憂鬱なお茶会3
(……昔の、ことよ)
余計なことまで思い出してさらに泣きたくなったが、自分を叱咤してそれを留める。昔のことだと何度も自分に言い聞かせ、息を整えようと努力する。
(でも――でも、昔だとしても………)
そんなことを考えてしまう自分が嫌なのに、際限なく何度もぶり返してくるその思考を止める方法がなかった。
そしてふと、最近彼はとても優しくしてくれるからついうっかり忘れていたことを、思い出す。
あの人は、妖精に心を奪われたのだという。
妖精――夢幻のように手の届かない想い人が、あの人の心の中にずっといるのだということ。
(もしかして……もしかして、アレス様の妖精って――)
「ねぇ、どうなの?」
重ねて問われ、現実に意識を引き戻される。
もはやこれ以上何も言わないわけにはいかず、ふるえないようにするのが精一杯のひきつった喉をなんとか絞った。
「……こんな席で……そんな、話……」
リズベット様は背を仰け反らせて口元に手を添え、嘲り笑った。
「あははっ、さすがは王家にも縁のある高貴なお家柄の出身。品がよろしいのねぇ」
こんなにあからさまな嘲りを面と向けられるのは初めてだった。
喉がひきつって声が出ない。
リズベット様は自分の体からするりと手を離すと、暗闇で光る猫のようにきらりと目が輝かせた。妖艶とも思えるしなやかな動きで私の顎に指を滑らせる。
「いいじゃない。女だけのお茶会なんだから。……それとも、答えられないの?」
悪意むき出しの言葉が、冷徹な視線が、ぐさりと刺さる。
「あの、ちょっと、リズベット様――?」
ミラリア様がやんわりと制止しようとするのも聞かず、リズベット様は続けた。
「本当はあなた、彼に抱かれたことないんじゃなくて?」
勝ち誇ったような笑みを見たのを最後に、目の前が真っ赤になり――続いて暗転した。
「リズ、いい加減になさいな。みっともないわよ」
肩を抱く細い手と強く窘めるロレッタ様の声に、うっすらと意識が浮上する。
多分、気を失ったのはほんの一瞬だろう。
朦朧とした意識の端のほうで、ふんっと鼻息荒くサンルームを出ていく足音が聞こえた。
力が入らなくて、支えてくれているロレッタ様に寄りかかったまま、ぱちぱちと目をしばたいて意識を引っ張り上げ、浅い呼吸をなんとか深く整えようと意識する。
「……大丈夫?」
優しく気遣ってくれるロレッタ様に、頷くのが精一杯だった。
「目眩が………した、だけ……ですから……」
そう言ったものの、手が、声が、震えていた。
力が、入らなかった。
顔をあげることすらままならない。
強く握った手のひらに爪が食い込んで痛い。
なのに、どうやったら手を開けられるのかわからない。
息が、苦しい。
苦しい、苦しい苦しい………っ。
「落ち着いて、ゆっくり呼吸して?」
そんなことを言われても、どうやって呼吸したらいいのか、よく、わからない。
ただ苦しいからひゅっと短く息を吸って、つっかえながらなんとか吐き出しているけれど、それだけで喉が、頭が、裂けるように痛かった。
喉がつっかえる感覚も、息ができなくなることも、意識が飛ぶのも、魔女の呪いで何度も経験してきたことだ。
けれど、これは、今までのそれとは感覚が違う。
胸が苦しい。あちこちが痛い。
全身が痺れたように、言うことをきかない。
(アベル……アベル……っ)
必死に、脳裏にあのあたたかなアイボリーの毛並みを描き、あの天日干しした寝具のような匂いとぬくもりの記憶に縋った。
あの子のあたたかな毛皮に顔を埋めて、声をあげて泣いたら、この息苦しさから解放されるような気がした。
でも、でも、アベルはここにはいない。
代わりにふわりと香る水仙の香りが鼻腔をくすぐり、吸い込もうとしていた息を、また止めてしまう。
「リズベット様、急にどうしたのかしら? らしくないわ」
「嫉妬じゃないの? 彼女、アレス様に捨てられたじゃない?」
「でもイグニス様ととても仲がよろしくってよ?」
「あなたたちもおやめなさい!」
声をひそめてはいても、頭の中で反響してかしましく聞こえる夫人達の会話が、ロレッタ様の一喝でぴたりと凪いだ。
「……ごめんなさいね、気にしないで」
静かな空気の中でロレッタ様が背中をさすりながらそっと囁いた。
「――と言っても、無理かしらね。とりあえず横になったほうがいいわ。顔色が真っ青よ」
頭がぐらぐらしていて、体の感覚が遠い。意識の外側をそんな言葉たちが流れていく。
「ねぇ、誰か今すぐに休める部屋を用意して。それと……アレス様を呼んであげて――」
まわりに声をかけているロレッタ様の言葉にはっとし、彼女の腕に必死に縋りついて首を振った。ガチガチに固まっていた体をいきなり動かしたものだから勢い余ってロレッタ様を巻き込んで倒れ込んでしまった。
(やめて。会いたくない!)
必死に訴えたつもりだったが、喉がひきつっていて声は出なかった。代わりに、ぼろぼろと涙がこぼれた。
(こんな気分で、あの人に会いたくない……!)
けれど起きあがって私を抱き直したロレッタ様は察してくれたようで、ゆっくりと頷いたように思えた。
空気を吸いすぎた胸が苦しくて、目眩がひどくて。
それ以上はっきりと状況を認識することができなかった。
ただ、ゆっくりと背中をさすってくれる感触が、あたたかかった。
「……こんなこと、気休めかもしれないけれどね、リズがアレス様とお付き合いしていたのは6年も前のことなのよ」
ばたばたと人が走り回る物音や話す声。そういう喧噪が頭に響いてひどく不快だった。
その中で、ずっと背中をさすり続けてくれるロレッタ様が子守歌みたいにゆっくりと静かに語っているのが、緩やかに耳に入ってくる。
その声に縋るように、全神経を傾けた。
「あの人が妖精なんているかわからないものに心を奪われて別れることになって――なのに、あなたと一緒にいてあんまり幸せそうだったから……」
幸せそう? アレス様が?
「今、アレス様に愛されてるのはあなたなんだから堂々としていればいいのよ」
……愛されている?
本当に?
――リズ、愛してるって。
だって、私にはその言葉を、一度もくれたことがない。
一度も、ないのに……?