関係を結ぶでもなく、彼の仕事の邪魔になっているだけ。

 なにひとつしていなくて、ただ毎日彼のそばにいられる幸福に甘えてばかりいる。

 このままでは、いけないのに――。


「そんな顔をするのなら、手っ取り早く妻の務めを果たしたいか?」

「……え?」


 鋭く、そして、ずしりと重みのある問いだった。

 困惑するうちに、再び不機嫌に顔をしかめた彼の腕に力が籠もった。肩を押されて倒れ込むとベッドに両肩をきつく縫いつけられ、息をのんだ。


「あなたは二言目には務めだの責務だのと言うが、それでいいんだな?」


 竦むほど真剣な視線に、本能的に逃げ出したくなった。けれど、彼はずしりと重くのしかかってきて、鋭い視線に射竦められて、身動きがとれなかった。


「………っ」


 じわりと涙が滲みそうになって、息を詰めた。


(あの日、愛し合って抱きたいと言ってやめてしまったのに、今さらなんでそんなことを聞くのですか?)


 そんな問いが喉の奥でしこりのようにつっかえている。


(今さら、責務でいいかなんて……やっぱり、あの人を想い続けていらっしゃるんですか?)


 必死に浅い呼吸を繰り返してはいるけれども、ぐるぐると渦巻く黒い感情に溺れそうだった。


 不機嫌に眉を寄せて返事を待つ彼の表情は、私の思い上がりを、勘違いを、責めているように見えた。直視するのが怖くて、横を向いてぎゅっと目を瞑る。


「それでもいいなら、お誂え向きにベッドの上だ。今からでも、私は構わない」


 それはとても、冷え冷えした声音だった。


 それでもいいと言わなければならないと思いながら、ぎゅっと唇を噛んだ。

 そのほうが、私を愛してなんかいないほうが、いい。

 情が移れば、それだけ深く傷つく。

 もう、それほど多くの時間が残されているわけではない。

 故郷では既に気を揉んでいる人が大勢いるだろう。


 そうやっていくつもの理由を並べ立てて自分を叱咤するのに、どうしても答えることができなかった。


 夢を、見せてほしかった。

 一夜の夢でもかまわないから、ただ一言愛していると囁いてほしい。

 もしその言葉をくれるなら、もう、死んでも後悔はしない――。




 ふっと彼の刺々しい空気が和らいだかと思うと、いつもみたいに腕枕で抱き寄せられた。


「――すまない。泣かせるつもりじゃなかったんだ」


 そう言われてはじめて、ぽろぽろと涙がこぼれていたことを悟った。

 彼はすまなさそうな微笑を浮かべて背中をさすってくれたけれど、とても、傷ついているように見えた。

 その微笑をみた瞬間に、押しつぶされた紙風船みたいにぷしゅんと、力が抜けてしまった。


(――あぁ、もう、だめ……)


 これ以上、ここに、彼のそばにいてはいけない。

 きっともう、呪いを知ろうが知るまいが、どう足掻いても、傷つけずに、悲しませずには、済まない。


 呪いを知ったら、彼は、どうするだろうかとぼんやり考えた。

 お祖父様のようにすべてを拒絶し、憎むのだろうか。

 お父様のように痛みすら許諾し、包み込んでくれるだろうか。


 今まで何度も、そんなことを考えた。

 考えるたびに背筋が寒くて、知ってもらわらければという思考に反して、いつまでも知らないでいてくれることにほっとしてもいた。

 お父様に助けを求めればいつでも噂を耳に入れる程度のことはできたのに、それをしないで、幸福な時間に甘え続けてきた。


 お父様は癒えない傷の痛みに、いつもお母様を思い出す。

 同じように深く傷ついて、そして、私を思いだしてくれるだろうか。

 私が生きていた証として、彼の心に消えない傷を残すことができるのなら、その報いに地獄に行こうとも後悔は――。



 そんな黒い考えがふっと浮かんで消えていき、罪悪感だけが胸中にわだかまりを残した。



 なにも言えないでいるうちに、アレス様はふっと目をそらした。

 それからゆっくり手を離して起きあがると、静かに消えゆく黄昏をみつめた。


「……リズのことは、若気の至りだった」


 ぽつりと、黄昏とともに消えていきそうな掠れた声で呟いた。


「後悔、している。だから、あなたは大事にしたい」


(………大事、に………)


 胸がじんと熱く震えて、言葉が出なかった。


 だけど、さっき突き放されたばかりだ。

 あれだけ突き放されて、それでもまだ愛されているかもと一縷の望みに縋ろうとしてしまう自分の愚かさに、涙が溢れそうになる。


(大事にというのは、どういう存在としてですか……?)


 そんな問いが喉元までせりあがってきたけれど、口にはのぼりきらなかった。

 妹、あるいは動物を愛でるようにと言われたら、もう、どうしていいのかわからない。


(…………アベル…………)


 唐突に、あの無言の騎士が恋しくてたまらなくなった。

 ほんの2日傍にいないだけでこんなに寂しいのに、あの子を犠牲にして私が生き延びるなんてできるわけがない。


(……もう、帰らなければ)


 胸の奥に、ひっそりと決意を秘める。

 これ以上、彼をこの呪いに巻き込んでは、いけない。


「予定を早めて今から帰るか? きっとアベルもきっと淋しがっている」


 心を読んだようにそっと頭に乗せられた大きな手が、あたたかかった。


 アベルがいない寂しさに耐えきれず、結局気がつくと彼の胸の中で泣いていた。

 彼は困った顔のままで、ただ泣いている幼子をあやすように、頭を撫で続けてくれた。




(……私が、一番幸せだと思う道――)


 泣き疲れた頃になって、父の願いがふわりと心に浮かんだ。


(お父様、私、もう十分幸せになりました。きっと、お母様よりもずっと……)


 心の中でそっと父に報告する。


 これ以上欲張れば、ずるずると不幸になっていくだけ。

 どんな道を選んでも多少の回り道になるだけで、行き着く先は同じ。



 だからもう、もう覚悟を決めよう。



 帰ろう、グラへ。

 この半年の一生分でもあまりある幸福な思い出と、アベルを連れて。


 そして呪われた運命に、おとなしくこの身を委ねよう。



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