ラズベリーパンの香り
「お前、よくそのパン食ってるよな」
「ああ、そうだっけ?」
早弁代わりにと俺が口にしたパンを見て、隣を歩く友人が呆れたように笑う。
ベリーがいっぱいのったデニッシュパン。いちごやらラズベリーやらぶどうやら。
いや、だってこれ安いからさ。それだけだよ。
「あ、佑樹! ばいばいっ」
教室移動の途中、廊下の角で偶然目にした一人の女に、胸の奥から甘酸っぱい想いがぐんと込み上げてくる。
酸っぱい思いの方が、ちょっと勝ってるかな。
いつもこのパンを食べてしまう理由なんて、本当はわかってる。安いから、なんて理由だけのわけがない。
紗季からは、いつもこの香りがしたから。
屈託のないその笑みで、彼女の中で俺のことは終わったのだと実感する。
当たり前だ。俺が終わらせたんだから。
「おぅ」
軽く返事をして手をあげると、何事もなかったかのようにすれ違う。
でも俺は。まだ、引きずってるんだよな――
ラズベリーの香りがふわりと鼻を通った。
* * *
小学校に入学してすぐに仲良くなったのが紗季だった。
「紗季ちゃん! 遊ぼ!」
「うん! 今日はどこで遊ぶ?」
毎日毎日遊んでたんじゃないかってくらい、一緒にいた。
紗季はいろいろ習い事もしてたのに、空いた日はずっと遊んでてくれた。
それから何年かクラスは離れて、高学年になって久しぶりに同じクラスになった。
ほんのささいなことをきっかけに、クラスで浮いてしまってた俺にも態度を変えず、それどころか一番仲良くしてくれた。
小さい頃と、変わらずに。
俺が引っ越すって聞いて、泣いてくれたこともあったっけ。
「いや、隣の小学校なんだけど」
「佑樹の馬鹿!」
そんな幼い頃のやりとりが、今じゃどうしようもなく懐かしい。
隣の小学校になっただけだったから、中学に入ればやっぱりお前がいて。
違う小学校にいたのなんてたったの1年ちょっとだった。
でもなんだか照れくさくって、昔のように話すことは出来なかった。小学校の頃別のクラスだった時間の方が絶対長いのにな。
図書委員で二人きりになって、やっと話し始めた。
「笠岡。この本どこだっけ」
「あっちの右から二番目」
なぜか昔のように紗季とは呼べなくて。
でも、少しずつ話しているうちに、確実に距離は縮まっていった。
次の年には同じクラスになった。
席が近くなったときには手紙を回して、その内容に必死で笑いをこらえたり。
休み時間に黒板消しで叩きあうなんて、小学生みたいな真似もした。
馬鹿みたいに騒いでただけ。きっと忘れてしまう、しょうもない時間。
そう思ってたけど、覚えてる。ちゃんと、覚えてる。すごく、楽しかったから。
行きたい高校も一緒で、勉強も教えあったっけ。
いや、たまたまだからな。
別に一緒の高校に行きたかったわけじゃない。俺の成績が思うように伸びなかったから、たまたま一緒になっただけだ。
一足先に推薦で高校合格を決めたあいつは涙目で小さな小さなくまのぬいぐるみを差し出した。
「絶対、同じとこ行くって約束したんだからね。破るとか、許さないから」
「え、これは?」
「私のお守り。試合もテストも、全部この子と一緒にやってきたから」
ワンランク落としてるんだから、落ちるわけないよ。
「人のお守りの効果薄めないでよね!」
でも、ありがとな。
やっぱり中学生なんて子供だ。はじめて人生の分岐点に自分一人で立たされて、どれだけ怖かったか。どれだけ不安だったか。
あの小さな小さなくまのぬいぐるみにどれだけ大きな力があったか。
そう、だから俺は今ここにいるのだ。
ふと振り返る。
紗季は廊下の角でこちらを見ていた。
交わるはずのなかった視線が交わって、紗季は泣きそうな顔で微笑んだ。
そして、背中を向けた。
別に大きな喧嘩をしたとか、そういうわけじゃない。
でも、何度もそんな顔をさせた。
だから俺はお前から離れることを決めた。
『別れよう』
直接会わずに、すべてメールで。
最低だということは分かってる。でも、それでも、会えばきっと、別れたくなくなってしまうから。
そうしてまた、俺は君を傷つけてしまうから。
だって、どうしたらいいかわからない。幸せにしてやるなんて、言えない。どうしたら紗季が幸せなのか、わからないから。
ただ傷つけるだけなら、傷ついた顔をさせるなら、離れた方がいい。
いくら好きだと心の中で叫んでも、もうそれは届かない。
その言葉はもう、口に出すことも、決して許されない。
もう俺のものではない。
だけど最後に1つだけ、願いを聞いてくれないか。
……誰のものにも、ならないで。