憂鬱なお茶会2
(……彼、って……)
一言ずつ、言われたことを反芻すると、なにか胸の中に黒い靄のようなものがかかっていく。
声がしたほうを向くと、リズベット様が怜悧な笑顔で私を横目に見ながら隣に寄り添うようにぴたりと立ち、ティーポットをゆっくりと回している。
(……あの時……って……?)
頭の芯まで凍り付いて、その言葉の意味をうまく理解できない。
理解したくないと心が拒絶しているのだという自覚が先に生まれ、それからじわりじわりとその言葉の意味が染み出していく。
全身の血という血が全部へどろになってしまったような酷い気分がした。
(まさか……そんな……はずは……)
彼は仕事で出かける以外は、部屋から出るのも億劫がるような出不精だ。
しかも極度に人付き合いを拒んでいる。
そう、自分に言い聞かせる。
「でも夢中になっちゃって最後に愛してるって叫びながら達するのがかわいいの。リズ、愛してるって」
隠しようもない動揺を満足そうに薄ら笑いで眺めたリズベット様は得意げに耳元に囁き続け、私のティーカップに紅茶を注いだ。
「……っ!」
凍り付いて真っ白になっている頭の中に、あの、初めて夜、オレンジ色の灯りに素肌を晒す彼の姿が生々しく思い起こされた。
けれど、彼がベッドの中で抱き寄せているのは、私ではなくて、そして、囁く。
――リズ、愛してる。
そんな想像がわき上がってきて、悲鳴と吐き気が一度に迸りそうになって慌てて口元を手で覆った。
「……っ、…………!」
溢れてくる涙を堪えようときつく目を瞑って息を殺す。
目を閉じた途端に瞼の裏に再び睦み合う姿が浮かぶが、あの人がそんなことをするはずがないと強く念じて打ち消す。
打ち消しても打ち消しても、その妄想はまるで霧か幻をかき分け、振り払おうとしているように指の間をすり抜けてしまう。
「あら、マフィンを喉に詰まらせてしまったのかしら? どうぞ、お茶でも飲んで落ち着いて?」
手つかずのマフィンを一瞥しながら、リズベット様は素知らぬふうで紅茶カップを差し出した。
「………あ、ありがとう…ござ…い……ま……す………」
その悪びれた様子のない所作に、なにか空耳でも聞いたのだろうかとすら思えて余計に頭が混乱する。
ぐちゃぐちゃになっている頭ではなにも考えられなかった。
だからただ言われるままにふるえる手で差し出された紅茶を受け取った。
けれど、手の震えがどうしても止まらずに、カップとソーサーがかちゃかちゃと音をたて、紅茶がこぼれていく。
他の夫人達に彼女の囁きは聞こえていないのだろうから、不思議そうな視線が痛いくらいに刺さった。
熱い紅茶から立ち上る湯気で一瞬視界が閉ざされたように思えた。
(……違う)
目眩がして自分で目を閉じただけだった。
(………落ち着いて)
ゆっくりと呼吸することを心がけ、そんなこと絶対にあり得ないと必死に自分に言い聞かせる。
人付き合いが面倒で仕方ないというあの人が不貞をはたらくわけがない。まして人妻とか、そんな、どう足掻いても泥沼の人間関係を――。
何度も何度も自分に言い聞かせながら、ゆっくりと紅茶をソーサーごとテーブルに置く。
できるだけ深く呼吸するよう努め、強く目を閉じ、ふるえる手を握る。
だが、逆効果だった。
目を閉じるとアレス様が彼女と睦み合う姿が再びまぶたの裏に浮かんで、吐き気と涙が止まらなくなりそうになるだけだった。
「あぁ、思い出すだけでぞくぞくするわ」
やむなく目を開け、もはや囁き声ではなく堂々とさらなる追い打ちをかけるリズベット様をぼんやりと見つめた。
彼女は空を仰いで自分の体を抱きしめ、恍惚とした表情を浮かべている。
周りの視線など気にしていないようだった。
まるで、周知のこととでも言うように。
彼女のドレスは胸の下で寄せられていてあとは裾までゆったりしているから、彼女がそうやって自分の腰に腕を回して初めて気が付いた。
おなかが、少し膨らんでいる。
腑をぐちゃぐちゃにかき回されたような気分がして、頭がぐらぐらした。
「……ねぇ、彼は今もそうなのかしら?」
再度耳元に囁かれた言葉にはっとして、凍り付いていた思考が少しだけ溶け出した。
今もということは、昔のことだ。
わずかな光明に縋って、賢明に気持ちを持ち直し、ぐちゃぐちゃな頭の中を整理する。
そして、ようやく思い出した。
(あぁ、この人が……あのイグニス様の、奥方様……)
彼女とは年齢差があるからすぐにその人に結びつかなかったが、ランドハイア伯爵イグニス様とは面識があった。
ランドハイア伯はこの地方の代表者として時々王都付近にも顔を出していたし、父の従兄弟にあたる人で何度もグラ家の屋敷に遊びにきている。
とても人情味があって父親みたいにあたたかい人だったのを、覚えている――。
「妻は好意を寄せる相手がいたのに親が勝手に私との縁談を決めてね。しかも、15も歳の差のある、こんな爺なんかに。……かわいそうなことをしたよ」
4、5年くらい前のことだ。
お父様とワインを酌み交わしながら、ふいにイグニス様はそう言った。
自分では爺なんて言っているけれど、イグニス様は当時まだ30代前半だし、品のいい騎士然とした立ち振る舞い――アベルも敬愛しているようだった――がとても好感の持てる美丈夫だ。
「仕方のないことだろう」
そう応じたお父様に彼は静かに首を振り、私に悲しそうな笑顔を向けた。
「ロランの大事な姫君はそろそろ好きな人ができたかい?」
「…………アベルでしょうか」
少し考えてから真剣にそう答えたら、お父様とイグニス様に笑われた。
「アベルはさすがに無理でも、彼女はちゃんと好意を寄せる相手に嫁がせてあげるべきだよ、グラ公爵」
お父様は私の頭を撫でながら、苦々しく笑うに留めていた。
普段は“ロラン”と親しく名前で呼ぶイグニス様が珍しく父を爵号で呼んだのはグラ家の呪いを示唆しているのだろうと思うと暗澹とした気分になる。
「……叶わない想いほど辛いものはない。私は身に染みてそう思うよ」
呻くように呟いた伯爵のその表情に、妻をどれほど大事に思っているのかが滲み出ていた。
「こんなに大事にしていただいても、奥様は幸せそうではないのですか?」
お父様はずっと強くお母様を想い続けていて、だからお母様は絶対幸せだっただろうと勝手に思っていた。だからなんだか不思議で、つい考えもなしにそんな言葉が口をついた。イグニス様は困ったように口元を綻ばせ、お父様は軽快に笑った。
「ほら、くさってみせたって、想いが叶った幸福もその身に染みていることくらいディーネにまでわかるらしいぞ」
お父様はそう言ってから、きょとんとしてしまっている私を見た。
「あいつは照れてああ言っているだけで、本当は奥方が自分に好意を向けてくれるまで結婚を何年も先延ばしにし続けて最近ようやく結婚したばかりだよ。まったく律儀で堅苦しい奴だ」
お父様が笑いながら説明して、イグニス様は憮然とした。
「ロランが軽いだけだ。何人泣かせた?」
「……ディーネの前で昔の話はやめてくれないか」
見事に意趣返しが成功してお父様に苦虫を噛み潰したみたいな顔をさせて満足したイグニス様は、私に向かって笑いかけた。
「あぁ安心して。ロランはその有り余るほどの愛情をありったけマルティナ様に注いでたからね。公爵から奪い取るくらいの猛烈な求愛っぷりで氷の剣の異名を持ってたマルティナ様の心を溶かしてしまったほど…で………」
お父様の苦笑いが、重く沈んでいくことに気づいた彼はそれ以上の言葉を飲み込み、代わりにすまなかったとだけ呟いた。
その後、伯爵が寝入ってしまうと、お父様は悲しげに笑って私の頭を撫でて、言ったのだ。
お前が望むなら生涯独り身でいてもかまわないし、好きな男がいるならそいつに嫁いでもいい。私にはお前の一番の幸せが何かわからないから、お前は自分で一番幸せだと思う道を選びなさい。そのために私にできることがあるなら、何を犠牲にしてもかまわないから、と。
そして、私を強く抱き寄せて、どうか幸せになってくれと言った。
そのお父様の声は、涙に濡れていた――。