黄昏3
「あなたは何も言わないくせによく泣くから、困る」
耳元に失笑を落とされ、はたと涙が止まった。
彼の前で泣いたのは嫁いできた夜と誕生日の時くらいだったはずだけれど。
程度の問題?
それとも、夜毎泣いていたことを気づかれているのだろうか。
その理由を聞かれたらと思うと、ばくばくと心臓が暴れ始める。
「泣くなら泣くで愚痴を言うなりしてくれないと、どうしたらいいのかわからない」
優しく背中を撫でてくれるぬくもりがじんと心に染みた。けれど、次の瞬間には凍りつく。
「私に言えないようなことをされたのか? 事と次第では断固抗議してくるが」
「や……やめてください!」
彼の言葉はひやりとするほど鋭く、慌てて首を振った。
実家が公爵であっても嫁家リベーテは子爵、ランドハイアは侯爵だ。元より謝罪してくれただけでもありがたい。まして頭を下げる相手が愛妻の元恋人ともなれば、いかに温厚なイグニス様でも心中穏やかではなかったはずだ。それでも、幼い頃から気にかけてくれてもいたから、倒れたと聞けばきっと心から私のことを憂いて謝罪してくれたのだろう。
それなのに、さらなる抗議など。
「本当に、本当に……なにもされてません! ただ……」
だがその先を口にするのが憚られ、言葉が尻すぼみになって消えていく。
「ただ?」
まっすぐな目で射抜かれ、静かに促され、俯いてしまう。膝に乗せた手をぎゅっと握りしめ、その白い包帯を見つめる。
「……ただ……アレス様は、あの、夫婦の契りを交わす時……どうなのかと聞かれて……」
――リズ、愛してる。
またしてもその一言が脳裏に蘇り、再び胸が苦しくて息ができなくなるような錯覚に囚われる。呼吸を保つことに意識を集中し、なんとか胸の痛みに耐える。
「聞かれて?」
なのにこともなげに続きを促されて、握りしめる両手にさらに力がこもる。息ができなくなりそうで、ぴりぴりとした痛みに意識を集中し、よけいなことを考えないように努力する。
「………私、答え……られ、なくて………」
沈黙が怖くて、またぽろぽろと涙がこぼれた。
「本当は抱かれたことないんじゃないかって、言われて……それで……息ができなくなって………」
「――本当に、それだけか?」
溜息混じりだった。
疑っているわけではなく、本当にたったそれだけのことでと呆れ果てた溜息。
身が竦ませながら、なんとか頷いた。
「それだけのことで、なんで泣くのかわからない」
吐き捨てるような剣呑な声にますます身が縮む思いがして、涙が止まらなくなっていく。
「責務なら果たしていることにしておけと言っただろう。適当に話を合わせればすむことだ」
「情事の最中のあなたの様子を知ってる人に、どうやって話を合わせればいいのですか?」
勢い責めるような反撃をしてしまうと、彼は一瞬だけぎくりとして背中を撫でる手が止まった。
やっぱり、本当なんだと視界がぐるぐるまわり始める。ぎゅっと目を瞑って目眩を堪え、涙を止めようとする。
「私……私、知りません……っ」
けれどももう涙腺が壊れたんじゃないかと思うほど、涙が止まらなかった。堪えようと両手で目頭を押さえてみても、どうしても止められなかった。
「……わかり、ません……」
少しだけ躊躇う気配があって、背中をゆっくりと一撫でされる。
「それは……すまなかったな」
その手のぬくもりが胸に沁みた途端、つっかえたように涙がぴたりと止まった。
「けれど、それが倒れるほどのことか?」
さっきまでの苛立った声ではなくて、苦笑いだった。
少しだけ大荒れの胸中が凪いだ。けれど、口を開けば一緒にまた涙が出てきそうだったのでこくんと頷くだけに留めた。
「まさか彼女のお腹の子の父親が私だと疑ってるのか? 別れて以来、顔を見るのも今日がはじめてなんだが」
違う、と必死に首を振ると、また、溜息が聞こえた。
その溜息に、再び身が竦んでしまう。
「もし後ろ暗いことがあったらあなたと引き合わせるような面倒な真似は絶対にしないとは思わないか?」
それは私も何度も自分で言い聞かせたことだ。
けれど、返事ができずに口を閉ざしてしまう。
「……そんなに、私が信用できないのか」
「ち……違います! アレス様は絶対にそんなことをする方ではないと信頼しています!」
呻いた声が苦々しい自嘲を帯びているのが忍びなくて、声を荒げた。
「……ただ、昔のことでも………嫌、だったんです………」
言葉にすると、胸の中の黒い靄まで一緒に溢れそうで怖かった。
交際していたのは過去のことだ。
それは、揺るぎのないことだと思う。
それを疑っているわけではない。
……だけど。
「過去のことをどうこう言われてもどうにもできないだろう」
「……わかってます。わかって、います、けど……」
ビリビリと痛む喉から声を絞り出すが、うまく言葉にできない。
結婚する前の彼が誰となにをしていようと、過去を変えようもない。どうしようもないことをうじうじと文句を言われても困るだろう。
それはわかっている。
わかって、いるけれど――。
「妻でも婚約者でもない女性と関係を持つような男だと失望したか?」
また涙が喉を詰まらせて、ただ首を振った。
ショックを受けたのは確かだけれど失望したのとは違う。
ただ――彼は愛を囁きながら契りを結びたい、と言った。
彼女は、愛しているという言葉をもらった。
けれど、私は?
毎晩添い寝をしていても夫婦の関係を求められず、その言葉をもらえない私は?
「ディーネ、泣いてばかりいないでちゃんと答えてくれないか?」
溜息混じりに言いながら、遠慮がちに私の背中を撫でる。
「……なんというか、ディーネに泣かれるとどうしたらいいのかわからなくて非常に困る」
怖々と見上げたら、彼は子犬のアベルを撫でていた時と同じような困り果てた顔をしていた。
ずきり、と胸が痛んだ。
……私は、あの日のアベルと同じだろうか。
なんとなく捨て置けないだけ?
妹のように、あるいは愛犬のように、かわいがっているだけ?
(……い…や…………)
じわり、とそんな想いが胸の奥に滲む。
(………そんなの、嫌………っ)
あの日からずっとずっと、アベルに向けてくれた情を私にも向けて欲しいと思っていたはずなのに、今はなぜか、心の奥底から呻きのような悲鳴のような思いが次々と湧きでてくる。
「もし――……もし、リズベット様がまだ、アレス様に未練を残されていたら?」
恐怖に突き動かされたが、率直に「あなたの妖精は彼女ですか?」と聞くほどの勇気はもてなかった。
妖精――夢幻のように、手の届かない想い人。
それは、彼女のことではないだろうか。
彼女の良縁のために身を引いて、ひっそりと想い続けているとしたら、すべての辻褄が合う。
心が、散り散りに引き裂かれそうだった。
……私は、愛されることを求めてはいけないのに。
なのに、彼女のように愛していると言って欲しかった。
妖精なんか忘れて、私を――
「未練? 恨みの間違いじゃないのか。手酷く捨てたからその腹いせだろう」
そんな心の痛みとは逆に、彼はこれ以上ないくらい盛大に眉をしかめた。
「……アレス様をお慕いしているから恨みにもなるのでしょう?」
「どちらにしろ、関係ないな」
彼は鼻で笑いきっぱりと言い切ると、唐突に私の顎を掬って強引に見上げさせた。
まっすぐな視線に射抜かれ、心臓が跳ねた。
「ディーネ、私の妻はあなただ」
じん、と心が震え、全身がざわりと粟立ち、直前の思考が吹き飛ぶ。
「…………は……い……?」
放心しているうちに、両腕で強く抱き竦められて耳元に顔を寄せられる。
「選んだわけではなくとも、私の妻はあなただ。……私は、その幸運に感謝している」
愛しているとは、一度も言ってくれない。
言ってくれないけれど――どうしてそう、愛されていると夢をみたくなる言葉をくれるのだろう。
もどかしくて、切なくて、泣きたくなる言葉を。