新婚初夜1
一生分をまとめて気疲れしたような一日だった。
その疲れをわずかなりとも湯浴みで洗い流して部屋に戻ると、明かりもつけないまま寝室の窓際に堅い表情で所在無げに佇む姫君の姿があった。
純白のシルク地に同じ純白の糸で花柄の刺繍が施されたすらりとしたシルエットのネグリジェが、夜風を孕んでふわりと揺れては月明かりをてらりと反射する。
開いた胸ぐりには繊細なレースがあしらわれ、胸元で青いサテン地のリボンで押せられている。胸の下から腰までは純白のリボンがコルセットのように豊かな胸と細い腰を強調し、襟と同じくレースがあしらわれた裾はカラーの花のように前は膝を覆うほどの丈、踵に向かうにつれて足下へと延びていく。
清楚な風情だが、胸元のリボンを引けば果実のような胸が、ベッドに横になり膝を立てれば白い腿が容易に露わになるよう意図されたそのネグリジェは、これから新婚初夜を迎える姫君にこれ以上ないほど似合っている――のだが。
「……姫?」
戸惑いから遠慮がちに声をかけると、月明かりを受けてほのかに輝く銀色の髪が揺れて、菫色の瞳が私を映した。
物憂げな表情ですら息を呑むほど美しくて、思わず感嘆の息が漏れそうになる。
「姫だなんて。ディーネとお呼びください。グラ家が王家に縁を結んだのは百年も昔ですし。それに……今日からアレス様の妻ですから」
堅さを残しつつも少し照れたように口元にほのかな笑みをたたえ、首を傾げて子猫のようにあどけなく見上げる所作はまた一段と優美で可憐で、見る者を魅了する。
だがその魅惑の容姿にさらなる戸惑いが生まれ、重い溜息をついて窓の外へと顔を背けた。
開け放たれた窓の外からは宴の喧噪が遠く聞こえる。
主役が引いても宴の勢いはまだ盛んな様子だ。
「今日初めて顔を合わせた、な」
所詮、政略結婚だ。
父にお前もいい加減に夢を見るのはやめて身を固めてはどうかと意向を尋ねられたのは一月ほど前だっただろうか。
いつまでも妖精なんて報われないものを想うのは諦めて現実を見ろとか、この話がどれほどの良縁かとか、当家のおかれている現状とか、そういう話を延々と聞かされるのにうんざりしたから了承したのだ。父はそのまま喜々として相手のことを説明したが、どうでもよくて適当に相づちを打ちながら聞き流した結果――晴れて今朝の初顔合わせから結婚式、披露宴と滞りなく進行して現在に至る。
しかしながら彼女は王都近くに豊かな領地を持ち、かつて王家とも縁のあった栄光あるグラ公爵家の一人娘だ。
こんな辺境の地を細々と治めているリベーテ子爵家とは格が――爵位には公・候・伯・子・男の五等爵があって、公爵家と子爵家は字義のとおりに格の隔たりがある――違う。
それなのに、そのリベーテ家の次男に嫁いでくるとは――生まれた子供はグラの跡取りに引き取ると条件がついてはいるものの、一人娘を嫁がせてしまうとは――よほど貰い手に困るような容姿か性格か素行、品格……なにかしらの問題がある姫君だろうと高をくくっていたのだ。
だから今朝、純白のドレスに身を包んだこの姫君の容姿を初めて見た時には驚愕と困惑でしばらくかけるべき言葉を探す羽目になった。
かつて心を奪われた妖精によく似た美姫だった。
しかも、婚礼の議に祝賀会と一日中慌ただしくてゆっくり言葉を交わすのも今ようやくという有様だが素行や言動にも性格にも問題があるようには思えなくて、なおさら困惑するばかりだ。
「やはりお忘れなのですね。以前、ご挨拶申し上げたことがございます」
彼女は苦笑いで肩を落とし、わずかに床に視線を泳がせた。
「――いつ?」
どくんと一際高く胸が波打ち、動揺に声が震えそうになった。
姫はかすかに申し訳なさそうな笑みをうかべる。
「実を申し上げますと、私……体が弱いのです」
実はいう前置きだったが、それは彼女の儚げな印象にあまりにも似合いだったのでさしたる感慨を引き起こさなかった。
故に、「あ、別に伝染するような病気は持っておりませんので」と彼女が慌てて弁明を加えても「それで?」と至極そっけのない相づちを打った。
それより、質問の答えが欲しいと焦れた。
姫のほほえみは一瞬だけ寂しげに曇ったが、すぐに気を取り直し、あどけなさの残る美貌にほほえみを乗せた。
「このあたりは空気も水も景色も美しくて療養に向くのではとうかがいましたので、5年前にレテ湖畔の別荘に3ヶ月ほど滞在させていただきました。その際にリベーテ家のみなさまにご挨拶申し上げたのですけれど」
――5年前。レテ湖畔。
その言葉達に、心臓が跳ねた。
では、あの妖精は……と思わず言いかけて、言葉を呑む。
……いや、ない。
この姫君があの妖精のはずがない。
当時彼女は12歳のはずだ。
5年も前に今の彼女と似た容姿のはずが――いや、妖精なら年の取り方が人とは違うかもしれない。
しかし名家の姫君の出自がそんなに簡単に誤魔化せるものでも……。
思考を巡らせているうちにふと、子犬を抱いた銀髪の幼い姫君の姿がおぼろげに脳裏に浮かんだ。